シンとトニーのムーンサルトレター 第058信
- 2010.05.28
- ムーンサルトレター
第58信
鎌田東二ことTonyさんへ
お元気ですか?また満月の夜がやって来ました。わたしは、いま、沖縄に来ています。
本日、正式に日米両政府から発表され、ついに米軍普天間飛行場の辺野古移設が決定しました。地元紙である「琉球新報」「沖縄タイムス」ともに号外が出ました。
「最低でも県外移設」という公約を掲げた鳩山首相を多くの人々が指示し、民主党に未来を託しました。期待を裏切られた沖縄の方々の心中を思うと、胸が痛みます。こんな日に、わたしが沖縄にいるのも何かの意味があるのでしょうか。
さて、一昨日、NHKの討論番組に出演しました。番組タイトルは「徹底討論 ふるさと再生スタジアム」で、テーマは「どうなる?あなたのお葬式・お墓」です。
オープニングは映画「おくりびと」で、昨今の葬儀トレンドに関するVTRの後、さまざまなテーマについて討論しました。内容は、「葬式の現状、どう思う?」「親を見送るのは、子の義務?そんなの自由?」「直葬の急増、どう思う?」「地域社会の崩壊、高齢化、核家族の現状」「無縁社会の到来?」「共同墓をどう考える?」「『子に迷惑をかけられない』という親子関係」「無縁社会で変わる葬式の形」「無縁社会を乗り越えるために必要なことは?」などでした。
出演者は、宗教学者の島田裕巳氏、ミュージシャンの南こうせつ氏、タレントの橋本志保氏、それにわたしの4人です。みなさん、大変な雄弁家でした。わたしも、もっと話したかったのですが、他人の話をさえぎることは礼に反します。テレビのために、自分の人生における信条を曲げることはできません。それで、アナウンサーの比留間さんの質問に対してのみお答えしました。結果、わたしの発言が一番少なかったかもしれません。
それでも、議論はかなり白熱しました。わたしとしては、3対1のハンディキャップマッチのような気がしましたが・・・・・正直言って、アウェー感がありました。
葬式必要論かと思っていた南こうせつさんですら、今の葬儀費用は高すぎる、「直葬」でもいじゃないかという立場でしたので、ちょっと調子が狂ってしまいました。「直葬」というのは、通夜や告別式を行わず、火葬場に直行する送り方のことのです。行政などがその費用を負担しますが、この直葬、一昨年で9000件もありました。この10年間で、じつに2倍以上に増えています。「直葬」が増えている背景はいろいろあるでしょうが、最大の原因は日本社会全体が「無縁社会」になってきているということだと思います。
この「無縁社会」は、NHKスペシャルで2010年1月31日に放映されて大変な反響を呼びました。1年間に3万2000人もの人たちが無縁死されているそうです。今回の番組も、NHKの「無縁社会」キャンペーンの一貫に位置づけることができます。
でも、オフレコだった南さんのスピリチュアルな体験談は、非常に興味深いものでした。
南さんは、大分県のお寺の次男でしたが、寺が大嫌いだったそうです。若い頃、住職である父親に反抗して、「仏なんてものがあるなら、目に見える形にしてみろ!」と喰ってかかったことがあるとか。そして音楽の道に飛び込んだのですが、まったく泣かず飛ばずで、そのうち体調を崩して自律神経失調症のようになったとか。ある人から「先祖の墓参りをしたほうがいい」と言われて実行したところ、墓に手を合わせたとたん、脳内がスパークして無数の先祖たちのビジョンが浮かんだそうです。そして、体の不調はウソのように消え、さらには直後に「神田川」が大ヒットするという奇跡が起こったというのです。
あと、「わたしが月にお墓を作ればいい」と述べたところ、島田さんが「そう、そう」と笑顔でうなずいたのは意外でした。南さんのほうを向いて、「かぐや姫が好きなんで、月も好きなんですよ」と言うと、南さんは「そりゃー、いいなあ!」と嬉しそうに笑われました。まあ、大ベストセラー『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)とアンサーブック『葬式は必要!』(双葉新書)の著者であるわたしが対決するというので、話題性はあるようです。
まずは九州・沖縄で7月9日(金)の20時から放映されます。島田氏の独特の論法には困惑させられましたが、わたしは心の底から「葬式は必要!」と確信しているので、その想いだけは伝えることができたのではないかと思います。
その討論会に先立って、Tonyさんから「儀礼必要論の論陣を張り、事例報告、データに基づいて、儀礼の必要を証言してください」とのアドバイスをいただきました。また、「冠婚葬祭は形は変わっても絶対に必要です。人類は神話と儀礼を必要としています。それが人間です。」との言葉もいただきました。本当に嬉しく、心強かったです。心より御礼を申し上げます。
