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シンとトニーのムーンサルトレター 第052信

第52信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、いよいよ師走ですね。今年も残すところ、あと僅か。今年もTonyさんにとっては充実の一年だったことと思います。わたしも、おかげさまで、すべての仕事が順調に進みました。神仏と関係各位に心より感謝しています。

 さて、最近のニュースで、わたしが強い関心を抱いた出来事がありました。例の市橋達也容疑者の逮捕です。英国人女性死体遺棄事件で、死体遺棄容疑で逮捕された彼は2年7ヵ月にわたり、整形手術で顔を変えて逃亡を続けていました。保険を使わない自由診療なら偽名でも受診できてしまう医療の現状には驚きました。

 逮捕につながる有力情報の一つが整形後の顔写真でしたが、写真の公開以降、市橋容疑者の注目度は異常なまでの高まりを見せました。なんと、彼に「イッチー」というニックネームをつけて応援する人々まで登場したのです。彼らは、2ちゃんねるやmixiなどで堂々と“市橋ファン”を公言しています。昔からネットでは犯罪者を「神」と崇拝する人がいましたが、今回の“市橋ファン”もその類なのでしょうか。

 「YAHOO!知恵袋」には、「市橋達也君^^イッチーが人気の理由は?」と題して次のような質問が掲載されていました。まず、市橋容疑者について、「スタイル抜群(身長180cm)」「パーカーの着こなしがカッコイイ」「裸足にサンダルがカッコイイ」「横顔がギリシャ彫刻のよう」「カリスマ性がある」「髪型が超かっこいい」「思いやりがある」「意思の強さがある」「学業優秀」「運動神経抜群」と激賞したうえで、「他にあったら教えてくだしあ」という質問です。

 それに対して、「ベストアンサーに選ばれた回答」には、「実家が金持ちのおぼっちゃん」「なのに肉体労働とかも平気でこなす庶民的なところ」「先輩に頭を下げて仕事を教わる素直で謙虚なところ」「仕事に真面目」「空手経験者で喧嘩が強い」「ちょっと陰がある」「外国語が堪能」「検察のまずいメシを食わない気位の高さ」「食事をとらずに取り調べに耐えているストイックなところ」といった賛辞が並びました。

 おそらく、多くの“市橋ファン”を代弁する意見ではないでしょうか。もちろん一人の人間が亡くなった事件の容疑者のファンになるという行為そのものは不謹慎です。わたしも、個人的に大きな怒りをおぼえます。でも、多くの人々が市橋容疑者の異常なまでの存在感に惹かれているのも事実のようなのです。たしかに、逮捕時のパーカー姿をTVニュースで見たときは、シャープな顔立ちだなと思いました。また、うつむいた表情には強い孤独感を感じました。その顔立ちと表情から、まるで万人の罪を一人で背負って処刑場に赴く聖人を連想した人々も少なくなかったと思います。しかし、その「聖」なるイメージとは、現代の美容整形技術による人造美から来るものなのです。

 整形といえば、もう一人の人物が大きな話題となっています。その人物はもう亡くなっているのですが、没後に猛烈な勢いで偶像化、いや、神話化されています。そう、その名はマイケル・ジャクソン。今年6月に50歳で急逝した“KING OF POP”です。現在、死の数日前まで行われていたロンドン公演のためのコンサート・リハーサル風景を収録したドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」が全国公開され、大ヒットしています。劇場パンフレットもない期間限定興行ですが、ネットなどでの評価も非常に高いです。わたしも2回観ました。

 わたしの高校卒業の年である1982年にアルバム「スリラー」が発売され、もう夢中になりました。もっと昔の若者たちがビートルズに衝撃を受けたように、わたしはマイケルの音楽とダンスに大きなショックを受けました。市販のビデオも買って、彼のダンスを徹底的に研究しました。ちょうど、大学に入学して上京してからは六本木に住んでいたこともあり、連日、「ナバーナ」「マジック」「エリア」「シパンゴ」といったディスコに通いつめ、「ビート・イット」や「ビリー・ジーン」などのナンバーで踊り狂っていました。

