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シンとトニーのムーンサルトレター 第147信

 

 

 第147信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、暑中お見舞い申し上げます。7月26日には久々にお会いできて嬉しかったです。その日の昼から、わたしは互助会保証株式会社の監査役会、続いて14時から取締役会が開催され、わたしも同社の社外監査役として参加しました。それから、いったん赤坂見附のホテルに帰ってから、わたしは四谷の上智大学に向かいました。その夜、上智大学グリーフケア研究所の人材育成講座科目「グリーフケアと人間学」で連続講義を行うためです。

 上智大学四谷キャンパスの6号館409教室で、18時から最初の特別講義を行いました。テーマは「唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか〜」。テキストとした『唯葬論』は、わたしのこれまでの活動の集大成となる本です。宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論という18の論考から「死」と「葬」の本質を求めました。



最初の講義テーマは「唯葬論」

「唯葬論」講義のようす
 わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。

 葬儀は人類の存在基盤ではないでしょうか。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行わなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵であると思えてなりません。

 講義後は島薗進所長とのトークタイム、それから質疑応答を受けました。さまざまな質問をお受けしましたが、その中で「一条さんは、これからどのような儀式を創造しようとされているのですか?」という質問がありました。わたしは、その一例として、「禮鐘の儀」を紹介しました。葬儀での出棺の際に霊柩車のクラクションを鳴らさず、鐘の音で故人を送るセレモニーです。みなさん多大な興味を示して下さいました。こうして、わたしの連続講義の第一部は終わりました。

 10分間の休憩を挟んで、19時40分から第二部として、「グリーフケア映画〜死を乗り越える映画鑑賞〜」と題した講義を行いました。グリーフケア研究所で「グリーフケア」について語るとは、まさに「釈迦に説法」の極みであり、とても勇気が要ることですが、「映画」というフィルターを通して語るということで、わたし自身楽しみにしていました。

 まずは、「グリーフケア映画」に先立って「グリーフケア読書」について話しました。もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能があります。これまでは自分こそこの世における最大の悲劇の主人公だと考えていても、読書によってそれが誤りであったことを悟るのです。長い人類の歴史の中で死ななかった人間はいません。愛する人を亡くした人間も無数に存在します。その歴然とした事実を教えてくれる本というものがあります。それは宗教書かもしれませんし、童話かもしれません。いずれにせよ、その本を読めば、「おそれ」も「悲しみ」も消えてゆくでしょう。



続いてのテーマは「グリーフケア映画」

「グリーフケア映画」講義のようす
 それから、本題である「グリーフケア映画」について語りました。わたしは映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間の「不死への憧れ」があると思います。映画と写真という2つのメディアを比較してみましょう。写真は、その瞬間を「封印」するという意味において、一般に「時間を殺す芸術」と呼ばれます。一方で、動画は「時間を生け捕りにする芸術」であると言えます。かけがえのない時間をそのまま「保存」するからです。それは、わが子の運動会を必死でデジタルビデオで撮影する親たちの姿を見てもよくわかります。「時間を保存する」ということは「時間を超越する」ことにつながり、さらには「死すべき運命から自由になる」ことに通じます。写真が「死」のメディアなら、映画は「不死」のメディアなのです。だからこそ、映画の誕生以来、無数のタイムトラベル映画が作られてきたのでしょう。

 そして、時間を超越するタイムトラベルを夢見る背景には、現在はもう存在していない死者に会うという大きな目的があるのではないでしょうか。わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあると思っています。そう、映画を観れば、わたしは大好きなヴィヴィアン・リーやオードリー・ヘップバーンやグレース・ケリーにだって、三船敏郎や高倉健や菅原文太にだって会えるのです。

 古代の宗教儀式は洞窟の中で生まれたという説がありますが、洞窟も映画館も暗闇の世界です。暗闇の世界の中に入っていくためにはオープニング・ロゴという儀式、そして暗闇から出て現実世界に戻るにはエンドロールという儀式が必要とされるのかもしれません。そして、映画館という洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。

 闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。

 その後は、個別の映画作品について語りました。テキストにした『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)の章立てで言えば、1「死を想う」では「サウルの息子」を、2「死者を見つめる」では「おくりびと」や「おみおくりの作法」や「遺体 明日への十日間」を、3「悲しみを癒す」では「岸辺の旅」を、4「死を語る」では「エンディングノート」を、5「生きる力を得る」では「シュガーマン 奇跡に愛された男」を、そして総論として「裸の島」を取り上げました。

