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シンとトニーのムーンサルトレター 第069信

第69信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、お元気ですか? わたしは、この1ヵ月間、本当に目の回るような忙しさでした。冠婚葬祭互助会の業界団体の副会長を務めているのですが、東日本大震災の被災地における埋葬サポートを目的とした人的派遣などの問題があったのです。

 東北の被災地における人的支援を(社)全互協より依頼を受け、サンレーグループでは被災地支援の志願者を募りました。すると、約70名もの志願者が集まりました。現場の過酷な状況に加え、さまざまな危険もあるというのに、70名もの人が志願してくれたことに驚くとともに、感動しました。さらに、家族の同意も得た14名のメンバーが選出されました。現在2名1組で7チーム体制にて緊急出動態勢に備えて待機しています。

 大事な社員を被災地に派遣するのは、正直言って心配です。しかし、みんな快く引き受けてくれたことに感動しました。誰もが、わが社の「人間尊重」というミッションをよく理解してくれ、少しでも大震災の犠牲者の人間の尊厳を守ろうと考えたのです。14名の派遣スタッフをはじめ、70名の志願者のみなさん、そして彼らをサポートする他の人々も、会社の“社員”というよりも「天下布礼」の“同志“であると痛感しました。

 それにしても、被災地での埋葬環境には心を痛めています。東日本大震災の死者の数は、増加する一方ですが、その中で、遺体の埋葬が追いついていないのが現状です。施設の損壊や灯油不足などで火葬が進まず、土葬が行われています。身元不明者を埋葬する場合、警察がDNAや歯型などのデータを保管しており、遺族の照会があれば身元は確認できるそうです。

 今回の大震災における遺体確認は困難を極めています。津波によって遺体が流されたことも大きな原因の一つですが、阪神淡路大震災のときとは、まったく事情が違います。これまでの日本の災害や人災の歴史を見ても、史上最悪の埋葬環境と言えるかもしれません。

 そんな劣悪な環境の中で、日夜、必死に頑張っておられるのが自衛隊の人々です。今回の震災において、自衛隊は多くの遺体搬送を担っています。「統合任務部隊」として、最大で隊員200人が「おくりびと」となっているのです。災害派遣では初めての任務とのことで、整列、敬礼、6人で棺を運ぶという手順を現場で決められたそうです。本来は人命を守るはずの自衛隊員が遺体の前で整列し、丁寧に敬礼をする姿には多くの人が感銘を受けています。そこには、亡くなった方に敬意を表するという「人間尊重」の姿があります。そして、埋葬という行為がいかに「人間の尊厳」に直結しているかを痛感します。

 被災地の一部では、火葬が行われずに土葬が実施されていますが、これを異常事態ととらえる人は多いようです。じつは、わたしも土葬で「人間の尊厳」が守れるのかと心を痛めていました。しかし、4月15日の「産経新聞」朝刊で、立命館大教授の加地伸行先生が「土葬をめぐる意外な議論」という寄稿をされていました。加地先生は日本における儒教学の第一人者です。わたしの儒教や孔子に対する考え方は、加地先生の影響を強く受けています。加地先生は、東北の被災地で火葬ではなく土葬が行われていることについて、次のように述べられています。

 「結論だけを言おう。(1)儒教文化圏(日本・朝鮮半島・中国など)では、土葬が正統である。それは儒教的死生観に基づいている。(2)火葬はインド宗教(インド仏教も含む)の死生観に基づいて行われ、火で遺体を焼却した後、その遺骨を例えばガンジス川に捨てる。日本で最近唱えている散骨とやらは、その猿まねである。(3)日本の法律で言う「火葬」は遺体処理の方法を意味するだけ。すなわち遺体を焼却せよという意味。その焼却後、日本では遺骨を集めて〈土葬〉する。つまり、日本では(a)遺体をそのまま埋める〈遺体土葬〉か、(b)遺体を焼却した後、遺骨を埋める〈遺骨土葬〉か、そのどちらかを行うのであり、ともに土葬である。(4)正統的には(a)、最近では(b)ということ。(b)は平安時代にすでに始まるが、一般的ではなく最近ここ50年来普及したまでのことである」

