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シンとトニーのムーンサルトレター 第018信

第18信

鎌田東二ことTonyさま

 Tonyさん、お元気ですか?なんだか気持ちが悪いくらいの暖冬ですね。コートがまったく不要です。いま金沢ですが、例年2月には大雪が降るのに、今年はさっぱりです。東京をはじめ、初雪の前に春一番が吹き、早くも梅の花が各地で咲きはじめています。桜もすぐに開花することでしょう。明らかに異常です。先日、アカデミー賞のドキュメンタリー映画部門を受賞した地球温暖化についての映画「不都合な真実」を観ましたが、思わず、「うーん」とうなってしまいました。地球に住むわたしたち全員が温暖化に対して真剣に考え、具体的な行動に移さなければ、たいへんなことになってしまいますね。

 映画といえば、「ルワンダの涙」にも深く考えさせられました。「戦争の世紀」といわれた20世紀も終わりに近づいた1994年4月、アフリカのルワンダで、フツ族によるツチ族虐殺(ジェノサイド)事件が起こりました。なんと、100日間で100万人が殺害されたのです。わたしは、映画「ホテル・ルワンダ」でこの事件について知り、衝撃を受けました。そして、先日観た「ルワンダの涙」で、さらにこの事件の全貌について詳しく知ることができました。ルワンダ虐殺事件は、事件の凄惨さもさることながら、西欧諸国が無視し、さらには国連さえもが黙殺したことで、その後の世界に大きな問題を与えることになったのです。21世紀に入った現在も、その宿題は残されたままです。

 多くの人は「宇宙船地球号」などと口にします。でも、本当に地球号の乗組員としての意識があるなら、温暖化も大虐殺も、ともに目をそむけてはならない「今そこにある危機」であるはずです。東京出張中に六本木ヒルズのTOHOシネマズで「不都合な真実」と「ルワンダの涙」も鑑賞したのですが、ともに「21世紀のバブルの塔」と呼ばれる場所にいるのを忘れてしまう深刻な内容でした。それにしても、映画の力はすごいです。

 東京にはよく行きます。二月もよく行きました。そのわけは、わたしの仲人が亡くなられ、通夜・告別式・本葬に、それぞれ参上したからです。故人は前野徹という方で、享年81歳でした。わたしが以前勤務していた東急エージェンシーの社長を永く務められました。東急グループの五島昇総帥の右腕として、東急エージェンシーを電通、博報堂に次ぐ業界3位の広告代理店にまで急成長させる一方、政界にも広い人脈を持ち、「東急グループの政治部長」という異名があったほどです。経済界にも顔が広く、ニュービジネス協議会やアジア経済人懇話会をはじめ、いくつもの団体や勉強会を立ち上げ、つねに誰かを「祝う会」か「励ます会」を企画されていました。

 そんな故人の座右の銘が、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」というものでした。いわゆる「柳生家の家訓」として知られているものですが、わたしはもう何十回、この言葉を故人から聞いたことかわかりません。まさに、袖すり合った縁を生かしに生かした人でした。

 一昨年、故人が肺がんの手術をされたと聞いたときは、たいへん心配しました。幸い手術は成功に終わり、その後、快気祝いの会が目白のフォーシーズン・ホテルで盛大に開催され、わたしも呼ばれて参加しました。見違えるほど痩せ細った姿には正直心が痛みましたが、数百人の参加者のメンバーの豪華さには仰天しました。日本を代表する一流企業の経営者がほとんどでしたが、多忙のなかを駆けつけた中曽根元首相、石原都知事、そして亀井静香氏の三人が挨拶に立ちました。三人とも、「この前野さんほど世話になった人はいません」と述べ、亀井氏は頭山満に、石原都知事は柳生石州斎に、そして中曽根元首相はなんと坂本龍馬に故人をたとえたのです。わが師の生かし続けた縁がこの日、大輪の花を咲かせたことを実感し、わたしの胸は熱くなりました。それとともに、「ああ、これは恩師の生前葬なのだ」と悟ったのです。手術には成功したものの旅立ちが近いことを覚悟した恩師は、生きているうちに縁ある人々に感謝の言葉を伝えたかったに違いありません。

