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シンとトニーのムーンサルトレター 第057信

第57信

鎌田東二ことTonyさんへ

 また、満月の夜がやってきましたね。Tonyさん、お元気ですか。きっと忙しい毎日をお過ごしのことでしょうね。わたしも、ここのところ非常に慌しく過ごしています。

 最近、2冊の本を上梓いたしました。1冊は、『また会えるから』(現代書林)です。
これは、愛する人を亡くした人のためのグリーフケアワーク・フォトブックです。先立って、グリーフケアワークの書である『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)を刊行し、その中から「また会えるから」というグリーフケア・ソングが誕生し、CDも発売されました。この歌の作詞は、わたしが手がけました。

 「また会えるから」という言葉には希望と祈りが込められています。死別はたしかに辛く悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。人は必ず、また愛する人に会えるのです。この世界には、さまざまな信仰や考え方があります。しかし、どれもが故人との再会を約束しています。

 アニミズムの世界では、風や光や雨や雪や星として会える。また、夢で会える。キリスト教をはじめとした「天国」にしろ、スピリチュアリズムの「霊界」にしろ、あの世で会える。「輪廻転生」を信じるならば、生まれ変わって会える。そして、月で会える。

 それぞれの世界観や死生観は異なるにせよ、いずれにしても、必ず再会できるのです。ですから、わたしは死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのだと思っています。先に行く人は「では、お先に」と言い、後から行く人は「後から行くから、待っててね」と声をかけるのです。それだけのことなのだと思うのです。

 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶に「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうですし、英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。

 これは、どういうことでしょうか。古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望をもつことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるということを人類は無意識のうちに知っているのだと。その無意識の底にある真理が、別れの挨拶に再会の約束を重ねさせているのだと。わたしたちは、別れても、必ずまた、愛する人に再会できるのです。そういった想いを詩に込めました。

 また、本書では、わたしの詩に美しい写真が添えられています。沖縄在住の写真家である安田淳夫さんが撮って下さいました。安田さんの撮影する海や太陽や月の写真は本当に美しく、ながめていると何だか泣きたくなってきます。そこには、大きな「癒し」の力が秘められています。今回、その「癒し」の力をお借りしました。このフォトブックが、愛する人を亡くされた多くの方々の悲しみを癒してくれれば、嬉しいことです。

 上梓したもう1冊は、『葬式は必要!』(双葉新書)という本です。いま、日本人の冠婚葬祭、特に葬儀を取り巻く環境が激変しています。 家族葬、密葬から、現在は直葬が非常に増えてきています。その背景には様々な要因があるのでしょうが、一つには、日本社会全体が「無縁社会」になってきているということだと思います。この「無縁社会」は、NHKスペシャルで1月31日に放映されて大変な反響を呼びました。なんと、1年間に3万2,000人もの人たちが無縁死されているそうです。もう一つは、島田裕巳氏の『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という本が非常に売れているということです。このような「葬式無用論」というものが再登場し、「無縁社会」と同様に現代のキーワードになっています。

 はっきり言って、葬式が要らないはずがありません! あらゆる生命体は必ず死にます。もちろん人間も必ず死にます。 親しい人や愛する人が亡くなることは悲しいことです。 でも、決して不幸なことではありません。 残された者は、死を現実として受け止め、残された者同士で、新しい人間関係をつくっていかなければなりません。 葬式は故人の人となりを確認すると同時に、そのことに気がつく場になりえます。 葬式は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現であり、最大の自己表現の場ではないでしょうか。「葬式をしない」という選択は、その意味で自分を表現していないことになります。

 本書を書くにあたり、「葬式は必要なことは、だれもがわかっているから、あえて『葬式は必要』などという本はいらないのでは」という声を聞きました。数年前なら、たしかにそうだったでしょう。冠婚葬祭業を営むわたしにとって、結婚式も葬式も、ここ数年の変化は驚くほどです。結婚式においては「個人」や「自由」をキーワードとして結納も仲人もなくなりつつあります。一方、葬式においても従来のスタイルにとらわれず、自由な発想で自分や故人を送りたい、という人が増えてきています。また、「葬式などする必要がない」「何のために、あんなことをするのかわからない」と言われる方さえいます。