 (a)の遺体土葬が主流であった理由は、加地先生の著書である『儒教とは何か』(中公新書)や、今月刊の『沈黙の宗教−儒教』(ちくま学芸文庫)に詳しく書かれています。

いずれも大変な名著です。神道の最高の入門書がTonyさんの『神道とは何か』(PHP新書)なら、儒教の最高の入門書は加地先生の『儒教とは何か』だと思っています。

 さて、加地先生は、「東北の方々よ、遺体土葬は決して非常手段ではない。いや、それどころか、むしろ伝統的であり死者のための最高の葬法なのである」と訴えかけます。わたしは、これを読んで、「なるほど!」と納得しました。たしかに火葬ができずに土葬されるからといって、「人間の尊厳」が失われるわけではないのです。むしろ、逆に土葬こそ「人間の尊厳」を守った葬法なのです。

 もちろん、この考え方は一般の日本人には馴染みはないでしょう。加地先生も「遺族の気持ちは理屈だけでは割り切れまい。死者に対して行きとどかなかったという思いがずっと残るかもしれない」と述べています。しかし、その後で『論語』に出てくる「喪は其の易まらんよりは寧ろ戚めよ」という言葉を紹介されています。「葬儀のときは、行き届きすぎるよりも、哀しみで段取りがずれるほうがいいのだ」という意味ですが、まさに2500年前の古代中国から現在の東北の被災者に向けて放たれた孔子の言葉です。ここでも、わたしは『論語』のすごさ、奥深さを思い知りました。

 3月29日の「朝日新聞」朝刊で読んだ、スタジオジブリの宮崎駿監督の談話も強く印象に残っています。自ら企画したアニメ映画「コクリコ坂から」の主題歌を発表する記者会見で、宮崎監督は東日本大震災について思いを述べました。宮崎監督は、「埋葬もできないままがれきに埋もれている人々を抱えている国で、原子力発電所の事故で国土の一部を失いつつある国で、自分たちはアニメを作っているという自覚を持っている」と述べ、さらに「今の時代に応えるため、精いっぱい映画を作っていきたい」と語ったそうです。

 同じ新聞には、「遺体の25% 身元不明」という記事も出ており、大震災の遺体の保管を警察側も苦慮していると書かれており、胸が痛みました。拙著『葬式は必要!』(双葉新書)などにも書いたように、葬儀とは「人間の尊厳」を守ることに他なりません。宮崎監督がコメントの最初に「埋葬もできないままがれきに埋もれている人々を抱えている国で」と発言したのは、そのことが何よりも重要な問題だからだと思います。

 同じ日、福岡県田川市に、わが社の新しいセレモニーホールである「田川西紫雲閣」がオープンしました。サンレーグループで44番目、福岡県では22番目のホールになります。竣工式には、近くにある風治八幡宮から2名の神官に来ていただきました。神事終了後の施主挨拶で、わたしは「田川西紫雲閣の完成によって会員様のお役に立てることができて嬉しいですが、心の中は被災地のことでいっぱいです」と述べました。そして、「この会館は田川の“西”にありますが、わたしの心は“東”に向っています。田川の“東”ではなく、はるか日本の“東”、つまり東日本です」とも言いました。わたしは、「何よりも大震災の犠牲者の亡骸が1人でも多く人間らしく弔われてほしいと祈りつつ、わたしたちは1件1件のお葬儀を『人間の尊厳』を守るという強い使命感をもってお手伝いしたい」と述べ、次のような短歌を披露しました。

 「紫の雲ぞ来たれり田川西 はるか東の御霊を偲び」

 わたしは、セレモニーホールは、いまや地域のインフラであると思っています。そして、そのことが再確認されたのが、今回の大震災でした。葬儀が華美である必要など、ありません。しかし、やはり人並みに葬儀をあげることが大切です。人間らしく人生を卒業していけることがいかに幸せなことか。そのことを、いま、多くの方々が噛みしめています。