わたしも人類は神話と儀礼を必要としていると思っています。儀礼については『葬式は必要!』を上梓いたしましたが、このたび『神話は必要!』という本を監修しました。タイトルは『神話は必要!』ではなく、『知ってびっくり!世界の神々』(PHP)ですが。
「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」や「タイタンの戦い」といった映画のヒットの影響もあって、ギリシャ神話をはじめとする神話の世界に大きな関心が集まっています。神話とは宇宙の中に人間を位置づけることであり、世界中の民族や国家は自らのアイデンティティーを確立するために神話を持っています。
一般に、アメリカ合衆国には神話が存在しないといわれます。建国200年あまりで巨大化した神話なき国・アメリカは、さまざまな人種からなる他民族国家であり、統一国家としてのアイデンティー獲得のためにも、どうしても神話の代用品が必要でした。
それが、映画です。映画はもともと19世紀末にフランスのリュミエール兄弟が発明しましたが、他のどこよりもアメリカにおいて映画はメディアとして、また産業として飛躍的に発展しました。映画とは、神話なき国の神話の代用品だったのです。
それは、グリフィスの「國民の創生」や「イントレランス」といった映画創生期の大作に露骨に現れていますが、「風と共に去りぬ」にしろ「駅馬車」にしろ「ゴッドファーザー」にしろ、すべてはアメリカ神話の断片であると言えます。それは過去のみならず、「2001年宇宙の旅」「ブレードランナー」「マトリックス」のように未来の神話までをも描出します。また、フランケンシュタインやドラキュラ、スーパーマンやスパイダーマンなどは、すべて原作小説やコミックに登場するキャラクターにすぎませんでしたが、映画によって神話的存在となりました。
「ロード・オブ・ザ・リング」3部作や「スターウォーズ」シリーズはまさしく神話としての映画を実感させますが、日本においても、「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」から「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などの宮崎駿監督のアニメ映画ほど神話的世界を想像力ゆたかに描いているものはありません。映画産業とは神話産業であり、現代人の共感の大きな源泉となっているのです。
そう、人間は神々を必要とするのです。なぜなら、多神教の神々にふれると人間の魂は奥底から癒されるからです。そう主張したのは、ユング派「元型心理学」の創始者として知られるアメリカの心理学者ジェームズ・ヒルマンです。彼は、人間の魂は多くの機能を持っており、それぞれが必要とする神々がいると主張しました。オリュンポス12神にしろ、八百万の神々にしろ、多神教の神々は、それぞれの魂の元型が求める役割を演じてくれるわけですね。ヒルマンは、人間の魂はもともと一神教には馴染まないとし、「魂の自然的多神教」という言葉さえ使っています。たしかに、浮気がやめられなかったり嫉妬深かったりする神々を知ると、なんとなく安心してしまいますね。
『知ってびっくり!世界の神々』では、世界最古のメソポタミア神話からエジプト神話、さらにはギリシャ神話というように神話の流れに沿って神々を紹介しています。神話や神々についての類書が、いきなりギリシャ神話からスタートする中で、この時系列にあった目次立ては、読者が神話の影響関係を理解する際のサポートになると思います。
神話は、世界中の民族の「こころ」そのものです。神々は世界中の民族の「こころ」が投影されたものです。この神様のカタログを読んで、多くの方々に、ぜひ世界の人々の「こころ」を知ってほしいと思います。「釈迦に説法」で恐縮ですが、また誠に不遜ではありますが、Tonyさんにも送らせていただきましたので、ご笑読のうえ、ご批判下されば幸いです。
さて、わたしは、沖縄料理が大好物です。特に、ゴーヤ・チャンプルーとかフー・チャンプルーなどの料理が好きで、いくらでも食べられます。「チャンプルー」とは「チャンポン」と同じで、「混ぜ合わせ」といった意味ですね。このチャンプルー文化こそ、沖縄が世界に発信すべきものではないでしょうか。
本日、那覇の「波の上ビーチ」を訪れました。海が見えますが、その海の向こうには、中国最大の都市である上海があります。波の上ビーチの隣は神社。イザナミノミコトを御祭神とする波上宮です。その隣は寺院。真言宗高野山派の波上山護国寺です。
さらにその隣は孔子廟と至聖廟。孔子と道教の神々がともに祀られています。ここでは、わずか数百メートルの圏内に道教も含め、神道、仏教、儒教の宗教施設が隣接しているのです。いわば、異なる宗教が共生しているのです。