 実際、わたしたちも団塊の世代を中心に、新しい葬式のスタイルを提案かつ実施し、また新たなスタイルを考案しています。葬儀は今、従来の告別式をアレンジした「お別れ会」などが定着しつつあります。やがて通夜や葬式そのものにも、目がむけられていくにちがいありません。葬式はなくなるどころか、これからは一人の人間にとって、究極の「自己表現」となっていくことでしょう。

 人生最期のセレモニーである「葬式」を考えることは、人生のフィナーレの幕引きをどうするのか、という本当に大切な問題です。フランスの箴言家ラ・ロシュフーコーは「死と太陽は直視できない」との言葉を残していますが、葬式を考えることで、人は死を考え、生の大切さを思うのではないでしょうか。

 「死んだときのことを口にするなど縁起でもない」と、忌み嫌う人もいます。果たしてそうでしょうか。 わたしは、葬式を考えることは、いかに今を生きるかを考えることだと思っています。 だから、講演会などでは「自分の葬義をイメージしてみて下さい」と呼びかけます。続いて、「そこで、友人や会社の上司や同僚が弔辞を読む場面を想像して下さい」 そして、「その弔辞の内容を具体的に想像して下さい」と語りかけるのです。 そこには、その人がどのように世のため人のために生きてきたかが克明に述べられているはずです。 わたしは、「葬儀に参列してくれる人々の顔ぶれも想像して下さい」と言います。 そして、みんなが「惜しい人を亡くした」と心から悲しんでくれて、配偶者からは「最高の連れ合いだった。あの世でも夫婦になりたい」といわれ、子どもたちからは「心から尊敬していました」と言われることをイメージしてほしいとお願いするのです。

 自分の葬儀の場面というのは、「このような人生を歩みたい」というイメージを凝縮して視覚化したものなのです。 そんな理想の葬式を実現するためには、残りの人生において、そのビジョンを実現すべく生きざるをえなくなるのです。

 また、日本人は人が亡くなると「不幸があった」などと言います。でも、死なない人はいません。どんな素晴らしい生き方をしようが、すべての人が最後に不幸になるというのは、絶対におかしいと思います。人生を負け戦にしてはなりません。葬式という儀礼には変えてはいけない部分と変えてもいい部分とがあります。やわらかな発想で新しい葬式の時代が開かれ、「あの人らしかったね」といわれるような素敵な人生の卒業式を実現するとともに、いつの日か日本人が死を「不幸」と呼ばなくなることを心から祈っています。

 村上春樹氏の新刊『1Q84』BOOK3が大きな話題を呼んでいますが、わたしが最も関心を持ったのは、物語の終盤に出てくる葬儀の場面でした。 主人公の一人である天吾の父親が亡くなりますが、生前はNHKの集金人をしていました。そして、棺に入るときにはその制服を着せてほしいと遺言します。天吾は、とまどいながらも、父の希望をかなえてあげます。父親の葬儀は通夜も告別式もない、そのまま火葬場へ直行する「直葬」です。 火葬に立ち会う人間も、息子である彼一人だけ。そこへ、病床の父を介護した若い看護婦である安達クミが付き添ってくれます。

 これで父を送る「おくりびと」は二人になりました。 「一緒に来てくれてありがとう」と礼を述べる天吾に対して、安達クミは、「一人だとやっぱりきついからね。誰かがそばにいた方がいい。そういうものだよ」と答えます。「そういうものかもしれないな」と認めた天吾に、安達クミは次のように言うのです。

 「人が一人死ぬというのは、どんな事情があるにせよ大変なことなんだよ。この世界に穴がひとつぽっかり開いてしまうわけだから。それに対して私たちは正しく敬意を払わなくちゃならない。そうしないと穴はうまく塞がらなくなってしまう」

 この言葉は、わたしがつねづね言っていることだったので、本当にびっくりしました。世界にぽっかりと開いた穴に落ちないための方法、それこそが「葬式」と呼ばれるものです。