 このたびの大震災では、これまでの災害にはなかった光景が見られました。それは、遺体が発見されたとき、遺族が一同に「ありがとうございました」と感謝の言葉を述べ、何度も深々と礼をしたことです。従来の遺体発見時においては、遺族はただ泣き崩れることがほとんどでした。しかし、この東日本大震災は、遺体を見つけてもらうことがどんなに有難いことかを遺族が思い知った初めての災害だったように思います。

 儒教の影響もあって日本人は遺体や遺骨に固執するなどと言われますが、やはり亡骸を前にして哀悼の意を表したい、永遠のお別れをしたいというのは人間としての自然な人情ではないでしょうか。飛行機の墜落事故も、テロも、地震も、人間の人情にそった葬儀をあげさせてくれなかったのです。

 さらに言うなら、戦争状態においては、人間はまともな葬儀をあげることができません。先の太平洋戦争においても、南方戦線で戦死した兵士たち、神風特攻隊で消えていった少年兵たち、ひめゆり部隊の乙女たち、広島や長崎で被爆した多くの市民たち、戦後もシベリア抑留で囚われた人々の多くも、遺族の人情にそった、遺体を前にしての「まともな葬儀」をあげてもらうことができませんでした。

 逆に言えば、まともな葬儀があげられるということは、今が平和だということなのですね。わたしはよく「結婚は最高の平和である」と語るのですが、葬儀というものも「平和」に深く関わった営みなのですね。また、わたしは、つねづね、「死は最大の平等である」と語っています。すべての死者は平等に弔われなければなりません。価格が高いとか、祭壇の豪華さとか、そんなものはまったく関係ありません。問題は金額ではなく、葬儀そのものをあげることなのです。葬儀とは、人間の「こころ」に関係するものであり、もともと金銭の問題ではないからです。

 田川西紫雲閣の竣工式の後、簡単な「直会」が行われました。佐久間進サンレーグループ会長の挨拶に続いて、神酒の乾杯です。風治八幡宮の若い禰宜さんが音頭を取りました。その禰宜さんは、乾杯の前に次のような挨拶をされました。「自分は神主なので、祝い事に呼ばれることが多い。当然ながら、『おめでとうございます』と祝いの言葉をかける。しかし、最近は大震災の悲惨なニュースに毎日触れて、『おめでとう』と言い続けることが悪いことにように思えてきた。神主の仕事をいったん休んで被災地にボランティアに行くことも考えた。しかし、あるとき、ラジオ番組で『今の自分の仕事をしっかりすることが大切』という話を聞いて、吹っ切れた。自分は、今日のこの良き日に、神主として、堂々と祝いの言葉を言いたいと思う」と。そして、「田川西紫雲閣のご竣工、誠におめでとうございます。乾杯!」と発声されました。若い禰宜さんの真摯な言葉を聞いて、胸が熱くなりました。そう、各自が自分の職務をしっかり務めること、それが日本復興への第一歩でしょう。

 日本復興といえばサンレー本社に戻ってすぐ、社長室に一本の電話がありました。内閣官房の内閣情報分析官の方からでした。その方は、『隣人の時代』(三五館)を読まれて、感銘を受けられたそうです。そして、わたしの話を直接聞きたいということで、わが国が抱えている多様な問題について意見を求められました。かなりの時間を電話で話しましたが、その方の示される問題がすべて、いつもわたしが考えているテーマばかりだったので驚きました。

 数日後、早速その方と東京でお会いしました。そして結論から言うと、わたしは重大なミッションを与えられました。その内容のすべてをここに書くことはできません。でも、その中の一つは「隣人祭り」に関わることです。福島原発事故により、福島のコミュ二ティが崩壊の危機に晒されています。ずばり、わたしに福島の避難所で「隣人祭り」を開いてほしいというのです。また、いま、大震災のスケープゴートとしての「東電いじめ」が深刻化しています。その方は、今後、東京電力が避難所での「隣人祭り」のお世話をすべきだと考えています。そこで、わたしに「隣人祭り」開催の指導してほしいというのです。

 それを成功させれば確実に全国から注目され、国をあげて各地で「隣人祭り」が開催される可能性が高くなります。まずは、東電幹部向けに「隣人祭り」の講演をしてほしいとのことでした。