 2月21日に青山葬儀所で行われた本当の葬儀も盛大でした。葬儀委員長が中曽根元首相、友人代表が石原都知事、伊藤雅敏氏セブンイレブン名誉会長、上條清文東京急行電鉄会長の三人でした。多忙のなか、安倍晋三首相や小沢一郎民主党代表をはじめ、多くの国会議員が弔問に訪れ、さながら永田町が移動してきたようでした。経団連の主要メンバーもみな来ていました。政財界の超大物があれだけ一箇所に集まったのも珍しいと思います。あのとき、青山葬儀所がテロ攻撃されていたら、日本は確実に危機に陥ったでしょう。

 じつは故人は、その「日本の危機」を何よりも日頃から憂慮し、数々の憂国の書を晩年に出版されていました。その多くはベストセラーになっています。葬儀の前日にも、『凛の国』という著書が講談社α文庫から文庫化され、葬儀当日に参列者に配られました。

 わたしが本を書くきっかけになったのは、この恩師のおかげです。わたしが東急エージェンシーに入社したとき、同社の社長であった恩師が処女作『ハートフルに遊ぶ』を出版して下さったのです。一介の新入社員にすぎなかったわたしに目をかけて下さり、多くの素晴らしい方々を紹介していただきました。何よりも、あと何年かすれば死語になるであろう「仲人」を引き受けて下さった恩は、いくら感謝してもたりません。わたしは、葬儀の際に、「仲人は親も同じと知りたれば 縁は異なもの ただ有り難し」、また、「袖をする縁をも生かす大切さ われに教へし 恩師旅立つ」と、感謝と送別の歌を詠みました。

 さて、本日、わたしの新著の見本刷りが出ました。『知ってビックリ!日本三大宗教のご利益〜神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)という本です。以前、出版が遅れているとTonyさんにお話した、あの本です。やっと出ました。当初、わたしは『神道&仏教&儒教〜日本宗教の仕組み』というタイトルにしたかったのですが、版元の意向で書名が変わりました。本当は「ご利益」という言葉がちょっと引っかかるのですが、仕方ありません。ただ、Tonyさんへの謝辞も記した「あとがき」がページ数の関係で削除されたことは、まことに残念でした。今度の本は、Tonyさんの御著書をたくさん参考にさせていただき、引用もさせていただきましたので、この場を借りて御礼申し上げます。

 また、「まえがき」として書いた文章も削除されています。前作の『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教=宗教衝突の深層』では「まえがき」として、「世にも奇妙な三姉妹の物語」というのを書きました。ユダヤ教を長女、キリスト教を二女、イスラム教を三女として、同じ親=神から生まれた一神教三姉妹がなぜ憎み合うようになったかを寓話風に綴ったものですが、これがなかなか好評で、かなりの反応がありました。そこで、今度の本でも次のような寓話を書いてみたのです。題して、「世にも奇妙な一夫多妻の物語」です。
「本書は、一人の男を夫とした三人の妻の物語である。