 人類は、気の遠くなるほど長い時間をかけて、この「葬式」という穴に落ちないための方法を守ってきました。

 そして、今後はそうなるか。葬式は時代に合わせ、変わっていくべきです。実際、長い歴史の中で葬式は変わってきました。昨年、生誕100周年を迎えたピーター・ドラッカーは「マネジメントの父」と呼ばれます。ドラッカーは企業が繁栄するための条件として、「継続」と「革新」の二つが必要であるとしました。これは、企業だけでなく、業界や文化にも当てはまることではないでしょうか。良いものはきちんと継続してゆく。時代の変化にあわせて変えるべきところは革新する。葬式という文化にも、「継続」と「革新」が欠かせないと思うのです。本書では、「月面聖塔」や「月への送魂」や「解器」といった、新しい「送りかた」についても紹介しています。

 でも、いくら「送りかた」のスタイルが変化したとしても、葬式が要らないということは絶対にありません。葬式は人類の存在基盤です。昔、「覚醒剤やめますか、人間やめますか」というポスターの標語がありましたが、わたしは、「葬式やめますか、人類やめますか」と言いたいくらいです。つまるところ、「葬式は必要!」なのです。

 どうか一人でも多くの方に本書を読んでいただき、「あの人らしかったね」と言われる、あなたらしい葬式を用意してほしいと思います。そして、多くの方々が見事な「人生最後の檜舞台」「有終の美」「グランド・フィナーレ」を飾られることを心より願っています。島田裕巳氏も、自身のブログで『葬式は必要!』を取り上げ、こうした反論本が出ることは好ましいと述べていました。たしかに意見の違う者同士が発言し合えるというのは素晴らしいことだと思います。これぞ言論の自由であり、これぞ民主主義ですね。

 今回は、拙著の話で終始してしまいました。『また会えるから』と『葬式は必要!』の2冊は、Tonyさんにも送らせていただきました。ご笑読のうえ、ご批判下されば幸いです。それでは、次の満月まで。オルボワール!

2010年4月28日 一条真也

一条真也ことShinさんへ

 今、沖縄の名護市にいます。ホテル山田荘の一室で、ムーンサルトレターの返事を書き始めます。4月30日から、明日5月3日まで、沖縄のNPO法人沖縄映像文化研究所と沖縄大学といくつかの御嶽と古宇利島とヤンバルを訪ねて、久高島のドキュメンタリー映画「久高オデッセイ第二部 生章」や第三部のことを話し合ったり、確認したり、また沖縄大学学長の加藤彰彦氏(ペンネーム:野本三吉氏)との面談したりと、息つく暇なく動き回っています。

 京都を出てくる前に、Shinさんから送っていただいた『また会えるから』と『葬式は必要!』の2冊の本をざっくりと読みました。いつもながらの新刊本のご恵送、まことにありがとうございました。とりわけ、『葬式は必要!』は、島田裕巳さんの『葬式は要らない』のアンサーブックということもあり、興味津々で読み進めました。

 そうしたら、第3章だったかに、近藤高弘さんとわたしたちが進めている「天河火間(てんかわかま)」や「解器(ほどき)」制作のことが取り上げられていて、そのすばやい反応に驚きつつも、ありがたく思った次第です。いろいろな機会を通じて、自分たちの生き死にを考え、それに向かい合ういとなみとしての「解器(ほどき)」制作の活動を発信していきたいと考えていたので、大変力強い心持ちがしたわけです。

 自分の骨壷を自分で作るなんて、気持ち悪いとか、不吉だとか、ナンセンスだとかと思っているとしたら、そうした思いや意識を含めて、死ぬとはどのような事態なのか、死んだ後はどうなるのか、もちろん、霊的な次元でたましいがどうなるか、死後の世界の有無も含めた問題もあるわけですが、自分の死体がどう処理されるか、遺された人々によってどのような対応がなされるかを含めて、自分の越し方行く末を考えておく必要があると思うのです。

 わたしはShinさんと同様、葬式も結婚式も、各種儀式が必要だと考えていますが、その儀式・儀礼のありようはさまざまな形態があってよいと思っています。伝統的なやりかただけでなく、この今新たにデザインされた儀式・儀礼もあっていいと。むしろ、そのような新様式の儀式・儀礼がデザインされるべきだと思っています。

 そんな新しい儀式の一つが「アースデイ」です。世界中でその日、母なる地球に対して、感謝や祈りや認識の深めが行われていますが、日本でも各地で「アースデイ」のイベントがこの十数年行われてきて、去年から、明治神宮の森の一角で「いのちの森」が開催されています。そこでは、思い思いの祈りや儀式・儀礼、物語、舞踊、音楽、ストーリー手リング、物語など、実に多種多様なスタイルで、八百万(やおよろず)的に儀式・儀礼が表現されています。