 4月1日の総合朝礼では、東日本大震災の犠牲者の御冥福を祈って全社員で黙祷しました。その後の社長訓示では、被災地への支援について、義援金の募集について、葬儀という営みがいかに「人間の尊厳」に深く関わっているか、そして今回の大震災を契機として日本に「隣人の時代」が訪れたことなどを話しました。最後に次の短歌を披露しました。

「地は揺れて津波来たりて人死ぬる されどこれより隣人の世」

 本当に、大震災以来、わたしたちの社会の方向性が一変したように感じます。まず、あれほど声高に叫ばれていたエコ・ライフが一気に浸透しました。それは首都圏の夜が暗くなってしまった事実を見ても、よくわかると思います。計画停電ではなく節電によって、突如としてエコ社会が到来しました。そして、「無縁社会」だの「孤族の国」だのは、大地震が崩壊させてしまいました。「人はひとりで死ぬ」や「葬式は、要らない」などの妄言も、大津波が流し去りました。

 いま、沖縄にいます。明日、沖縄県沖縄市に「中部紫雲閣」がオープンするのです。場所は嘉手納基地のすぐ近くです。ここは騒音問題などで住民と米軍がうまくいっていないようなので、ここでも「隣人祭り」をすればいいと思います。もちろん、お手伝いさせていただきます。わたしは明日の施主挨拶の後で、次のような短歌を披露する予定です。

「この館カデナの基地に近けれど さらに近きはニライカナイよ」

 もうすぐ、わが社の社員たちが被災地の埋葬サポートに向かいます。わたしはというと、「隣人祭り」開催のために福島の避難所に入る可能性が高くなりました。死者の尊厳を守ること、避難所の方々のコミュニティーを守ること、わたしたちは両面作戦で「天下布礼」大作戦を実行していくつもりです。Tonyさんも色々とお忙しいでしょうが、お互いに世直しの道を進んでいければと思います。沖縄の夜空に上った満月が美しいです。

それでは、次の満月まで、オルボワール!

2011年4月18日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 いつもながら、活発かつ迅速で有意義な幅広い活動に心より敬意を表します。今回の東日本大震災では、情報ネットワークという点では阪神淡路大震災後の情報の流れ方とは全く違った流れが見られたと思います。

 わたし自身は携帯も持たず(時代錯誤的な大の携帯嫌い)、ツィッターもフェイスブックもしないネット社会の周辺人間ですが、今回の複合災害で、政府・東電・大メディア発表とは異なる情報網の活用は新しい動きやうねりに連動するものがあると感じています。周辺にいるわたしのところにも、その波動・余波・余震が伝わってきます。

 と同時に、わたしたちの身体は、「この身このまま」でしかないので、多様で多彩な情報空間の中で拡大・拡散しがちな「非等身大の情報的自己」と、この「等身大の身体的自己」との分裂や齟齬・断裂が起こる場合もままあると感じております。特に、ヴァーチャル・リアリティと混成した「非等身大でチェンジャブルな情報的自己」と、即物的リアリティと直結する「等身大のアンチェンジャブルな身体的自己」との分裂は、なかなか大きく、深く、困難な乖離事態だと思っています。

 Shinさんもよくご存じのように、わたしは、4年前に、比叡山を1〜2週間に1回ほど登拝してバク転(以前はバク転1回、現在は3回)する「東山修験道」を、「今ここのこの身このままの等身大の身一つ修験道」と位置付け、何かあったら、東京と京都を徒歩で往復できる「身体的自己」でありたいと思っていますので、この乖離を静かに厳しく見つめたいと思います。

 わたしの中では、「今ここのこの身」とか「等身大」というのは、「生態智」という具体的で身体的な知恵とともに、キーワードとなっていて、そうした自分の身体拠点から、「支援」(という言葉はこの身にそぐわないのであまり使いたくないのです)というよりも、「ご縁の生かし方」という意味合いでの「支縁」の在り方を探り、「身の丈」に即した地道な実践をしていきたいと思っています。

 「3・11」の前と後では風景が違って見えます。ある種の歪みや昏さが付きまといます。もちろん、原子力発電所の収束可能性の読めない巨大事故や節電の影響もありますが、もっと端的には、宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』ではありませんが、日本列島が「腐海」の底に沈むというイメージが付きまとってくるからです。