 とにかくマイケル・ジャクソンほど神話的な人物は、ちょっといないでしょう。とにかく、そのダンスも生き方も人間離れしていました。そう、彼の人生は「人間離れ」という表現がぴったりです。なにしろ、黒人として生まれ、白人として死んでいったのですから。

 そして、何よりも彼の「人間離れ」ぶりは、整形手術による顔面の激しい変化にもっとも表れていました。マイケルは、いったい何回整形手術したのか。彼自身は、鼻を2回、顎を1回と明言しています。鼻の手術については、1回目はステージで鼻を怪我したため、2回目はより高音を出すために受けたそうです。メンテナンスを回数にカウントするのなら、もう少し増えるかもしれませんね。ちなみに、多くのファンと同じく、わたしは「ビリー・ジーン」の頃のマイケルの顔が一番好きです。

 ただし肌の色に関しては、整形ではなく、尋常性白斑という皮膚疾患によるものだそうです。わたしも整形手術によって黒い肌が白くなったのかと長らく誤解していました。しかし、現代の技術をもってしても、そんなことは不可能のようです。マイケルの肌が白くなっていったのは病気だったのです。紫外線などの有害光線から肌を守るメラニン色素が破壊されることを恐れ、マイケルは外出時などには日傘や長袖シャツを愛用し、マスクもよくつけました。そういった姿が、晩年の「奇行」「異常」といったイメージにつながった部分もありそうです。黒い部分よりも白い部分のほうが多くなってしまった後のマイケルは、色ムラをメイクでカバーしていました。

 彼は、けっして白人になりたかったわけではなかったのです。「黒人であることにコンプレックスを抱いたのでは」という世間の疑問に対しては、マイケル本人がはっきりと否定していますし、「自分にはアフリカ系アメリカ人としての誇りがあるし、自分が自分であることにも誇りを持っている」とも発言しています。

 とはいえ、マイケルが異様なエピソードを多数残したことも事実です。少年たちへの性的虐待への疑惑もずいぶん話題となりましたが、わたしが記憶しているのは「エジプトの少年のミイラ」を7億円で購入したり、映画「フリー・ウイリー」で使われた体長8メートルのシャチを1億円で購入したこと。そして、アインシュタインの両目を7億円で購入申し込み、「エレファントマン」のモデルとして知られるジョン・メリックの頭蓋骨を1億円で購入申し込みをしたという仰天ニュースでした。ともに申し込みは断られましたが、その行為は「どうしちゃったんだ、マイケル!」と思わせるショッキングなものでした。

 その他にも、1ヵ月の生活費が2億円とか、おもちゃが大好きで1ヵ月のおもちゃ代が3000万円だとか、私設遊園地「ネバーランド」を作って、そこに少年たちを呼び込んでいるとか、とにかく怪しい噂が飛び交っていました。まさに「魔人」です。わたしが監修した『世界の「聖人」「魔人」がよくわかる本』(PHP文庫)に載せたいくらいでした。でも、マイケルは単なる魔人ではなく、「聖人」としてのたたずまいも見せていました。実際、彼の音楽には「世界平和」や「地球環境」といったメッセージがふんだんに込められていますし、彼の存在そのものが人種、国籍、性別を超越するものでした。

 五木寛之氏は著書『人間の運命』(東京書籍)で、マイケルの「聖人」性について触れています。まず五木氏は、かの「ムーンウォーク」を取り上げ、街頭での少年たちのダンスからヒントをえたといわれる幻想的な動きに驚嘆しています。そして、「歩く」という人間の古代からの動作に、まったく予想もつかなかった異様なイメージを創り出したことが、とんでもない革命のひとつだったのかもしれないとして、次のように述べています。

 「その滑るようななめらかな動きは、水上を歩行する奇蹟の人の動きのようでもある。月面を跳ねつつ移動する宇宙飛行士のぶざまな歩き方とくらべると、はるかに『月を歩く』感覚にちかい。/月へいく、そして月面を歩く、ということは、いまはまだ普通の人間には不可能なことだ。できないことを憧れる人間は多いが、それをマイケル・ジャクソンは表現者として実現した。/彼は日常的に多量の薬物を必要としたという。過度の整形や、皮膚移植や、漂白作用の反応が、それを必要としたという見方もある。/しかし問題は彼が運命をこえて『月をめざした』人間であったことにあるのだろう。」