 男はもともと野生児であり、最初の妻も野生的で自然のなかに暮らす女だった。彼女は、山や海をはじめ自然のありとあらゆる場所をすまいとし、家は持たなかった。
 そこへ海の向こうから第二の妻がやってきた。彼女は南方の生まれで、長い旅路のすえ、半島を経て男のもとにやってきた。男は彼女を一目見るなり、完全に心を奪われてしまった。なにしろ、彼女は黄金の衣装を身にまとい、まばゆい光を放っていたのである。
 そして、二番目の妻は立派な家を建てて、男を招いた。野生児だった男は異国の美女に影響されて、次第に洗練されていった。そして、豪華絢爛な彼女の家に通いつめた。
 それを見た最初の妻は、わが身の行く末を不安に思い、二番目の妻を真似て家を建てた。男は二人の妻の住居を行き交い、それぞれの妻の魅力を満喫した。最初の妻は歌や踊りにすぐれ、第二の妻は話が上手だった。
 そこに三人目の女が現われた。彼女も同じ海の向こうの半島からやってきたが、第二の妻と生まれた国は違っていた。二番目の妻の実家ほど三番目の妻の実家は遠くなかった。
 第三の妻は厳格で礼儀正しかった。特に死者の弔いを大切にした。男の先祖をまつり、両親を大切にした。基本的に人間というものを信じていた。自分に厳しい女だった。男は他の二人の妻に比べて堅物であるとは思ったものの、この新しい妻を人間的に尊敬した。そして、男の生活習慣は知らないあいだに第三の妻の影響を受けていた。
 三人の妻は仲がよかった。最初は対立していた第一の妻と第二の妻も次第に打ち解け、そのうち一緒に暮らすほどの仲の良さを示した。しかし、心ない人々が二人を引き裂き、たいへん悲しい想いをした。第三の妻も先の二人を立てながら、ともに男を支えあった。
 男と三人の妻たちには三人の子どもが生まれた。三人とも三人の妻の血をそれぞれ受け継いでいた。やがて長男は軍人に、二男は商人になった。三男は人々の生活の隅々に入り込み、誕生から臨終まで何でもお世話するヘルパーのような職業についた。
 ここで正体あかしをしよう。男の名は、ヤマト。つまり日本人である。第一の妻は、神道。第二の妻は、仏教。そして第三の妻は、儒教である。その子どもたちは、長男が武士道、二男が心学、三男が冠婚葬祭と呼ばれた。
 これから、世にも奇妙な一夫多妻の物語をはじめよう。この物語には、実は人類を救うとても重要な鍵が隠されている。」

 以上のような内容ですが、諸般の事情でボツになりました。残念かつ悔しいので、ここに紹介させていただきました。この本は送らせていただきます。釈迦に説法で恐縮ですが、ご笑読のうえ、御批判いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

2007年3月1日 一条真也拝

一条真也ことShinさま

 『知ってビックリ!日本三大宗教のご利益〜神道&仏教&儒教』(だいわ文庫)、ご出版、おめでとうございます。経営の傍ら、次々と著書を世に問う超人的なご努力と情熱に敬意を表します。すごいですねえ、いつも感心しています。また、異常気象と、異常人類文明、まことにそのとおりです。「不都合な真実」と「ルワンダの涙」、必ず観ます。

 東急エージェンシー前野徹氏が81歳逝去されたこと、初めて知りました。前野氏は「東急グループの政治部長」と言われていたのですね。そして、「小才は縁に出会って縁に気づかず 中才は縁に気づいて縁を生かさず 大才は袖すり合った縁をも生かす」という「柳生家の家訓」の教えを生かし、実行された由。

 大人・大才だった人なのですね、前野徹氏は。たぶん、もう14年前に死去した義父とも同席したことがあるはずです。義父は元国鉄マンでしたが、大学の後輩の当時の東急社長五島昇氏に引き抜かれ、東急グループの東急車輛の専務取締役や監査役を務め、国鉄と東急が共同出資して作った大森駅ビルの初代社長と相談役を務めてリタイアしました。その間、東急グループのさまざまな集まりでおそらく同席していたと思います。

 「縁」というものは、ふしぎないきもの、ですね、ほんと。中でも、親子の「縁」は特別のものがあると最近しみじみと感じています。というのも、この2月16日に徳島の母が死去したので、何度か徳島と大宮と京都を行き来しながら、昔のことやいろいろな出来事や「縁」を反芻していたからです。

 母は大正14年(1925年)1月生まれで、昭和とともに歩んできた年齢にあたります。昭和20年の敗戦の年にはちょうど満20歳。前野さんともほぼ同年齢ですね。享年82歳でしたから。母は膵臓癌で死去しました。1月中旬ごろ、体調不良を訴え、1月16日に検査入院し、その2日後膵臓癌が始めて発見されたときには手遅れで、腸や胃に転移しており、ちょうど入院1ヵ月後の2月16日に死去しました。ほんとうに、あっという間でした。母がこんなに早く旅立つとは思いもしませんでした。