 わたしは、事務局長(世話人・幹事役)のこうちあきお君に頼まれて、4月17日(土)・18日(日)の2日間にわたる催しの初っ端に、野中ともよ実行委員長の開会の挨拶の後に、石笛と法螺貝の奉奏と口上の奏上を行いました。その口上は次のようなものでした。


アースデイいのちの森口上

 この明治神宮のいのちの森に集うすべてのいのちあるもの、たましいあるもの、存在しているすべてに心からの感謝と敬意を表します。

 二十一年前の一九八九年、平成の世となりました。その元号は、世の中が平和に成ることを願って付けられたのだと思いますが、しかしながら、世界は「平成」すなわち平和に成るどころか、その反対に、大きく乱れ、乱世の様相を呈し始めました。

 今、世界は異常気象と悪意と暴力と策謀の渦巻きの中にあるといえるでしょう。けれども、そのような悪や暴力の力が強まれば強まるほど、わたしたちの心の深いところで、それを乗り越え、より善きもの、より美しいもの、より崇高なるものを求める気持ちも強くなってきます。真善美、世界の平和、人々の幸福、いのちの喜びと安らぎを願う純粋な心がより鮮明になってきます。

 そのような切なる思いを以って、わたしたちはこのいのちの森の集いに参加しました。わたしたちはまず、この宇宙の中に生を享けたこと、日の恵みや水の恵み、また天地自然の大いなる恩恵をいただいていること、その有難さに心よりの感謝を捧げます。その恵みを素直にいただき、まことを奉げてお応えし、アースデイに心を寄せる人々と、またそうでない人びととも共に一緒に歩んでまいりたいと思います。

 わたしたちの祈りが大きな大河となって人々といのちあるもの、存在するすべてのものをつなぎ、包み合い、本当の安らかさと豊かさが育まれていきますように。この世にあるかけがえのない一人一人の天命・使命が全うされますように。清らなる天からの贈り物である水が万物を潤し、つなぎ、包み、寿ぎと喜びのコーラスを奏でますように。

   神ながらたまちはえませ
   神ながらたまちはえませ
   神ながらたまちはえませ


 昨年も、ほぼ同時期に石笛・法螺貝・口上の奏上を行いましたが、今年は朝9時半過ぎに代々木の森に入ると、雪が積もっていました。そこで、急遽、冒頭のセレモニーが森の中ではなく、明治神宮の参集殿を借りて行われることになり、こうちあきお君とともに急ぎ移動して、冒頭のセレモニーに参加しました。そこでは、この母なる地球がどのようなふるまいをしても、それに対して心からの感謝や祈りを捧げながら、その現象をそのまま受け入れつつ、そこに込められているメッセージを未来への意思として読み取ろうとするポジティブな感性が横溢していました。

 わたしはネクラな人間で、人類がいつか滅亡するだろうと思っている者ですが、だからこそ、仮にそうなったとしても、最後の最後までよりよき生存、より豊かな生存の形を希求し、実践すべきだと考えている者ですが、何があっても慌てず騒がず動ぜずに現象をそのまま受け止めつつそこから未来を切り拓く静かな覚悟とでもいうべき意識が胎動してきているように思いました。

 Shinさんが株式会社サンレーの事業として展開している伝統的でありながら新しい儀礼の形とは異なるものの、多様で、肩の力を抜いた儀式の新様式が生まれてきているようにも思います。

 さて、沖縄のことですが、この2日間、那覇市のNPO法人沖縄映像文化研究所と沖縄大学でいろいろと話し合い、打ち合わせや議論を重ねましたが、夜の10時すぎに宿泊しているウィークリーマンションに歩いて帰るのですが、なんと、そのウィークリーマンションの3軒隣が株式会社サンレーが経営する「セレモニーホール・紫雲閣」だったのです。その前を通り過ぎて、わたしはそのすぐ近くのマンションの9階の角部屋までエレベーターで上がるのでした。Shinさんが社長をしている会社のセレモニーホールのすぐそばで沖縄での仕事をしているのかと思うと、何か、不思議な縁を強く感じました。