まさに、「沖縄のチャンプルー文化ここにあり!」を見せつけられる思いがします。さらには、天理教などの新興宗教の神殿やチャペルらしきものまで集まってきています。その上、それらの宗教施設の周囲はなんと、ラブホテルとソープランドがずらりと並んでいます。まさに、聖地とは性地なり!それにしても、なんなんだ、ここは!究極のパワースポットは、人間の性欲をも刺激するのでしょうか。つまるところ、ここでは「何でもあり」なのです。包容力があるのです。懐が深いのです。平和が好きなのです。
辺野古移設の日米共同発表があった日、世界で最も平和な場所である波の上ビーチで平和な世界を夢想しました。世界中が、波の上ビーチのような場所になりますように。
また、かつての日本社会には「血縁」という家族や親族との絆があり、「地縁」という地域との絆がありました。日本人は、それらを急速に失っています。その結果、「無縁社会」なるものが到来してしまいました。沖縄の人々は、日本中のどこよりも先祖と隣人を大切にします。それだけではない。沖縄の人がよく使う「いちゃりばちょーでい」という言葉は、「一度会ったら兄弟」という意味です。
沖縄では、あらゆる縁が生かされるのですね。まさに「袖すり合うも多生の縁」は沖縄にあり!「守礼之邦」は大いなる「有縁社会」でもあるのです。すべての日本人が幸せに暮らすためのヒントが沖縄にはたくさんあります。今こそ、本土の人々は「沖縄復帰」するべきではないでしょうか。それでは、Tonyさん、オルボワール!
2010年5月28日 一条真也
一条真也ことShinさんへ
沖縄ですか。わたしも4月30日から5月3日まで沖縄にいたのは先回のレターに触れたとおりです。また、辺野古湾にも行きました。その湾の中に小さな地先の島があってそこに「龍宮神」が祀られていました。それは、武力の拠点である軍事基地とは対極にある霊性の宮でした。
わたしも、Shinさんの言われるように、沖縄から学ぶもの、ヒントがたくさんあると思います。宮古諸島の大神島はわたしにとって沖縄と日本の「奥の奥の院」であり、八重山諸島の新城(あらぐすく)島もそうです。そこに伝わる御嶽や祭祀は日本列島のもっとも聖なる秘所・秘地・秘祭だと思います。
さて、NHKの「徹底討論 ふるさと再生スタジアム〜どうなる? あなたのお葬式・お墓」、放送日が楽しみですが、「徹底討論」の場で、現代の儒者であるShinさんらしく、律儀に礼儀正しく司会者に指名されるまで発言しなかったとのこと、ルール破りが平気で行われるバトルの場でも礼節・守礼を貫くところなど、儀礼必要論者で現代心学師の言行一致のお手本ですね。
わたしは最近、宗教学者で立教大学教授の月本昭男さんと編集工学研究所所長の松岡正剛さんと対談しました。前者は岩波書店のPR誌『図書』10月号(?)に、後者はPHP研究所の論壇雑誌『Voice』9月号(?)に掲載される予定です。
月本さんとは、月本さんの新著『メソポタミアの神話と儀礼』(岩波書店、2010年2月)について議論しました。今回、月本さんの本を通じてメソポタミア神話と儀礼をあれこれと考える機会を与えられましたが、とてもとても面白く、かつ参考になりました。
メソポタミアは文明の発祥地で最古の文明といわれるシュメール文明がそこで生まれました。そのシュメールの古代都市ウルやウルクから、ユダヤ人やアラブ人の祖とされるアブラハムが神の命を受けて出立して「父と蜜の流れる地」であるカナンの地すなわち現在のイスラエルの辺に向かったのでした。
実は、わたしは『旧約聖書』が大好きで、世界中の古典の中で一番面白く、好きな古典が『旧約聖書』なのですよ。ロビンソンクルーソーのように、孤島に一人っきりになった時、1冊だけ本を持っていっていいと言われたら、迷うことなく『旧約聖書』を持っていきます。それ1冊あれば、世界のすべてを構想することができる、思い出すことができる、そんな気持ちすら持っています。
Shinさんは、先ごろ、『知ってびっくり!世界の神々』(PHP研究所)を出版されました。神話は人類の最大の文化遺産だと思います。プラミッドや前方後円墳のような巨大な墳墓も、彼らの神話の中に描かれた世界観や死生観がなければまったく迷宮のようなものとなってしまうでしょう。
月本昭男『古代メソポタミアの神話と儀礼』によれば、創世神話類型には、A・イェンゼンらによって、①宇宙起源神話、②人類起源神話、③文化起源神話の3つの類型があるといいます。宇宙の始まり、人間の始まり、文化の始まりをわれわれの先祖は求めていた、知りたかったということですね。
それはいわば、世界の存在証明であると同時に、自分自身の存在証明であるわけですが、この宇宙起源神話にもさらに、①天地分離、②天地交合、③天地創造の3類型があるとされます。もちろん、『旧約聖書』は天地創造型、『古事記』は天地分離型です。