 さすがは五木寛之氏です。そう、マイケルの正体とは「月をめざした」人間だったのです!そして、学生の頃にディスコでぎこちないムーンウォークを試みていたわたしは、あのとき、マイケルと一緒に月面を歩いていたのです!月をめざしたマイケルの魂は、地球を離れて、いまは月に在るに違いありません。次回の「月への送魂」の際には、ぜひ、マイケルの全盛時の姿を思い浮かべることにします。

 ところで、月といえば、NASAの探査機が月で「まとまった量の水」を発見しましたね。「朝日新聞」11月22日付の「天声人語」によれば、乾燥した世界と思われていただけに研究班は興奮気味だったそうです。彼らは会見場にバケツを持ち込んで、見つかった量を「これに12杯ぐらい」と説明したとか。およそ90リットルだそうですが、究極の銘水「月の水」を味わえる日が遠からず来るかもしれないと書かれていました。

 「月の水」、いいですねえ。「月の水」で割ったウイスキーや麦焼酎の水割りを飲みたいですねぇ。わたしの大好きなシャンパンを「月の水」で作るというのもいいですねぇ。なんだか、喉がゴロゴロ鳴ってきます。お酒を飲まれないTonyさんには、「月の水」で作ったペリエなど、いかがでしょうか?

 前にもレターで書きましたが、アポロの宇宙飛行士が訪れた月面は文字通りの砂漠でした。童謡には「月の砂漠」という名曲があります。じつは、この歌の一番の歌い手は、先日亡くなった森繁久弥だったことをご存知ですか。わたしは、故・久世光彦の『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』(文春文庫)でその事実を知りました。特に70歳を過ぎてからの森繁の「月の砂漠」は絶品で、聴いた人間は必ず泣いたそうです。「あの人にじっと見つめられて、囁くように『月の砂漠』を歌われて・・・泣かない人がいたら、お目にかかりたいものである」と、久世光彦は述べています。森繁の「月の砂漠」は各種のCDに収録されています。わたしも、i-Pod に入れて毎晩、寝るときに聴いていますが、いつも涙が出てきて、枕を濡らします。安田祥子と由紀さおりの安田シスターズの「月の砂漠」もなかなかいいですけどね。ということで、今年は最後まで月に関する話題で締めましょう。

 Tonyさん、今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。では、良いお年をお迎え下さい。オルボワール!

2009年12月2日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、もう12月も15日。師走とはよく言ったもので、瞬く間に月の半分が過ぎてしまいました。シンさんからは12月2日にはやばやとレターをいただいていたのですが、どうにもこうにも慌しく時が打ち過ぎ、返事を書くことも叶わず、大変失礼を重ねてしまいました。返事が遅れに遅れたこと、心よりお詫び申し上げます。

 この1年がシンさんにとって大変順調であったとのこと、何よりです。会社の経営の仕事も、執筆活動も、ともに、大車輪の活躍でしたものね。いやあ、超人的な仕事ぶりですわ。感心しましたよ。そのペースには。「ムーン・ウォーク」ならぬ「ムーン・ランニング」か「ムーン・ハリケーン」のようでしたよ。

 わたしの方は、相変わらずですが、この11月から12月にかけては、これまででもっとも忙しい毎日だったような気がします。ある週などは、ほとんど毎日のように研究発表をしなければならず、頭の切り替えと準備に大変でした。特に最近は、パワーポイントを使ってプレゼンテーションする形が増えたので、予め話やスライドの順番を決めていなければなりません。これが、結構大変なのですよ。

 というのも、神道ソングライターであるわたしのモットーは「でまかせ、でたらめ、でかせぎ」の3Dライフなのですが、スライド使用では、「でまかせ」も「でたらめ」も出てきませ〜ん。ただひたすら、レールの上を路線通り走るだけなのです。