 今回の災害は、これまでの災害とはまったく異なる巨大な「複合災害」です。それは、過去に前例がなく、そして今もなお災害が現在進行形で深刻になっています。その中で、さまざまな破れと縫合の両方が発生し、コンフリクトし、せめぎあっているように見えます。この未曾有の災害と危機を日本社会の再構築の機会とすることができるかどうか、分岐点に立っていると思います。

 東日本大震災は、はたして21世紀文明のありかたを変えるでしょうか? 変えるとすれば、どのような方向に変わるのでしょうか? その変化の中での日本文明の位置とありかたはどうなるでしょう? そして、そこにおける、伝統文化(祭り、芸能、芸道、宗教など)はどのように活かされるでしょうか?

 わたしは、風の谷のナウシカのように、自然と人間と文明との関係の中での「生態智」の再発見・再評価・再編成・再構築をめざしてきましたが、それがしかし簡単なものではないことも肌身で感じ続けてきました。つい先ごろまで大ブームであった「パワー・スポット」ブームも、この大震災で吹っ飛んだとは思いませんが、「ちょっと待てよ」とブレーキがかかったように思います。それは決して悪いこととは思いません。メディアを含め、世の中全体が、表層的なレベルで浮かれていた、浮き足立っていたので、それが沈静化し、いよいよ本格的に、聖地などの安らぎや浄化をもたらす癒し空間の活かし方の模索や再評価・再構築が始まるとも思うからです。また、そうした角度から伝統文化の再発掘をしていきたいとわたしなどは今までも思ってきたし、これからもそうしていきたいと思います。

 Shinさんが関わっている「葬儀」の問題、そして、「隣人祭り」の実践はきわめて重要な喫緊の社会問題ですね。「心のケア」をする前にまず「遺体のケア」をしなければいけない。それも、大震災後の町全体が大津波に呑み込まれて破壊しつくされた中で緊急に行わなければならない。となると、この今も、またかなり後まで、「これでいいのか?」、「あれでよかったのか?」という思いや問いが消えることはないのではないかと思います。しかし、わたしたちは、どこかで、あきらめ、区切りをつけなければ生きていけない。それが「生きる」ということの生な事態ですから、なんとかしなければなりません。その「なんとか」には、「正解」などというものはないのだと思います。「それしかない」というのか、「それ以外の選択肢はなかった」、「それしか道がなかった、方法がなかった」というようなことかと思います。

 だからこそ、「悔い」も残るし、反省も、内省も、鬱々と連綿と続くと思います。だから、当然、鬱状態にもなるし、そうした中で「心のケア」が必要になることは間違いないでしょう。しかしながら、この「心のケア」というものが実にデリケートで単純ではないので、「どうしていいかわからない」という事態も起こります。でも、「どうしていいかわからない」時でも、人は「なんとか」して生きていきます。その「なんとか」と折り合いがつこうがつくまいが、生きていく中で格闘しつづけるほかないのだと思います。

 20歳のころ、集中豪雨のため、徳島県下で一軒だけ我が家が土石流に呑み込まれ、家が全壊しました。午後7時頃、母は裏山がもの凄い音でゴーッと鳴ったので、瞬間的に裸足で家を飛び出ました。土砂降りの雨の中、後ろから黒々とした土石流が襲いかかり、数秒前まで母がいた家は瞬時に呑み込まれてしまいました。その時、我が家には母一人しかいませんでした。豪雨の中、兄は姉を迎えに駅まで車で行っていて、帰ってきたら、我が家が土石流に呑み込まれて家が跡形もなく無くなっていたので、兄も姉も絶句したと思います。そこには、茫然とぬれねずみの母が突っ立っていたのです。

 そんなことも、つゆ知らず、わたしは能天気にフーテンかヒッピーのように、あちこち放浪していました。今から思うとわたしの人生はその時がターニング・ポイントだったと思います。それまで大学には1年半ほど通っていませんでした。大学からは家に退学勧告状が送られていました。そんなこともまったく知ることなく、わたしは好き勝手に放浪していたのでした。母はどんな思いで、我が家の喪失と息子たちや娘のことを考えたのでしょう。一緒に住んでいた兄と姉はともかくも、わたしについては、呆れていたか、どうしようもないとあきらめていたか、いずれにせよ、その愚息ぶりに落胆していたのではないかと思います。