 最後に「修活映画館」のプランについてお話しました。もうすぐ施設数が70を超える紫雲閣グループでは「セレモニーホールからコミュニティセンターへ」をスローガンに掲げています。「葬儀をする施設」から「葬儀もする施設」への転換を企てているのですが、その具体的実践の1つとして、日本最初の総合葬祭会館として知られる小倉紫雲閣の大ホールを映画館としても使う計画があります。そのプランを紹介して、質問をお受けしてから、連続講義を終了いたしました。

 講義の後、所長の島薗先生、副所長の鎌田先生とともに、ホテル・ニューオータニのレストラン「SATUKI」で遅い夕食を取りました。上智大学グリーフケア研究所の前所長である髙木慶子先生も御一緒でした。美味しいお料理をいただきながら、上智大学グリーフケア研究所の今後の在り方や活動についても意見交換させていただきました。上智大学は日本におけるカトリックの「最強・最大」の組織ですが、上智大学グリーフケア研究所もグリーフケアの「最強・最大」の組織となりつつある予感がしました。わたしも仲間に加えていただいて光栄です。葬祭業界へのグリーフケアの普及を目指して頑張ります。

 ところで、この8月に新しい著書である『般若心経 自由訳』(現代書林)を上梓いたしました。2014年に上梓した『慈経 自由訳』(三五館)の姉妹本です。沖縄在住の写真家である安田淳夫氏による素晴らしい写真の数々が自由訳を彩ってくれました。出版を記念してプロモーション動画も作成しました。以下のアドレスをクリックして、ご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=r00AKzL_YpA



『般若心経 自由訳』(現代書林)
 ダライ・ラマ14世は『般若心経』について、ことあるごとに「日本では、この経典は亡くなった人のために葬儀の際よく朗唱されます」と述べています。すべての宗派の葬儀で『般若心経』が読誦されている訳ではありませんが、曹洞宗や真言宗などでは読誦されています。考えてみれば、一般の日本人にとっては、お経そのものが宗派を超えて葬儀を連想させるものとなっています。そのダライ・ラマ法王の言葉に触れたとき、わたしは『般若心経』を自分なりの解釈で自由訳してみようと思ったのです。

 2017年年4月8日、ブッダの誕生日である「花祭り」の日、わたしは『般若心経 自由訳』を完成させました。これまで、日本人による『般若心経』の解釈の多くは、その核心思想である「空」を「無」と同意義にとらえていました。しかし、わたしは「空」とは「永遠」にほかならないと考えます。「0」も「∞」もともに古代インドで生まれたコンセプトですが、「空」は後者を意味しました。

 また、「空」とは実在世界であり、あの世であると思います。「色」とは仮想世界であり、この世であると思います。わたしは、「空」の本当の意味を考えに考え抜いて、死の「おそれ」や「かなしみ」が消えてゆくような訳文としました。弘法大師空海は、「空」を「海」、「色」を「波」にたとえて説いた『般若心経秘鍵』を著しています。わたしの自由訳のベースは、この空海の解釈にあります。

 実際に自由訳してみて、わたしは『般若心経』がグリーフケアの書であることを発見しました。このお経は、死の「おそれ」も死別の「かなしみ」も軽くする大いなる言霊を秘めています。空海はそこに「真言」の神髄を見たのだと思います。葬儀後の「愛する人を亡くした」方々をはじめ、1人でも多くの方々に本書をお読みいただき、「永遠」の秘密を知っていただきたいです。Tonyさんにも不遜ながら送らせていただきましたので、ご笑読のうえ、ご批判下されば幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 それでは、Tonyさん、まだまだ猛暑が続きますが、くれぐれも御自愛下さいませ。また、お会いできる日を心より楽しみにしております。

2017年8月8日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 7月26日、上智大学グリーフケア研究所での2コマ連続講義、まことにありがとうございました。大変刺激的で、体系的で、明晰で、心に沁みる講義であったと思います。とりわけ、1コマ目の『唯葬論』に基づいた明確な体系性と、2コマ目の『死を乗り越える映画ガイド』に基づく2コマ目の映画論の具体性の両方により、受講生も、大きな理論的枠組みと個別具体的事例との相関に目を見開かされました。大変刺激的で示唆に富む魅力的な講義、ありがとうございました。