 よく思いますね。パワーポイントを使っていると、「語りの力」が弱くなると。わたしは『超訳 古事記』(ミシマ社)で、稗田阿礼ならぬ鎌田阿礼になって「でまかせ・でたらめ」で語り続け、それこそが稗田阿礼時代の「古事記ぶり」だったと思っているので、語りの力が弱まることに対して大変危惧するところです。

 みんな、似たような、プレゼン・パフォーマンスになってしまうと、個性も味もへったくれもあったもんじゃない。もっと肉声が。肉体が。にくにくしさが必要よ。と、謂いたくなりますね。まったく。

 そんなことで、わたしは必要に応じてパワーポイントも使いますが、その場に応じて、紙資料とか、歌とか、いろいろな使い分けをしながら「語りの力」を落とさずにやっていきたいと心がけています。が、なかなか、これがむつかしいんですわ。

 さて、シンさん、われらが義兄弟の近藤高弘さん設計の「天河火間」が完成しました。シンさんにもご寄付をいただき、本当に嬉しくも有難く思っています。多くの方々のご協力により、天河大辨財天社の鎮魂殿(禊殿)前にすばらしい「世界一美しい窯」が誕生しました。ぜひその雄姿を見てほしいものです。



天河火間

天河火間の前で(左:近藤高弘氏、右:柿坂神酒之祐宮司)

左:近藤高弘氏 11月22日には、神事と火入れ式と記念祝賀初窯コンサートが開かれ、大賑わいでした。300人近くの方々が来られていたのではないでしょうか。コンサートの方は、『新世紀エヴァンゲリオン』のテーマ曲である「残酷な天使のテーゼ」の編曲や「魂のルフラン」の作編曲をした大森俊之さんが奉納ライブコンサートのコーディネーターを務めてくれました。

 その大森さんが、近藤高弘さんの新曲「Mist」の作編曲をしていて、近藤さんは終にCDデビュー、歌手デビューしたのですよ。やるう。まさに、Jポップの一角に天河火間から切り込んだ、ちゅうわけ。近藤さんもやるわいなあ。

 その奉納ライブには、大森さんや近藤さんのほか、岡野宏幹さんも出ました。わたしも、「弁才天讃歌」「神」「神ながらたまちはへませ」の3曲を奉納演奏しました。奉納ライブは好きです。神道ソングはすべて「奉納」でできているので、自分の古巣に立ち帰ったような安心感と必然があり、心落ち着きました。「本来自分」の素のままでやれました。背伸びせず、縮こまりもせず、素直な気持ちで、淡々と。有難く、嬉しく、楽しく。そして、なぜか、ちょっぴり、哀しく。

 シンさん、わたしにとって、歌うということは、「悲の感情」に形を与えることなのですよ。歌は「悲」から始まるのです、わたしの中では。この宇宙に存在することの根源的な「悲」から発する祈り。それが神道ソングの根幹です。そんな「悲の器」になることが、神道ソングライターとしてのわたしの位置であり、場所です。

 ところで、この12月には編著で『モノ学の冒険』(創元社)という本を出しました。これは、モノ学・感覚価値研究会の13人のメンバーによる共著で、第1部は「モノと気配とモノガタリ」、第2部は「モノと情緒とワザ」、第3部は「モノと装置と知覚」と題して、力作論文を集めています。ぜひご一読ください。お願いします。

 これに関連して、来年早々、2010年1月16日から31日まで、京都大学総合博物館において、「物からモノへ」という展覧会を開催します。そして、それに連動して国際シンポジウムを開催します。長くなりますが、ぜひお越しいただきたいので、以下に宣伝します。



科研「モノ学の構築」モノ学・感覚価値研究会国際シンポジウム International Symposium
(こころの未来研究センター後援)
日時:
芸術部会: 2010年1月16日(土) 13時〜18時
宗教部会: 2010年1月23日(土) 13時〜18時
科学部会: 2010年1月30日(土) 13時〜18時
場所: 京都大学稲盛財団記念館 (Inamori Centre, Kyoto University)
ポスター表ポスター裏◎芸術部会  Session1: mono and Art
企画責任者: 近藤高弘(造形美術)・大西宏志(京都造形芸術大学准教授)
Organizer: Mr. Takahiro KONDO (Artist) and Prof. Hiroshi OONISHI (Kyoto
University of Art and Design)
日時: 2010年1月16日(土) 13時〜18時
場所: 京都大学稲盛財団記念館 3階大会議室