 彼女は20歳の敗戦の日には、呉の軍需工場で婦女挺身隊の一員として働かされていました。原爆は最初呉に投下される予定だったと聞きましたが、当日の天候からか、広島に投下されました。母はその広島の原爆の後の立ち上る燃える火や煙を呉から目撃したとも言っていました。

 41歳の時、昭和41年3月、夫を交通事故で突然亡くし、以来、女手一つで4人の子どもたちを育てました。父が46歳で死んだ時、わたしは14歳、中学3年が終わった時で、高校入試の発表の前日のことでした。兄は高校を卒業した直後、姉は高校一年、弟は中学一年でした。

 その母の苦労はわたしたち子どもが一番よく知っています。母が苦労したためか、兄弟仲はいいと思っています。今回の看病も子どもたちや孫たち・曾孫が立ち代り介添え・看取りしましたので、その点では母は死去するまでの1ヶ月決して淋しい思いはしなかったと思っています。わたしも一夜、介添えをし、母と二人の夜を過ごしました。その夜は、わたしが母を看病しているはずなのに、わたしの方が世話されているかのように、安心しきって、話しかけたり、うとうとしたりしながら朝まで過ごしました。

 母とわたしとの最後のやり取りは、「いよいよじゃ」、「ありがとう」でした。もう二度と会えないことがわかっているわたしが、採点などの仕事があるので大宮に帰ると言うと、彼女はわたしに、「いよいよじゃ」と言いました。最初それが分からず、聞き返すと、再び「いよいよじゃ!」とはっきり繰り返しました。しかし母に、「いよいよじゃ」と言われて、わたしは言葉を失いました。なぜなら、母には癌の告知をしていませんでしたので。でも彼女は、死期をはっきりと悟っていました。おそらく、動物的な勘でそれがわかっていたのでしょう。彼女は動物的な勘の鋭い人でしたから。

 別れの最期の時に、母に「ありがとう」と言えて本当によかったと思っています。2月18日に行なった告別式ではわたしが親族代表で挨拶しましたが、途中言葉に詰まり、泣いてしまいました。母の生い立ちを話し、その苦労などに触れた後、「母には百万遍『ありがとう』と言っても言い尽くせないくらい感謝の気持ちを持っています。『おかあさん、ありがとう!』」と言ったところで、胸が詰まり、目頭が熱くなり、絶句してしまい、集まって来てくださった弔問の皆様への謝辞も不十分なまま終わってしまいました。

 母の死からまだ1ヶ月も経ちませんが、死の直後から、悲しみよりも、感謝の気持ちがこんこんと湧いてきて、ときどき思わず涙ぐんでしまいます。こんなに深い感謝の思いが湧き出てくるとは思いませんでした。

 とてもプライベートなことを書いてしまいますが、母の病状が分かった1月23日の夜、わたしはこんな言葉を書きました。

おかあさん、
ぼくをうんでくれてありがとう。
そして、このきかんきなおとこのこをそっとみまもってくれてありがとう。

だいがくせいのころ、あなたが、「ひとにわらわれないりっぱなにんげんになってください」とてがみをよこしたとき、こころにぐさりときました。

でもぼくは、あなたのかんがえとはちがうかんがえをもっていました。
「ぼくは、ひとにわらわれる、りっぱなにんげんになりたい!」

せけんていやじょうしきではなく、たましいのほっするままにいきたい、それがうまれてきてからずっとぼくのなかでなりひびいていたこえです。

おかあさん、そんなぼくをしんぱいしながらそだててくれてありがとう。

どんなばかなことをしても、あなたがおこらなかったこと、わすれません。
いつも、てをあわしています。

1・23 かまたとうじ

 わたしは臍の緒を首に3巻き巻いて死にかかって生まれてきました。チアノーゼ状態で全身紫色。産婆さんが取り上げてくれて、慌てて臍の緒をはずし、頬や体をたたくと、やっと「フニャー」と声を上げた。この時死産であれば、今のわたしは存在しません。