 NPO法人沖縄映像文化研究所理事長の大重潤一郎監督の映画『久高オデッセイ第二部 生章』の製作をわたしが担当していますが、久高島の現状がどのようなものかも、この2日間でつかむことができ、また東の久高島と並んで西の「神の島」と呼ばれる古宇利島に初めて入りました。大重潤一郎監督と沖縄大学専任講師で映像民俗学を専攻する須藤義人さんと一緒に。須藤さんはこの映画の助監督を務めてくれています。

 今日はこの3人で朝方那覇市を出発し、まず米軍基地問題で大揺れに揺れている辺野古地区に向かいました。辺野古の海に基地建設反対運動を展開している人たちのテントや展示場があり、それを見ました。そこに犬が一匹腹這いになってすわっていたので、近づいていって頭や首を撫でていると、感じのいい男性が横に来てにこやかに笑いかけてくれました。

 そしてその場を離れようとした時、いきなりカメラを向けられ、「どこから来たのですか?」、「何を感じましたか?」と矢継ぎ早に問いかけられました。「京都から来ました」、「これから古宇利島に行って、伝統的な祭祀が行われている場所などを見学する予定ですが、この湾にあまりにも不釣合いな基地が建設されようとすることに異様さを感じます。この辺野古の海の素朴な美しさ。そこに日本や東アジアの安定・安全・平和を護るという名目で最高度にアグレッシブな米軍基地が移転されようとすることの異様さ、そのアンバランス、不調和を強く感じます」

 そんな応答を返し、須藤さんとわたしは突堤の先にある島まで行きました。そこにコンクリート造の鳥居があるのに気づいていたからです。裸足でそこまで歩いていくと、鳥居に「竜宮の宮」という額が掲げられていました。瞬間、「おいおい、竜宮に米軍基地かよ〜。なんで、そんな対極のものがここにあるんだ?」という思いが突き上げてきました。

 有刺鉄線を張った基地内に海兵隊の訓練所や宿所が遠く見えました。古宇利島に向かいながら、「大重さんよ、なんか、内臓の奥に鉛の棒や塊を突っ込まれたような気持ちだよ」と言うと、「まったくそうだよなあ」という声が返ってきました。米軍基地問題をめぐる日本政府の対応に大重さんは相当頭に来ている風でした。当然でしょう。9万人の沖縄県民の反対集会が開かれたのもよくわかる気がします。

 沖縄から米軍基地をどのように撤退できるか、政治・軍事・経済、さまざまな観点から論議されても、解決の糸口は見えない。混乱に混乱を重ねているとしか思えない。「米軍基地を県外に移転する」という民主党の公約がどのように実行されるのか、国民注視の中で、具体案は固まらず、後退に後退を重ねて、限りなく既成案と公約との妥協案が探られているか、しかしそれがどうなるのか。

 鉛のような重いしこりを飲み込んだまま、古宇利島に向かいました。そして、この「神の島」と呼ばれた島の祭祀空間がどのようなものであるのかを見て回ったのでした。昨日行った知念村の藪薩御嶽や浜川御嶽やヤハラツカサも、なぜそこがウタキという聖空間になるのか、納得の行く地形や生態系を持っていましたた。植生、水、岩、地形、空間形態、それらすべてが折り合わさって、いのちを宿し、いのちを育み、活性化させる母体的空間と力動を持っている。そんな胎内力動に似た力が古宇利島の聖域にも感じられたのです。

 しかし、整備された島内周遊道路や本当と島とをつなぐ大橋はその力動を分断しているとしか思えませんでした。それは、「東山修験道」と称して比叡山を上り下りする時に、比叡山ドライブウェーに出くわした時に感じる分断感とまったく同じものでした。生態系を分断する、聖空間を分断する、生活と祭祀の連続性を分断する、共同体の世代間協働を分断する。親切道路や橋は、本来つなぐことを求めて建設されたはずであるが、それが、確かに経済空間や政治空間をつなぐ役目は果たしていると思われる反面、精神的時空や聖地空間や生態系を分断していると思われてならないのです。

 島の生活は、確かに、橋によって、道路によって、利便になった。一度経験したその利便性を手放したくないと思うのは当然だろう。しかしそれによって、伝統的な祭祀空間も生態系も引き裂かれて力を失いつつあることは明らかだろう。その中で、バランスを取るということはどういうことなのだろう。ここにおける、解決策とはなんであろうか?