テーマ: 「もの派とモノ学 ものからモノへ」
“MONO-HA in 1960-70’s Japanese modern Art and the Study of Things: from material to spiritual”

企画趣旨:
 アートの重要な役割は、直接見たり触れたりすることができないも を感覚的に捉えて価値付けを行い、作品として提示する点にある。それは、物を単なる物質としてみるのではなく、物の背後に潜む気配をも含めて捉える見方(感覚価値)と言えるだろう。しかし、情報化が進み、言語的・視覚的刺激が身体的経験を超えてしまった今日、世界とのアク チュアルな関係がますます希薄になる中で、アーティストの感覚価値は衰えつつあるように思われる。我々は、真のアーティストで在り続けることができるのだろうか。現代のアーティストは、物の気配を捉えることができるのだろうか。
 大量生産・大量消費の物質文化が加速し物が情報化しはじめた1960年代の終わりに、もの派と呼ばれる美術の動向が興った。日常的な 物を非日常的な状態で提示することで、私たちの物に対する既成概念をゆさぶり、物に対する新たな認識を開こうとしたのだと言う。このもの派と呼ばれる動向が触れようとした感覚価値は何であったのか。今回のシンポジウムでは、モノ学・感覚価値研究会が研究対象としてきた「モノ」という概念を使い、もの派が触れようとした世界を新たな角度から検証してみたいと思う。それは、近代から現代にかけてアーティストが捨て去った野生の力を再び呼び戻し、新たな感覚価値として提示する試み となるだろう。
キーワード: 素材(物質)、身体性、近代的モダニズム、気配、地球美術的価値
Key Words: materiality; body; modernism; atmosphere
プログラム
基調講演: 建畠晢(国立国際美術館館長、美術批評)
パネルディスカッション:
関根伸夫(環境美術研究所所長、現代美術)
小清水漸(京都市立芸術大学教授、現代美術)
山本豊津(東京画廊代表、アートディレクション)
イーデン・コーキル(ジャパンタイムス編集局学芸部記者)
鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授、宗教哲学)
近藤高弘(造形美術)
大西宏志(京都造形芸術大学准教授、映像)
モデレータ: 稲賀繁美(国際日本文化研究センター・総合研究大学院大学教授、比較文学比較文化・文化交流史)
総合討論: 
司会: 鎌田東二

◎宗教部会  Session2: mono and religion
企画責任者: 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授)
Organizer: Prof. Toji KAMATA (Kokoro Research Centre, Kyoto University)
日時: 2010年1月23日(土) 13時〜18時
場所: 京都大学稲盛財団記念館 3階大会議室
テーマ: 「モノと琴とシャーマニズム〜モノ学の宗教的次元の一事例として〜」
“Spiritual Elements in the Study of Things: relationship between the koto, harp and shamanism in East Asia and Western Europe.”