 学生時代、無鉄砲で無謀なわたしを母はとても心配し、「この子はどうなるのか?」と町の霊能者に相談しにいったこともあると聞きました。その霊能者の言葉は後に母から聞きましたが、かなり当たっていると思います。

 『神道のスピリテュアリティ』(作品社、2003年)の「あとがき」にも書いたことですが、母はわたしが学生時代、「人に笑われない立派な人間になってください」と手紙を書いて寄越しました。それが彼女の精一杯の諌めの言葉であったと思います。しかしわたしは、母の言葉には納得できず、「俺は、人に笑われるリッパなニンゲンになりたい!」をポリシーに生きてきました。「立派」な人間になりたいというのは、言葉では同じですが、中身はずいぶん違うと思います。なぜなら、それは、「人に笑われない」か「笑われるか」とも関係しますから。「神道ソングライター」なんて、「人に笑われる」でしょう? いつぞや、そんな母の前でギター片手に歌を3曲ほど歌ったことがありましたが、彼女、困った顔をして聴いていましたねえ。忘れられません、その困った顔が。

 最後の最後まで母を心配させました。母の棺に入れる予定だった4個のおにぎりのうち、1個を知らずに朝ごはんだと思って、パクパクと食っちゃったのだから。末っ子が3合の米を4個のおにぎりにしてそれを棺の中に入れるというのが徳島の我が家のあたりの習俗なのです。弟が心を込めて握ったおにぎりを1個だけ横取りするとは! なんて奴だ!

 霊界の母は、「トウジはほんま、しゃーないやっちゃなあ!」と呆れ返っていることでしょう。そんな母の死のきっかけに、再び比叡山に登拝し始めました。昨夜3月1日も叡山参拝をしてきたのですよ。「モノ学・感覚価値研究会」のMLに投稿したので、その文章をそのまま以下に貼り付けます。


1、 東山修験道2月16日
(モノ学・感覚価値研究会HPより http://homepage2.nifty.com/mono-gaku/

母の死をきっかけにまた比叡山に登り、延暦寺を参拝したり、東山を歩き回ったりしている。2月16日の夜、本研究会メンバーの近藤高弘夫妻と京都大学理学部植物園園丁の中島和秀さんとわたしの4人で大銀食堂北白川店で夕食を共にしながら、陶芸や美術・藝術・日本画・大学・東山のことなどを話し合う。その後、夜9時から東山に入る。新月の前の日くらいで、山は真っ暗。降りてきたのは12時。3時間も山を徘徊していた。

バプテスト病院のところから山に入り、大山祇神社・ヌシ神社、白幽子庵跡、瓜生山幸龍権現、将軍塚地蔵まではまずまず順調。星明りでこんなに見えるとは。闇の中で眼を凝らしながら、足元を確かめ確かめ、そろりそろりと、ゆっくり進む。

しかし、木の生い茂ったところではほんとうにまっ暗で足元も見えない。道がわからない。けれども、幸い、靴だけが白っぽくボーっと見える。瓜生山から曼殊院に降りてゆく道まで行こうとするが、どうしても道を失ってしまう。山頂に出たり、道が無くなったり……。そこで、しかたなく、狸谷に出ようと道を下るが、これまたなぜか、不動尊の寺まで行き着けない。そういえば、死んだ母が狸に化かされて、夜中に同じ道をぐるぐる回っていたと言ってたな、などとつかぬことを思い出したりする。

そこで、あきらめて、一番歩いている京都造形芸術大学に降りる道を辿る。途中一度道に迷ったが、何とか降り切り、大学のJ41教室の裏に出た。いつもこの大教室で授業をしているんだよ。狸さん、「この大学でがんばれ!」と励ましてくれてるのかな、などとあれこれ思う。