 でも、それから後のわたしの生き方は変わりました。母に頼ることはできないと覚悟しました。大学を辞めて働こうと思いました。大阪で仕事を探し、数カ所で、就職試験を受けましたが、すべて不採用。髪の毛を腰のあたりまで伸ばして、眉など剃っていたヤツにまともな勤め先などあろうはずはなかったのでしょうが、そんな「社会」というか「会社」のことをまったくわかっていなかったのでした。しかし、そんな「ノーテンキ」が、わたしをここまで運んできたことも確かです。

 3月17日、わたしは世田谷パブリックシアターで麿赤兒さんと大駱駝艦の舞踏「灰の人」を観ました。そして、麿さんと会って話をしました。そのためだけに上京したのですが、その時のことを「モノ学・感覚価値研究会」のHPの「研究問答」欄に次のように書きました。

<今回の東北・関東大震災は、深く大きな衝撃だった。その衝撃をいまだ言葉にできない。

 17日・18日と上京したが、17日は都内の計画停電の影響もあり、渋谷駅の新玉川線が駅改札入場制限をしていて、改札口から渋谷東急109まで、およそ数百メートルの行列が出来ていたのには驚いた。学生時分から40年以上渋谷に通ってきたが、このような事態は初めてだった。前代未聞。夜遅くの渋谷や新宿駅も人がまばらで、日本とは思えない光景。「ここは戦場か? 社会主義の国か?」と思ったほどだ。

 戦争中の国のような感覚を持った。もちろんそれは、敵国との戦争ではない。文明と自然と人間との間に生じた戦いがもたらす戦場という感じだ。異常気象が常態化していく未来社会の前触れのようで、これからこれにどう対処していくのか、みずからに問いかけながら東京と自宅のある埼玉を巡った。東北関東には、東京自由大学の仲間を含め、家族や親戚や友人知人が多く住んでいる。おそらく、何がしかの放射能汚染は避けられず、被爆の程度もいまだ予測できない。それはすぐには影響なくても必ず後からさまざまな形で出てくるだろう。

 この大震災への対処は実に難しいと実感している。というのは、震災規模が巨大すぎ、また広域すぎて、その上に複雑すぎて、どのように全体に適切な対処ができるのかがいまだ見えないからだ。放射能汚染や余震のことも含め、まだ震災が現在進行形であり、全体像が見えない。

 (中略)

 3月17日、わたしは世田谷パブリックシアターに行き、舞踏家の麿赤兒氏と制作者の新船洋子氏に会った。麿赤兒氏と大駱駝艦の天賦典式舞踏公演「灰の人」の上演は大成功だった。特に最終回の昨夜の上演は、麿氏の踊りが最高だったと聞いた。

「灰の人」!

 何とも絶妙なタイミングでのタイトルとテーマではないか。黙示録的な預言のような。その象徴性と鎮魂の舞踏。

 フワフワ麿赤兒「御神体」は、不動明王のようでもあり、閻魔大王のようでもあった。冒頭登場の風の又三郎か、不動明王の使いのセイタカ童子・コンガラ童子のような存在と、対照的。なぜか、渋谷駅に設置された岡本太郎の巨大壁画「明日の神話」を思い出した。よくぞこの時期にこのテーマで舞ってくれた。さすがにわれらが「麿御神体」である。>(東山修験道その93、2011年3月22日)

 この「灰の人」という舞台を観て、麿さんは凄い、というか、素敵だと思いました。筋金入りだし、覚悟が出来ているし、舞踏というものが彼の身体や生き方や生活と密着し、「即身成仏」していると思いました。わたしはいつも、麿さんのことを本気で「麿御神体」と呼んでいるのですが、別に麿さんを神格化するのではなく、そう思うのです。実感するのです。