 わたしは、時間的には余裕をもって、宮古島から那覇経由で羽田に向かいましたが、那覇空港の閉鎖により、フライトが1時間遅れたため、那覇空港での乗り継ぎもフライトも遅れました。そのため、四谷キャンパス到着が予定より、40分ほど遅れ、講義途中からの入場となり、大変失礼いたしました。が、講座終了後の懇談の場で、高木慶子特任所長、島薗進所長、萬崎英一主幹とともに総勢5名でいろいろとお話しできたことも大変ありがたく思います。

 7月には1週間中国。3日間奈良県天河。また1週間沖縄にいて、大変忙しい7月でした。ホント、目まぐるしかったです。

 沖縄では、那覇と久高島と宮古島に行きました。宮古諸島の北東に位置する離島「大神島」は沖縄で最もディープな「神の島」であり、わたしの沖縄体験の原点です。1998年1月、わたしは初めて沖縄を訪れました。その時、宮古島出身の友人の案内で大神島に渡ったのでした。その日、わたしは初めて沖縄の何たるかを垣間見ました。そのことを詳しく語ることはできませんが、わたしの沖縄体験の最深部だったと思っています。

 宮古島に行く前の7月21日・22日・23日、沖縄県那覇市と南城市久高島の2ヶ所で第2回目の「大重祭り」が行なわれたので参加しました。実に不思議な劇映画『黒神』(1970年制作)でデビューし、『久高オデッセイ第三部風章』が遺作となった映画監督の大重潤一郎(1946‐2015)さんは、ご存知のように、2015年7月22日に他界しました。だから今年2017年の命日の7月22日は、仏教で言えば3回忌に当たります。

 この「大重祭り」の主催は沖縄映像文化研究所で、そこの代表者は『久高オデッセイ第三部 風章』の助監督の比嘉真人さんです。その比嘉真人さんが全体と大重映画上映を担当し、ライブパフォーマンスをSEGEEさん(杉崎任克さん)が担当し、総務事務や会計を関真理子さんが担当してくれ、大重さんの仕事を敬愛し継承してくれる次世代の人たちが未来志向の「大重祭り」を支えてくれています。じつに、ありがたいことです。感謝!

 「大重祭り」前夜祭のスケジュールは以下のようなものでした。

7月21日 那覇柏屋
15:00〜大重映画上映『風の島』『ビックマウンテンへの道』
ライブ
 18:00〜18:10 オープニングSUGEE&JUN AMANTO
 18:20〜18:40 アマムYUKI
 18:50〜19:20 趙博
 19:30〜19:45 SUGEE(ゲスト真喜志亮)
 19:45〜20:05 小嶋さちほ
 20:15〜20:30 JUN AMANTO
 20:40〜21:00 鎌田東二

 わたしは神戸空港から那覇空港に15時過ぎに到着し、国際通り近くの松尾にある会場の柏屋に直行しました。15時半から主催者の比嘉真人さんの挨拶があり、故大重潤一郎監督の映画『風の島』(1996年製作)と『ビックマウンテンへの道』(2001年)を鑑賞し、この2本の映画上映後、40分ほどのトークを、建築家の真喜志好一さん、画家の坪谷玲子さん、俳優・ダンサーのJUN AMANTOさん、鹿児島から車イスで参加してくれた中村弘美さんと行ないました。中村弘美さんは、1970年に大重さんが桜島の東部の黒神地区で処女作「黒神」を撮影していた時に、大重さんが寄宿していた家の隣の家に住んで、撮影の様子をつぶさに見ていた貴重な生き証人です。

 「大重祭り」のパフォーマー、SUGEE、JUN AMANTO、アマムYUKI、趙博、真喜志亮、小嶋さちほ、各氏の演奏やダンスはそれぞれインパクトがありました。それぞれの味。多様で、多彩で、個性的で、自由。いのち。そこには祈りも風刺も、ロックも民謡もエレジーもありました。「神道ソングライター」として、わたしは、法螺貝と石笛奉奏の他、「虹鬼伝説」「なんまいだー節」「銀河鉄道の夜」「この光を導くものは」の4曲を歌いました。