ほんとに、夜中、幸龍権現近くの山道で蝶に出会った。小さな白っぽい蝶が目の前にひらひら飛んで、胸元に止まった。母の魂のような気がして、思わず手を合わせた。忘れられない一夜となった。
明かりも持たない夜道・山道で、人間のいかに無力で頼りなく覚束ないものか。この人間の位置を思い知らなければいけない。「父は死して道を歩ませ、母は死して道を成就せしめん」か……。母に対しては、「ありがとう」という言葉しか出てこない。ただただありがとう、ひらすらありがとうとしか。

2、東山修験道2月20日

比較芸術学研究センターの会議が終わり、午後4時半から6時半まで東山を歩く。大学の裏から東山に入り、瓜生山頂に向かい、幸龍権現・将軍塚地蔵をお参りし、16日に道に迷ったところを確かめた。なるほど、こんな地形になっていたのか。東山は思っていた以上に複雑に入り組んでいたのだな。こりゃ、新月の夜に迷うのも無理ないわ。

夕日が杉林に当たって、あまりに神々しく美しい。思わず、手を合わす。この光景をぜひ松生さんに日本画に描いてもらいたいなあ。

曼殊院までの道をゆっくりと降りてゆく。オレンジ色に輝く西の山並みが美しく、色彩のグラデーションを楽しむ。
三日月と金星が西の空にかかっている。思わず拍手を打つ。曼殊院天満宮と曼殊院弁財天と鷺森神社を参拝。なんか、ここから見る風景って、なつかしいんだよなあ。

3、東山修験道2月21日

死んだ母のことを思い出しながら、7時間かけて、独り比叡山に登り、根本中堂や文殊楼や弁天堂や無動寺等を巡拝し、阿弥陀堂で母の回向をお願いた。叡山には回峰行の拠点の無動寺谷に弁天堂があり、白装束の行者が護摩を焚いていた。その背後から法螺貝と横笛「心月」を奉奏する。848メートルの大比叡山頂を経て曼殊院・修学院方面に下りる。四日月と金星が今日もきれいだ。

今日は根本中堂はずいぶん賑わっていた。高校生の団体旅行みたいな。若い修行僧が講話していたけど、静かに本尊さんに対面し、笛を吹きたかったなあ。宇宙に浮かんでいるような内陣の静寂を感じたかったけど、今日は無理みたいだ。

でも、今日は無動寺谷の弁天堂がすばらしくよかった。叡山って、ほんとにすごいところだし、東側に琵琶湖を望む実に美しい景勝地だ。ここを拠点に選んだ最澄の直感に脱帽。最澄さん、アンタはスゴイよ!

4、東山修験道2月28日(水)

大学内での会議が終わり、三条の尾崎さんの事務所に直行。原さんと共に校正のチェック。その後、沖縄料理屋で遅い夕食を摂り、四条大橋まで歩き、鴨川沿いを三条大橋・御池大橋まで遡り、バプテスト病院から東山に入る。深夜12時頃から、大山祇神社、ヌシ神社を詣でた。本格的に登りにさしかかったところで急に「ブヒーッ!」と声がし、ガサゴソと森の中を行く音がした。「すわ、イノシシか!」 一瞬、総毛立つ。が、やり過ごし、白幽子庵跡を歩き、瓜生山頂に至る。

12夜だろうか。月光が明るく、ハレーションを起こしそうなくらい、光に溢れている。かと思うと、木の生い茂っているところでは、真っ暗で道も見えない。黒白ツートンカラーのまだら曼荼羅世界。幸龍権現、将軍塚地蔵を詣で、山を歩いて、修学院方面に出、曼殊院弁天堂と鷺森神社を詣でた頃には午前2時前になっていた。

スーフィー行者の友人インゴ・タレブ・ラシッドがよく「ナイト・ウォーク」をする性癖があったが、わたしもムーンライト・ナイト・ウォーカーになってしまった。ルナティック(気違いじみた)性格だなあ、ホント!