企画趣旨:
 日本語の「もの」も「こと」もともにたいへん多義的な意味内容を包含している。「もの」は単なる「物」ではなく、その対極とも思える「霊(モノ)」でもあり、「者」でもある。ものづくり、もののけ、ものぐるい、ものいみ、ものがたりetc.……。
 そのような「物」と「霊(モノ)」と「者」が、「こと」や「わざ」と不可分につながる回路を具体的に考察する切り口ないし事例として、「琴」を取り上げることとした。「琴」はどのような力を持ち、「言」や「事」と関係するのか? 古代日本で「琴」のことを特別に「神琴(みこと)」と呼んだのはなぜか? 「琴」がトランスや超越を引き出す呪具であり楽器であることは何を意味しているのか? 「琴」はシャーマニズムにどのように関係するのか?
 「琴」は、日本でもヘブライでもギリシャでもアイルランドでも、神託=神の「言」葉を請う楽器として使用されてきた。日本で最初に短歌を詠んだスサノヲノミコトや大国主神は「天詔琴(あめののりこと)」を所有していたし、イスラエルのダビデやギリシャのオルフェウスやアイルランド・ケルトのダグダやルグもみな竪琴の名手であった。
 そのような、「琴」の神聖「言」性や、不思議な現象を引き起こす「事」性を、今回は特に日本とアイルランドの神話と儀礼、そして近代の神道系新宗教の大本で用いられる独自の「琴」すなわち「八雲琴」に焦点を当てながら、シャーマニズム的な現象を通して現れる「もの」と「こと」の関係と諸相を、イギリス、フランス、韓国からのゲスト・スピーカーを招いて共にじっくりと探ってみたい。
 そして、ゲスト・スピーカーのチャールズ・ロウ氏自らの演奏による「八雲琴」の音色に耳を傾けてみたい。
キーワード: 琴、言葉、モノ、ワザ、神話、大本、シャーマニズム
Key Words: koto; harp; language; mono; waza; myth; Oomoto; shamanism
プログラム
基調報告1:
「日本神話における琴と言霊とシャーマニズム」
  鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター教授、宗教哲学)
基調報告2:
「大本と八雲琴(やくもごと)について」
  チャールズ・ロウ(ロンドン大学PhD、民族音楽学)
基調報告3:
「大本教の宗教実践におけるシャーマニズムと芸術——変革していく世直し思想」
  ジャン・ピエール・ベルトン(フランス国立科学研究センター研究員、社会人類学)
基調報告4:
「アイルランド神話における竪琴とシャーマニズム」
  辺見葉子(慶應義塾大学准教授、ケルト神話学)
指定討論者1:
「韓国における琴とシャーマニズム」
  金時徳(韓国国立博物館学芸員)
指定討論者2:
「ケルトの詩と日本の詩——シャーマニズムのなごり」
  スティーヴン・ギル(BBCラジオ放送作家・俳句・生け石)
指定討論者3:
「大本教とモノとシャーマニズム」
  島薗進(東京大学教授・宗教学)
総合討論:
司会: 鎌田東二

◎科学部会  Session3: mono and Science
企画責任者: 渡邊淳司(日本学術振興会・NTTコミュニケーション科学基礎研究所)
Organizer: Dr. Junji WATANABE (JSPS/ NTT Communication Science Laboratories)
日時: 2010年1月30日(土) 13時〜18時
場所: 京都大学稲盛財団記念館 3階中会議室
テーマ: 「多層的な感覚価値モデル」
“A multi-layered interpretation of the relationship between sensations and values”