 麿さんは、三重県の津の生まれですが、小学生の時、奈良県桜井市三輪に引っ越しして、お祖父さんとお祖母さんに育てられたと聞いています。その彼をずっと見守っていたのが神体山の「三輪山」でした。三輪山は、麿さんの守護神のように、また背後霊のように、常にそこに「在り続けた」。そんな「三輪山」のような存在の仕方が麿さんの編み出した「天賦典式」という舞踏にはあるのではないか、と思うのです。

 今週の土曜日の4月23日、わたしは、麿赤兒さんと大駱駝艦の4人の女性舞踏家とともに「モノ降りしトキ」という新作舞踏作品をコラボレートします。3月17日の「灰の人」も麿さんたちの「鎮魂舞踏」でしたが、今回の「モノ降りしトキ」(このタイトルは1年以上前から決まっていました。「モノ」とは三輪山の神・大物主神のことです)もまた、この状況と時代と世に向けた「鎮魂舞踏」だと思っています。

 わたしは3月末に1週間沖縄に行きました。そして、何年振りかで大神島に渡りました。そして、そこで、22、3年前(1989年頃)に初めて沖縄に行ってそのまま大神島に直行した時にお会いした「ツカサ」(神女)の方と再会しました。その方は90歳になっていましたが、とてもお元気でした。わたしは彼女が70歳前の時にお会いしたのです。その時は、「ツカサ」として現役で神祭りに携わっておられました。その方の顔を見て、「いい年の取り方をされてるなあ」と思いました。島の生活にはさまざまな困難があったと思いますが、そこでこんなににこやかに、ほがらかに、スカッとしておられるのか、生きるということは凄いことなんだなあと妙に感心したのです。

 その再会は大変たいへんうれしい再会でした。京都に戻ってきて、また、東京と京都を往復する生活が続いていますが、23日に、NPO法人東京自由大学(HP)の13年の活動の総力を結集して、シンポジウム「シャーマニズムの未来〜見えないモノの声を聴くワザ」を開催します。震災で亡くなられた方々への鎮魂の思いと未来への想像力・創造力のありようを問いかけるつもりです。基調講演予定者の佐々木宏幹先生(81歳)は、被災地宮城県気仙沼の曹洞宗の寺院のご出身です。この日、Shinさんも観に来てくれるとのこと、大変ありがたくもたのしみにしています。われらの義兄弟の近藤高弘さんも観に来てくれます。久しぶりで、また義兄弟3人の揃い踏みになります。プログラムは以下の通りです。


NPO法人東京自由大学2011年度特別企画シンポジウム
「シャーマニズムの未来〜見えないモノの声を聴くワザ」

日時:4月23日(土)13:00〜17:30
会場:なかのZERO 小ホール(西館) *JRまたは東京メトロ東西線の中野駅
南口から徒歩8分
参加費:当日3500円 前売3000円 (学生は当日2500円 前売2000円)

第1部:The Butoh13:00〜13:45
   「モノ降りしトキ」
   大物主の神を祀る日本最古の聖地・三輪山の麓で育った麿赤兒の原体験を元に、鎮魂の思いとともに・・・
   舞踏:麿赤兒(舞踏家・大駱駝艦主宰)&大駱駝艦
   音楽:新実徳英(作曲家・桐朋学園大学院大学教授)
      鎌田東二

第2部:シンポジウム14:00〜17:30
基調講演:「シャーマニズムのちから」佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授)
パネルディスカッション:パネリスト:小松和彦(国際日本文化研究センター教授)
                  鶴岡真弓(多摩美術大学教授)
                  松岡心平(東京大学教授)
                  岡野玲子(漫画家)
          コメンテーター:麿赤兒、新実徳英・大重潤一郎
               司会:鎌田東二

なお、同日の午前中に同じ「なかのZERO」において、神戸に実家があり阪神淡路大震災の被災者現在沖縄在住の映画監督、大重潤一郎氏(NPO法人沖縄映像文化研究所理事長、参考:須藤義人『久高オデッセイ〜遥かなる記録の旅』晃洋書房、2011年4月刊)によるドキュメンタリー映画の上映会があります。