続いて、人類起源神話には、①神々による創造(creatio)と②大地からの自生(emersio)の2類型があって、創造神話類型では、人間を造る素材は基本的に「粘土」であるとされますが、これはメソポタミア、エジプト、ギリシャに共通する人間素材観でたいへん興味深いところです。日本では、イザナギ・イザナミという夫婦神による性交(みとのまぐはひ)によって島々(大八島国=日本)や神々が生まれてきて、人間はその神々の末裔という位置づけです。
ところが、メソポタミア神話において人間の位置は日本神話とはまったく異なります。月本さんは言います。
「メソポタミアの創造神話において、神々が人類創造にふみきる目的は明瞭である。神(々)は、生産活動と食料供給、運河の管理や神殿建造に関わる労役、とりわけ下級神のそれを肩代わりさせるために人間を造ったのである。人間の存在理由は神々に仕え、神々に代わって労役に就くことにある。(中略)人間はあくまでも神々に仕える存在であって、決して神にはなり得なかった」(33頁)
つまり、神々と人間との間の断絶が強調され、人間の不完全性や不安定性が厳しく認識されているのです。それに較べると、日本神話の人間認識って、じつに甘いというか、おおらかというか、深刻ではないですね。
ところが、そんな不完全な人間世界に、神々の血を受け継ぐより完成された人間としての王が登場してきますが、それがかのギルガメッシュ王です。ギルガメッシュの叙事詩は世界最古の叙事詩とされますが、前半は英雄的王としての活躍ぶりが描かれ、後半は不老長生を願う死の不安と恐怖に怯える実存的個として描かれます。とりわけ、前半部で、半人半獣のエンキドゥの協力により、森の神フンババ(フワワ)を殺害することは象徴的です。この物語は実に意味深長で、さまざまに考えるヒントを与えてくれます。たとえば、死すべき人間、友情、神々と人間、精神形成などなどについて。
第3の文化起源神話では、すべての「文化」は神々の世界にその起源を持つと考えられました。神殿建造も火の使用も煉瓦作りも、すべてが神々の世界にその元があったというわけです。
紀元前3500年ごろ、楔形文字が発明され、それは粘土板に刻まれます。粘土板と言葉という組み合わせに、考えさせられます。というもの、人間も一種の粘土板と考えられたので、そこでは、人間も言葉が刻まれた粘土板といえる存在ですから。
都市国家として、ウル、ウルク、ラガシュが形成されますが、シュメール国家はやがてアッカド系、セム系に征服され、アムル人が古バビロニア王国(バビロン第1王朝)をつくり、首都バビロンを置きます。紀元前1700年ごろには、その古バビロニア王国の第6代ハンムラビ王(BC1729〜1686)が「目には目を、歯には歯を」の復讐法で知られるハンムラビ法典をつくったとされます。
しかしまた、帝国の興亡は続き、ヒッタイト帝国によって古バビロニア王国は滅ぼされ、続いてアッシリア帝国が独立し、やがてヒッタイト帝国も滅亡します。こうして、アッシリア帝国がバビロンを占領し、ダビデ・ソロモン王の後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂したユダヤ国家も滅びます。そして、イスラエルの民は紀元前538年まで、バビロニアに捕囚されたわけです。
この時、猛然と沸き起こってきたのが、あのメシア(救世主、キリスト)待望論です。そして、500年間も救世主を待ち続けたユダヤ民族は自らの中からナザレのイエスをキリスト(メシア)とする信仰を生み出していき、それが原始キリスト教となっていくわけですね。
Shinさんの監修した『知ってびっくり!世界の神々』にわかりやすく図解されているように、メソポタミア神話は多神教で、天空神・アン(アヌ)や大地神・ティアマトや性愛と豊穣の女神イシュタル(イナンナ)や、ティアマトを殺害して神々の主神となるマルドゥクなどたくさんの神々が登場し、神々の政権交代をくりかえします。
しかし、メソポタミアとエジプトという、2つの巨大文明と大宗教文化の狭間に、まことにマイナーだけれども驚異的な結束力とオリジナリティ・ユニークさを持つ小さな宗教文化、すわわち「一神教」がユダヤ人(イスラエル・ヘブライ人)という弱小民族の中から生まれてきます。それが「アブラハムの宗教」と呼ばれるユダヤ教であり、そこからキリスト教、のちにイスラームも発生します。
この唯一神の命を受けてウルを出、「乳と蜜の流れるカナンの地」に移動したアブラハムはイシュマエルとイサクという子を持ちます。イシュマエルは侍女の子で、ハム系すなわりアラブ人の祖となり、イサクはセム系すなわちユダヤ人の祖となります。そのイサクの子が「イスラエル」とも呼ばれたヤコブで、イスラエルはこのヤコブの子孫ということになります。