企画趣旨:
 感覚価値研究とは、心に絶え間なく生じる感覚から社会の中で流通する価値までを、様々な視座から多層的に捉えなおすとともに、そこから新たな人間観を提案する学際・編集的研究領域である。本シンポジウムでは、自己認識がどのように生まれ、進化してきたかという視点から明和政子先生に、コミュニケーションの生成原理と、ロボット技術を介したその再構成という視点から岡田美智男先生に、情報が流通するなかでどのように価値が生じるのか、美術芸術学の視点から吉岡洋先生に、それぞれの視点から感覚価値についてご講演いただき、その相違点を明らかにするとともに、新しい視座を見出すことを目指す。
キーワード: 自己認識、社会性、コミュニケーション、情報と価値
Key Words: self congnition; sociality; communication; infomation and value
プログラム 13時開始
○開催趣旨説明:(10分)
 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター 教授、宗教哲学)
○研究報告: 「感覚価値研究に向けた一考察」(15分)
 渡邊淳司(日本学術振興会/NTTコミュニケーション科学基礎研究所、認知科学)
○基調講演1: 「自己認識の進化と感覚価値」(50分)
 明和政子(京都大学大学院教育学研究科 准教授、比較認知発達科学)
○基調講演2: 「コミュニケーションと感覚価値」(50分)
 岡田美智男(豊橋技術科学大学知識情報工学系 教授、社会的ロボティクス)
 < 休憩 15時30分より再開 >
○基調講演3: 「情報文化と感覚価値」(50分)
 吉岡洋(京都大学大学院文学研究科 教授、美学芸術学)
○パネルディスカッション(60分)
パネリスト: 明和政子、岡田美智男、吉岡洋
モデレータ・司会: 原田憲一(京都造形芸術大学芸術学部教授、地球科学)
指定討論者: 吉川左紀子(京都大学こころの未来研究センター教授、認知心理学)
18時まで自由討論。その後、近くの会場にて懇親会を予定。
*シンポジウムの議論の素材として、感覚価値について、登壇者がそれぞれの分野から以下の形式で定義した。
・・・・・・・・
「人間の○○を××する感覚が価値を生み出す」
「それは、□□であるため
**である。」
・・・・・・・
鎌田東二(http://homepage2.nifty.com/moon21/
人間の「モノを見立てる感覚」が価値を生み出す。
それは、「異質なモノを結びつける力」であるため
「モノとモノとの間に異常接近や超越などの変異を起こす」のである。
渡邊淳司(http://www.junji.org/
人間の「物語」を定位・所有する感覚」が価値を生み出す。
それは、「物語は質感とともに存在」するため
「物質の質感は知覚的想像力の根拠」となる。
明和政子(http://www.educ.kyoto-u.ac.jp/~myowalab/index.html
人間の「自己をメタ的に理解する感覚」が価値を生み出す。
それは、「自己の認識が他者の認識を生み出す」ため
「自己の内部状態を他者との関係において自己調整することが可能」となる。
岡田美智男(http://www.icd.tutkie.tut.ac.jp/index.html
人間の「身体とモノとの切り結ぶ感覚」が価値を生み出す。
それは「私たちの身体は不定さを伴う」ため
いつも「環境との間に新たな意味や価値を求める」のである。
吉岡洋(http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~yoshioka/
人間の、「情報を圧縮する感覚」が価値を生み出す。
それは、「身体的文脈を利用して行われる」ため
「直感的(aesthetic)」である。

一般参加可。予約・申し込み不要。直接会場にお越しください。
お問い合わせは、075-753-9682・9672まで。


 長くなって恐縮ですが、ぜひともお越しいただきたくお願いいたします。この4年間の研究成果、探究の成果をここでまずは全面展開してみたいと思います。近藤高弘さんはこの芸術部会の中心メンバーの一人で、アート分科会の座長役をしてくれています。

 最近、わたしは人間国宝で今年の文化功労者となった片山九郎右衛門(9世)の「白式神神楽」を京都観世会館で観ました。特に後シテに変じた時に、全身真っ白の衣装になるのですが、それが何とも色っぽかったこと。三輪の神様は元来男神なのですが、なぜかこの「三輪」の曲(「白式神神楽」は片山家に伝わる小書き)では女神となっているのです。そして、三輪の大物主神と伊勢の天照大神とが同体とされるのです。つまり、天つ神の代表神と国つ神の代表神が一身同体とするわけです。これは、象徴的には、伊勢と三輪と出雲を一つに結ぶ「神神習合」の典型的な思想表現ですね。

 わたしは、日本文化の構造的特徴を「習合思想」と「習合表現」、つまり、和漢折衷、和洋折衷、和魂漢才、和魂洋才などのハイブリッド習合思想に見ますが、世阿弥が作ったとされる「三輪」という曲は、そんな典型的なハイブリッド・キメラ構造なのです。

 この「三輪」のあらすじは次のようなものです。——大和の国の神の山・三輪山の麓に玄賓僧都(ワキ)が住んでいました。そこにいつも閼伽水を汲みに訪れてくる女(前シテ)がいます。ある秋の夜、訪れてきた女が夜寒になって衣を所望したので、玄賓僧都は衣を与えて素性を問うと、女は自分の住処は「山もと近き所」にあるからそこの「杉立てる門」をしるしに訪ねてきてほしいと僧都に答えます。そこである日、玄賓僧都は三輪の里を訪ねると、不思議なことに、杉の木にあの女に与えた衣が掛けてありました。そこに、女が三輪の神(後シテ)として登場し、「ちはやぶる。神も願ひのある故に。人の値遇に。あふぞ嬉しき」と謡いつつ、三輪の縁起や神代の物語を語り、「まづハ岩戸のその始め。隠れし神を出さんとて。八百万の神遊。これぞ神楽の始めなる」と、天岩戸の場面を再現すします。こうして、天照大神が岩戸から出てくる場面が舞い広げられ、「思へば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更何と磐座や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告。覚むるや名残なるらん」と閉じられます。