 思いつきで、いろいろなことを考えることはできる。また、言ったり、書いたりすることもできる。だが、責任を持ってそれを実行し、生きることができるか。当事者でないわれわれに何がどのようにできるのか。当事者性を離れた無責任は評論を垂れ流すことを自制しなければいけないと思いつつも、ため息のように「どうすればいいのか?」という思いが突き上げてくる。右を向いても、左を向いても、同じ問いと思いが返ってくる。そんな情況にわたしたちは直面しているのです。

 そんな中で、もちろん、できることしかできないし、責任を持って日々の身近で小さなことから取り組むことが必要なのですが、それでも全体に降りかかってくる大きな問いにどう応えるかという責務からも離れることができないのです。

 沖縄にいて、そのような問いと思いの中にぐるぐる巻きになっています。そんな最中、大重潤一郎監督が26年前、1984年に書いた劇映画の脚本『天の川』原案を渡されました。まだそれを読んでいませんが、ある符号に驚いています。

 というのも、1984年4月4日にわたしは初めて天川村の天の川沿いに鎮座する天河大弁財天社に詣でたからです。その頃、もちろんわたしは大重さんとは出会っておりません。しかし、わたしは天の川の聖域に入り、大重さんは『天の川』という山の猟師と海の漁師の物語を書いていたのです。それもブナ林のある白神山地を舞台にして。また十一面観音をシンボルとして。

 脚本の前文は次のように始まる。

 「果てしない空間、限りない時間を孕んだ宇宙に天の川はある。その宇宙の一隅に地球および映画「天の川」の舞台、深浦がある。
 深浦は山と海によって成り立っている。白神山と日本海。ここに生きる人間は、この山と海を土俵に生きてきた。人々は猟師として、また漁師として、獣を追い魚を獲って生を営んでいる。太古から今日まで。
 しかし、この山、海の主役は人間ではない。
 主役は、山においては白く神々しく人を寄せつけぬ白神山自身であり、世界で唯一残されたブナ原生林とそこに生息する熊、カモシカを初めとする動物達、地中の生物、そして様々な花を咲かせる植物達である。
 また、海においては、冬は阿修羅のごとく夏は菩薩のように表情を一変させる日本海と、そこに季節をめぐり回遊してくる魚たち、磯に根つく貝などである。
 まず『天の川』では、こうした自然の風土と、そこに生きる生物の、シンプルで美しい姿がガッチリと背景に居坐る。」

 すばらしい前文である。大重さんが、26年前から「久高オデッセイ第一部 第二部」の今日まで何を追いかけてきたか、明瞭である。彼の探求は実に一貫している。大地の声、天空の声、そしてその中に生きるさまざまないのちの声。人間の声は、そんな声声の中のワン・オブ・ゼムに過ぎないのだ。そのいのちの平等性と共存在性の中から響いてくる生命讃歌。大重映画の真骨頂はそこにある。

 そんな、『天の川』との邂逅が、辺野古基地、古宇利島、今帰仁村のクボーウタキをめぐった後でもたらされたことの重さとえにしに、静かな感銘をおぼえています。

 クボーウタキをお参りした後、山の頂上まで上りました。珊瑚石灰岩でできた鋭角の大きな石がごろごろと転がり、むき出しになっている急斜面は実に歩きにくく、「こりゃ、まったく、東山修験道じゃわいなあ」と思いながら、一心に登っていきました。そして頂上に到着したときの開けた視界の爽快さ。古宇利島が遠望でき、リーフに囲まれたイノウが静かに優しく今泊の集落を抱いている。嗚呼、こんな美しい風景の中に鉛がぶち込まれているのだ、その強烈な異物をわたしたちはどのように土や風に戻すことができるのでしょうか。そんな問いが次から次へと湧き上がってくるのを抑えることができないまま、須藤さんと一緒に大重さんの待つ駐車場まで下りていきました。大重さんは、「かまっさん、心配したよ。ハブにかまれたんじゃないかと」。嗚呼、心配かけたなあ。でもね、大重さん、ぼくは、「アイ・ハブ・ハブ、だよ!」と冗談を言って笑いました。強力な毒を放つハブもハブする、そんな自分がいる、と思ったのでした。

2010年5月2日 鎌田東二拝