そしてまた、キリスト教もこのアブラハム・イサク・ヤコブの系譜をイエス・キリストの系譜として語ります。『新約聖書』の冒頭の書「マタイによる福音書」の冒頭には、次のような父系の系図がめんめんと綴られています。
「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、(中略)エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。」
不思議ですね、じつに。なぜ『新約聖書』の冒頭にこれほど執拗な父系系図が書かれねばならないのでしょうか? 「マタイによる福音書」のこの異様な父系の系譜のすぐ後、よく知られた処女懐胎の神秘・神の独り子の誕生という物語が語られます。そして、第4番目の福音書の「ヨハネによる福音書」の冒頭には次のように記されます。
「初めに言があった。言は主と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。でたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言は命であった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中で輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
この「ヨハネによる福音書」は、じつに超越的な高みから、神の言の受肉(incarnatione verbi)を語ります。わたしから見ると、このキリスト教というのは世にも不思議な宗教、もっとも神秘的な宗教です。まことに、興味深いです。
さて、ともかく、砂漠の一神教とか、聖書宗教とか、啓典宗教とかとも呼ばれるユダヤ教・キリスト教・イスラームという3宗教の基底核には、いわゆるモーゼの十戒があります。その第一は、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」という唯一神信仰。第二が、「神の像を作ってはならない」という偶像崇拝の禁止。第三が、「神の名をみだりに唱えてはならない」という神名の神聖。第四が、「安息日を守れ」という聖日の制定。この4つが極めて特異で厳格な宗教的戒律で、残る6つが「父と母を敬え」とか、「殺すなかれ・姦淫するなかれ・盗むなかれ・隣人に対して偽りの証をするなかれ・隣人の家に欲を出すなかれ」というような共同体的倫理です。
先に言いましたが、わたしは『旧約聖書』が大好きで、こんなに面白い書物はないとさえ思っています。ここに人類史のすべての種があるとまで。もちろん、わたしは「アブラハムの宗教」の立場の人たちからは「異教徒」ですが、この「異教徒」から見て「アブラハムの宗教」は実にオリジナリティとユニークさがあって興味深いのです。凄いな、これは、と思わせるさまざまな回路がちりばめられていて、思考を休むことを許してくれません。
と、思わず、Shinさんの新著の魔力もあって、ShinWa(神話)談義をしてしまいました。わたしも先月、2冊の神話と儀礼に関わる本を出したのですよ。1冊は編著で、『平安京のコスモロジー』(創元社、2010年5月)、もう1冊は単著で、『霊性の文学 言霊の力』(角川ソフィア文庫、角川学芸出版、2010年5月)です。
前者は、漫画家の岡野玲子さん、写真家で民俗学者の内藤正敏さん、臨床心理学者の河合俊雄さんなど、実のユニークな面々が、実に独創的な観点から、平安京のコスモロジーや風水や癒し空間について迫っていて、興趣が尽きません。絶対、おもろいですよ。後者は、宮沢賢治、折口信夫、中上健次、三島由紀夫、高橋和巳、出口王仁三郎、寺山修司、山尾三省、宮内勝典、ニーチェ、ドストエフスキー、バタイユ、ロートレアモンらの文学と宗教と言葉の力について論じたもので、文庫版まえがきに、上に引いた「ヨハネによる福音書」の神の言葉の受肉のことから述べ始めました。
そこでわたしは、人間が言葉を「発明」したのではなく、言葉が人間を「発明」したのではないかという、逆転思考を述べてみました。人間は粘土板に楔形文字を刻みましたが、神々は人間という粘土板に楔形文字つまり言葉を刻んだ。つまるところ、神の言葉が人間になったというわけです。言葉が人間を「発明」したと考えるところから、わたしのメソポタミア神話やユダヤ神話、またアブラハムの宗教への関心と思考がうごめきはじめます。
そんなこんなをあれこれあれこれ考えているうちに、すっかりお月様も満月から新月に向かって「不明」になりつつあります。レターの返信がとてもとても遅れましたこと、こころよりおわびいたします。
2010年6月10日 鎌田東二拝
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