 まあ、なかなかやんか。今年の4月から月2回、定期的に、世阿弥研究会をやっていて、『風姿花伝』を読み進めていますが、世阿弥という人は凄い人だとつくづく思いますね。日本史を通じて、彼ほど「心」と「体」を論理的かつ表現的に徹底的に極め尽くした人はいないのではないかと思うほどです。

 けれども、世阿弥の晩年は不遇でした。最愛の長男元雅を亡くし、自分は佐渡に流されて、行方知れずのまま亡くなっています。

 元雅は伊勢の北畠の領地で暗殺されたとも言われていますが、死去する2年前に天河大辨財天社を訪れ、「阿古父尉」の能面を奉納しているのです。その能面の裏には「心中所願」と元雅によって裏書されています。この「心中所願」とは何であったのでしょうか。南朝と北朝との和解でしょうか? それもあるかもしれませんが、わたしはそこに、父世阿弥と義兄にして叔父の音阿弥(三郎元重、世阿弥の甥に当たる)との後継者問題に端を発する不和の解消にあったと考えているのです。

 なぜかと言うと、天河社で元雅は「唐船」を舞っているからです。そのあらすじは次のようなものです。——九州箱崎の某が唐との船争いの際祖慶官人という者を捕らえ、牛馬の野飼いとして使用人の仕事をさせていました。13年の時が経って、唐に残されていた二人の子供が父の祖慶官人を慕って日本まで渡って来ます。祖慶官人は、けれども、この日本の九州の地で二人の子を儲けていました。その二人の子と共に野飼いの仕事から戻り、彼は唐から来たわが子と対面します。唐の子供たちは、箱崎某の許しを得て父を唐に連れ帰ろうとしますが、日本の子らがそれを引き止め、引き裂かれた祖慶官人はついに海に身投げしようします。その顛末を見て、箱崎某は、あわれに思ってか、日本で儲けた二人子供も子唐で儲けた二人の子供も共に一緒に故国の唐に連れ帰ることを許可したので、この父子五人は船中で喜びの楽を奏しつつ唐へと帰っていった、と、こういうストーリーですね。

 この「唐船」という曲は、結局、親子義兄弟がみなハッピーハッピーとなって、仲良く共に父の故郷である唐に戻るというストーリーなのですよ。この筋書きはおそらく、元雅が現実になることを願っていたものだったのでしょう。しかし事態はその逆に進行し、義兄元重との不和と亀裂はますます激しく深刻になり、2年後に元雅は伊勢で客死し、落胆した世阿弥は佐渡に流されたのですから、「唐船」とはまったく逆の結末となったわけです。

 わたしは、世阿弥や元雅が強烈な「悲」を抱えながら、世界に類まれなる「能=申楽」という亡霊舞踊の演劇形式を編み出したことに、心からの敬意と凄さを感ぜずにはいられません。そんなこともあり、わたしは片山九郎右衛門さんの弟子である能楽師の河村博重さんと共に2010年1月31日(日)午後3時ごろ、モノ学の展覧会を行っている京都大学総合博物館の2階で新作能を表演するのですよ。わたしはもちろん石笛・法螺貝・横笛を吹き鳴らし、神道ソング2曲を歌うのです。えへへのへ、ですわ。

 ということで、今年も終わります。わたしは明後日、12月17日、春日大社のおんまつりに「細男(せいのう)の舞」を観にいって参ります。このサイコーにアヴァンギャルドは舞にわたしはすっかり魅せられてしまったのです。そして、これが能の原型ではないかと思っているのです。ではまた、来年まで。よいお年をお迎えください。オルボワール。

2009年12月15日 鎌田東二拝