 「大重潤一郎ドキュメンタリー作品特別上映会」
日時:4月23日(土)9:40〜11:45
会場:なかのZERO 視聴覚ホール(本館)
内容:『水の心』
  『久高オデッセイ第二部 生章 2011年完成版』
参加費:1000円


実は、仲間とともに設立した東京自由大学は、阪神淡路大震災後、大きな「願」を持って、「いのちの声を聴く大学」として出発しました。自由な学問的探究と自在な芸術的創造を2つの柱として、各自の根源的な自由と自立の霊性の探究し自己教育していく場が東京自由大学でした。1998年の12月に準備を始め、1999年2月20日に「ゼロからの出発」と題するシンポジウムを最初の設立記念シンポジウムとして活動が始まり、本年、13年目となります。

 そのような設立趣旨と経緯を持つ東京自由大学が、このような時代と事態の中で、2つのシンポジウム「仏教は世界を救うか?」、「シャーマニズムの未来——見えないものの声を聴くワザ」を社会に問うことは、東京自由大学のできる社会貢献であり、使命でもあると思っています。
13年前の1998年11月25日に書いた「東京自由大学設立趣旨」は次のようなものでした。

 <21世紀の最大の課題は、いかにして一人一人の個人が深く豊かな知性と感性と愛をもつ心身を自己形成していくかにある。教育がその機能を果たすべきであるが、さまざまな縛りと問題と限界を抱えている既存の学校教育の中ではその課題達成はきわめて困難である。
 そこで私たちは、私たち自身を、みずから自由で豊かで深い知性と感性と愛をもつ心身に自己形成してゆくための機会を創りたいと思う。まったく任意の、自由な探求と創造の喜びに満ちた「自由大学」をその機会と場として提供したいと思う。
 私たちは、特定の宗教に立脚するものではないが、しかし、宗教本来の精神と役割は大変重要であると考えている。それは、それぞれの歴史的伝統と探求と経験から汲み上げてきた叡知にもとづいて、人間相互の友愛と幸福と世界平和の希求と現実に寄与するものと考えられるからである。私たちはそれぞれの宗教・宗派を超えた、「超宗教」の立場で宗教的伝統とその使命を大切にしたいと願う。そして、人格の根幹をなす霊性の探求と、どこまでも真なるものを究めずにはいない知性と、繊細さや微妙さを鋭く感知する想像力や感性とのより高次な総合とバランスを実現したいと願う。
 そのためにも、何よりも自由な探求と表現の場が必要である。自由な探求と表現にもとづく交流の場が必要である。
 そして、その探求と表現と交流を支えていくための友愛が必要である。探求する者同士の友愛の共同体が必要である。私たちが生活を営んでいるこの大都市・東京のただ中に、魂のオアシスとしての友愛の共同体が必要なのである。
 かくして私たちは、この時代を生きる自由な魂の純粋な欲求として「東京自由大学」の設立をここに発願するものである。
 「東京自由大学」では、「教育とは本質的に自己教育であり、自己教育は存在への畏怖・畏敬から始まる。教師とは、経験を積んだ自己教育者であり、それぞれを深い自己教育に導いてくれる先達である」という認識から出発する。そして、(1) ゼロから始まる、いつもゼロに立ち返る、(2) 創造の根源に立ち向かう、(3) 系統立った方法論に依拠しない、いつも臨機応変の方法論なき方法で立ち向かう、をモットーに、勇気をもって前進していきたい。組織形態、運動体としてはNPO(非営利組織)法下のボランタリー・スクール法人として運営および活動をしていきたいと準備している。
また地震など、災害・事件時のボランティア的な互助組織として機能できるように行動したい。自由・友愛・信頼・連帯・互助を旗印に進んでいきたい。
 みなさんのご参加を心待ちにしています。 1998年11月25日  鎌田東二>

 まる12年あまり、上記の理念を胸に地道に活動を続けてまいりました。そしてこれからも東京自由大学の果たすべき役割をたんたんと果たしていく所存です。今後いっそうのご支援のほどお願い申し上げます。23日、ご来場を心してお待ちしています。気合を入れて臨みますので、よろしくお願いいたします。

2011年4月20日 鎌田東二拝