5、東山修験道3月1日(木)

午前中に仕事をして、午後2時から比叡山に登り始める。鷺森神社で法螺貝奉奏、勅使や親鸞や道元や日蓮も歩いたという「雲母坂(きららざか)」登山口でかっきり2時。延暦寺西塔の浄土院の前で、法螺貝と横笛を奉奏した時には、午後3時半だった。

浄土院は、最澄さんの御廟だそうだが、すばらしく静謐なところだった。聖なる静けさを感じ、とても最澄さんらしいと感心した。このところ、わたしの中では、最澄さんの株価は赤丸急上昇中だ。

面白かったのは念仏三昧を行じる常行堂と法華三昧の法華堂が軒を並べ、渡り廊下でつながっていたことだ。さすが延暦寺! 念仏・法華・禅・密教、と、何でもアリだよ、ここは! まさに日本的な知性の最高形態がここにあったのだなあ。

延暦寺からはよく琵琶湖が見渡せるし、西側に少し歩くと、都が一望できるし、最澄はなかなかの戦略家だ。この地に寺を建て、「国宝」級の人材を何人も輩出させたのだから。ほんと、すげー、と思うよ。
光の海のような琵琶湖。

今日はどうしても横川に行きたく、4時前に西塔エリアを出て、横川への回峰行者が辿る道を行く。この道を行くと、左手に都が一望でき、右手に琵琶湖と大津が一望でき、まさしく「ナチュラル拝」連続!

こりゃ、病み付きになるわな。回峰行者は基本的にこれが好きなんだろうな、と思える。この山道を歩くことにえもいわれぬ快美を感じ取っているのだろう。そうでなきゃ、1000日も続かないよ。あまりの快感にエンドルフィンが出っ放し。満開放出。

西塔から横川までは約5キロだが、ちょうど真ん中に玉体杉がある。この地はこれまた絶景で、そのワンポイントから御所と琵琶湖が一望できるのだ。東を見れば、琵琶湖。西を見れば都。折りしも、琵琶湖上空には13夜の月! この地から御所に向かって回峰行者は玉体安全を祈ったそうだ。さぞかし、行力がついただろうな。毎朝ここを歩いていれば。

横川中堂の前で、法螺貝奉奏。すでに4時半を回っていた。堂内の堂塔伽藍を巡拝。閉門していた元三大師堂で横笛と法螺貝奉奏。時間が遅いのか、一人の参拝者とも会わなかった。一人だけ、大師堂に尼さんがいたのを見かけた。静まり返った横川の伽藍。静かだ。実に。いいな、この静けさ。

親鸞や道元や日蓮は、この横川で学んだ。平安時代や鎌倉時代には、ここが日本一の最高学府だったのだ! 東大や京大も目じゃないほどに。この仏教知性は、都の政治と琵琶湖の自然美との緊張関係の中から生まれたのだ。高野山からはこんな緊張感のある知性は生まれ得なかった。残念ながら。この地に立つと、その必然がよく分かる。知性とはまずは「地性」、なのだ! これは、モノ学的テーマである。

道元得度の跡とか、日蓮が修行した旧跡の定光寺とか行ったが、何と言っても最高に感動したのが、元三大師廟だ。北と東西の三方が開け、木立越しに見渡せる最高の立地にある。横川はここを守護神的な奥の院として発達したのだな。元三大師良源は叡山中興の祖とも称えられるが、この廟の立地を見ると、さもありなん、と納得できる。彼は横川の地主神に化したのだ。

横川を出たのは、5時半。西塔まで帰る道すがら、地主権現を祀る磐座を二つ詣でる。大山祇・大山咋の神を祀る。これは収穫だった。東の上空の月は煌々と、西の山並みの茜色は赤々と、夜の帳に包まれる前の、まさに、月は東に、日は西に、のひととき。至福恍惚!