 7月22日は大重潤一郎さんの命日です。朝8時半、小嶋さちほさんたちとともに久高島を望む聖地ヤハラヅカサで祈りを捧げ、その後、フェリーで安座間港から久高島に向かい、会場と宿所になっている久高島宿泊交流センターで次のようなプログラムで「大重祭り」を行ないました。

11時から、大重映画4本連続上映。
 ①『久高オデッセイ第一部 結章』(2006年製作)
 ②『久高オデッセイ第二部 生章』(2009年製作)
 ③『原郷ニライカナイへ〜比嘉康夫の魂』(2000年製作)
 ④『久高オデッセイ第三部 風章』(2015年製作)

 その後、18時からの開始だったライブは1時間延びて19時から次のようなスケジュールで行われました。

7月22日 久高島宿泊交流センター
 19:00〜19:10 オープニングMC 神田亜紀
 19:10〜19:30 アマムYUKI
 19:40〜20:00 趙博
 20:10〜20:25 SUGEE
 20:25〜20:45 小嶋さちほ
 20:50〜21:10 鎌田東二
 21:10〜21:20 全員によるセッション

 すべての演奏が、アンプラグド。完全アコースティック。ノーマイクなので声も音も小さいけれども、想いは大きかったと思います。命日の夜、各者の熱演で盛り上がり、カチャーシも踊られました。この夜わたしは、「神ながらたまちはへませ」「神」「君の名を呼べば」「フンドシ族ロック」の4曲を歌いました。そして最後にみんなで、故大重潤一郎監督に捧げる鎮魂歌「見上げる空に」合奏してもらいました。ありがたかったです。

神道ソング321曲目「見上げる空に〜大重潤一郎に捧ぐ」

  見上げる空に 星が一つ
  あれはあなたの 示すいのち
  輝き渡り 愛を伝えて
  この世の限りと 生きて往った

  わたしはあなたの 星を受けた
  だからいつも 迷わず行ける
  さみしくないよ 夢といるから
  この世を限りと 咲いて往った

   (間奏)

  青い海は すべてを包む
  青い空は みんなを抱く
  輝き渡る 愛といのち
  この世の限りと 満ちて往った
  この世を限りと 生きて往った
  この世を限りと 咲いて 散った

 「大重祭り」の後、7月24日から宮古島に行って、高野山大学教授の井上ウィマラさんと御嶽巡りをしユタの根間ツル子さんにお会いしました。宮古島に渡るのは6年ぶりでした。6年前の2011年3月末、まだ元気だった大重潤一郎さんと沖縄大学准教授の須藤義人さんと3人で宮古島に行き、大神島や池間島や伊良部島や下地島にも渡りました。そのことが繰り返し思い起こされました。

 宮古島に最初に来たのは1988年1月でしたが、何度も繰り返し来た時期は、1996年から1999年頃でした。大神島の良く見える集落・狩俣のアブンマの家を訪ねたこともあります。その狩俣と島尻と大神島ではウヤガン(祖神)祭が行われていました。「ウヤガン」とは「祖神・親神」のことで、アブンマ(大阿母)を中心に、ツカサ(司)と呼ばれる神女たちが御嶽に籠って祈りを凝らし、神懸るのです。そして、神と一体化したツカサたちは集落に降りてきて歌い踊り、1年の豊饒と子孫繁栄を祝い寿ぎます。この時、頭を緑の葉っぱの冠で覆います。

 ユタの根間ツル子さんとは、ちょうど20年前の1997年に1度お会いしたことがありました。民俗学者の谷川健一さんや電通関西支社の和泉豊さんと一緒でした。猿田彦神社の「おひらきまつり」の関連で、谷川健一さんが会長をしていた「宮古島の神と森を守る会」の3周年の大会の時でした。根間さんはその時のことを覚えていると言いました。「あんたは、緑のマントを着てたねえ」と、その時着ていたわたしの服装まで覚えていたので、驚きました。わたしはその席で、谷川健一さんと喧嘩したことしか覚えていないのに・・・