西塔に着いた時には真っ暗で足元も見えないが、月明かりが助けてくれる。根本中堂に辿り着いたのが午後7時。が、無動寺の弁天堂に行く道が分からず、根本中堂前をぐるぐる巡回する羽目に。巡視の守衛さんが懐中電灯を持って見回りに。不審者だよな、こりゃ。「どこから来たの? どこへ降りるの? 懐中電灯を持ってない? そりゃ無茶だ。京都まで降りるのだったら、弁天堂の方からの道だと絶対迷うから雲母坂から降りた方がいいよ。そうしな」

常識的に考えたら、そうだよな。でも、俺りゃ、生まれつき、非常識人間。「雲母坂から降りるから心配しないで。その道ならよく行き来しているから、懐中電灯無しで、月明かりで大丈夫だから」と、彼らの心配を払拭するのにまずは大変だった。それからが、しかし、一苦労。なにしろ、弁天堂から先は初めて辿る道だし。

弁天堂に行く道は門が閉じられ、塞がっているので、途中、崖を伝い降り、坂本に降りてゆくケーブルカーの乗り場に向かい、そこから弁天堂まで約30分。懐中電灯無しで、夜の8時半だからなあ。弁天堂を参拝して、夜道をひたすら辿る。もちろん、誰一人会わない。遭難覚悟だ。朝までいりゃ、なんとかなるわいなー。

山道が、しかし、13夜の月に照らし出され、あまりに美しく、幻想的で、このまま昇天しちゃいそう。途中、杉木立がガサゴソと鳴り、わたしを追いかけてくる。「比叡の神使いの猿か?」。これこそまさしく、総毛立つ瞬間。細胞がとんぎったよ! 昨夜はイノシシ、今日はサルかよー!! 山の神様、鎮まってー!

あえて、電灯無しで夜道を歩く。これが野生に入る「東山修験道」の第一則だ。人間の感覚をまず洗い落とす。そして、イノシシやサルと同じ「身一つ」の感覚原野に立ち返る。そこから、何が見えてくるか?

恐怖とか、不安とかの、立ち現われを内観する。「そうか、このようにして、恐怖心が出てきたり、不安がったりするんだな」と、よく分かる。夜の山は、ニンゲン様が立ち入ることのできない時間であり場所だ。

そういや、昔、アイルランドの夜道、サントリーニ島の夜道で一人道に迷ったことがあったな。ゴールウェイ近くのセント・パトリックの山に一人登ったな。あの時も日が暮れて、しかも雨になって、町までは歩いて3時間もかかり、泣きそうになりながら、歩いたよ。どうして、こんな、無鉄砲で、無謀な性格に生まれついたのか。死んだ母に感謝! そんなDNAを俺に植え付けてくれて!

このまま琵琶湖沿いに山道を行くと、大津に出るのかな、途中で「夢見ヶ丘」という名前の美しい名前の丘に至るらしいが、と思っていると、とうとう、分岐点に出た。トンネルを潜ると、そこは、都に抜ける道だった!

ああ、ここだったのか。この前昼間歩いた時は、比叡山ドライブウェーに出たが、「灯台元暮らし」とはこのこと。この道のすぐ下に抜け道があったのか。真理は、まさに、足元にあった! 脚下照顧だな。

月明かり、腕時計を見ると、その時点で、午後9時半。ようやるわ。でも、この道、知ってる! 知っているというだけで安心するが、しかし、人っ子一人いない夜道だ。気を抜いたらいけない。オリオン☆とスバル☆が本当にきれい。手を合わす。ポンポンと拍手を打つ。天上の星々の美しさ。地上の人間たちの・・・・さ。ニンゲン様がイチバン悪いよな。そして時々転びながら夜道をひたすら1時間あまり下る。

最後に、曼殊院弁天堂と鷺森神社を参拝して、本日の「東山修験道」無事終了。ただただ、神仏に感謝! 動植物にも感謝!! 時計は、午後10時半を回っていた。

教訓。「自分の直感に従い、信じる道を貫き、不動心で臨めば、いつしか道が開ける。それまでは、辛抱。あきらめない。途中で止めない。引き返さない」

母が遺してくれた教訓だ。合掌。


一条さん、個人的なことを長々と書き連ねてごめんなさい。母は数奇な運命を生きた人だと思いますが、わたしに大きなものを残してくれました。その母の精神的な遺産と愛はありがたくもはかりしれません。

2007年3月2日 鎌田東二拝