 サルタヒコという神とは? 今起こっている災害の元に何があるか? 平和の祈りのありようについて。お金の問題や権力や人をどう使うかという問題について。争いや対立の生起とその解消・解決について。戦没者に対する祈りについて。いろんなことをじっくりと根間さんから伺いました。そして最後に、根間さんのお宅の神棚の前で横笛を奉奏し、それに合わせて井上ウィマラさんが即興で優雅な踊りを踊ってくれました。

 7月25日早朝5時30分、狩俣の浜で禊をしました。禊をした浜の目のまん前に、朝日が出てくる直前の大神島が見えました。そしていよいよ日の出が・・・。「神の島」大神島を拝しながら、法螺貝・石笛・横笛を奉奏し、鳥船作法を行ない、祓詞を奏上してから、井上ウィマラさんと二人で真裸で禊をしました。大神島に向かいながら、大祓詞や各種祝詞、般若心経、各種真言奏上。目の前に大神島が聳え、実に神々しく見えました。



2017年7月25日朝6時の大神島


大神島


大神島

 日の出の時間は6時2分。先に記したように、大神島と狩俣はわが沖縄体験の原点ですが、今回その原点と初心を再確認した思いです。1988年1月に初めて沖縄に渡っておよそ30年。その沖縄の翁長県知事は、膠着状態で解決策の見えない沖縄の基地問題や米国の言いなりになっているオスプレイ使用の状況を通して、今なお日本が独立国とは言えない情けない実態を痛烈に批判しましたが、戦後沖縄の傷口は塞がるどころか、拡大し続けているように思います。これから先未来に向かってどのように進んでいくのかを「大重祭り」と宮古島訪問を通して、改めて問い直すことになりました。ありがたいけれども、とても痛い沖縄の旅でした。

 帰ってきて、いろいろと仕事を終え、つい最近、続けざまに7冊の小説を読みました。

 佐藤正午『月の満ち欠け』
 阿部智里『烏に単は似合わない』『烏は主を選ばない』『黄金の烏』『空棺の烏』『玉依姫』『弥栄の烏』

 この7冊です。後者の阿部智里さんの小説は、記紀神話に登場する「八咫烏」がテーマなので、読んでみました。いろいろと趣向を凝らしたファンタジー・ミステリー小説ですが、副主人公役の雪哉がよく描けていました。いろんな過去の傑作ファンタジーの本歌取りを含みつつ、物語は緻密に展開されます。とりわけ最終巻『弥栄の烏』では、猿と八咫烏の最終決戦が行なわれ、その原因となるルーツと歴史が明らかになるのですが、その展開は宮崎駿監督の『もののけ姫』を想起させました。

  かつてこの山には、あふれんばかりに神がいた。
  湖にも、村の田畑にも、木々にも、獣にも、風にも、雨にも、雷にも、あらゆる物と事象のすべてに、八百万の神が存在していた。
  そんな中で、山の主として君臨していたのは、猿と烏だった。
  共に、太陽の眷属だ。
   (阿部智里『弥栄の烏』305頁、文藝春秋、2017年7月刊)

 かつて、地主神として、「ヌシ神」として猿と烏がいた。そこに、都から新しい神がやってきて、権力構造が発生した。それまでの相生的・共生的バランスが崩れて、やがて、山神を挟んで、猿と烏が対立し、戦うようになる。その経緯が語られますが、『もののけ姫』の猩々の語りや、もののけ姫・サンの「ニンゲンはキライだ」の発言のように、どうしようもなく哀切でした。参謀であり、指揮官の雪哉はそんな猿軍団の痛みを知ることも推察することもなく、最高武官として容赦なく皆殺しにしていきますが、その非情に徹する雪哉の生い立ちと立場と思想と戦略と苦悩もよく描けていると思いました。このシリーズの人気の秘密は、主人公の金烏ばかりでなく、その金烏を支える雪弥という副主人公のキャラクターの作り方と描き方にあったのだと思います。

 この夏、政治的にも自然環境的にも深刻な危機的状況が進行していますが、そんな中で、わたしは一つの戯曲を仕上げる予定です。出来上がったら、ぜひ読んでほしいと思います。うまく行けば、来年秋には上演できると思います。楽しみにお待ちください。また9月中旬には、恐山円通寺院代の禅僧南直哉さんとの対談集『死と生—恐山至高対談』(東京堂出版)を出します。これまたご一読・ご批評くだされば幸いです。

 2017年8月12日 鎌田東二拝