シンとトニーのムーンサルトレター 第163信
- 2018.11.23
- ムーンサルトレター
第163信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お元気ですか? おかげさまで、法令試験には合格いたしました。
この1ヵ月、じつにいろんな出来事がありました。まず、10月30日の14時から開催された冠婚葬祭総合研究所主催の講演会に参加しました。場所はTKP新橋カンファレンスセンターです。講師は、Tonyさんで、テーマは「弔いの思想と葬儀の社会的価値と機能〜人類はなぜ葬儀を発明したのか?」でした。登壇したTonyさんは最初に法螺貝を奏上されました。講演は興味深い内容でしたが、「死者とのつながりがある方が、強く生きていける」「死者との相互交流、死者との共生は、今を生きるわたしたちを強く生かしてくれる。また、深く生かしてくれる」「死者との交流が持てば、悲しみはあっても、強く生きることができる」という言葉が印象的でした。
最後は「葬儀には『美』が不可欠であり、『物語』が不可欠である。人間はみな生まれつきのGPSを持って生きているが、死者を忘れるとそれが機能しなくなり、現在いる位置の確認ができなくなる」という言葉を述べられ、盛大な拍手を受けました。
講義終了後は会場内でティー・パーティーが開催され、Tonyさんは互助会業界の方々と名刺交換をしたり、質疑応答をしたりしていました。わたしも、30年来の付き合いのあるTonyさんと業界のみなさんが歓談している姿を見て、不思議な想いを抱くとともに、非常に感慨深いものがありました。
鎌田東二講演会のようす
冠婚葬祭総合研究所の図書室で
ティー・パーティーの後は、近くの「COMS虎ノ門」まで移動、そこに入っている冠婚葬祭総合研究所の図書室で打ち合わせをしました。出版プロデューサーの内海準二さんも一緒でした。内海さんは図書室の蔵書に自分が編集した「一条本」が多いことを発見し、感慨深い様子でした。その後、わたしたちは赤坂見附のレストラン「ジパング」に場所を替えました。ジパングには全互協の儀式継創委員会の浅井秀明委員長が待っておられて、わたしたちは4人で会食しながら儀式文化について熱く語り合いました。
11月7日からは、サンレー沖縄の社員旅行で宮古島に行きました。伊良部大橋、池間大橋、来間大橋の三大「大橋」も訪れました。7日の夜、宿泊先のホテルアトールエメラルド宮古島で宴会を開きました。冒頭、わたしが社長挨拶をしました。わたしは、「このたびの旅行は、サンレー沖縄創立45周年を記念するものです。わたしは沖縄が大好きです。『守礼之邦』と呼ばれ、日本全国でも最も先祖と隣人を大切にする沖縄の地で冠婚葬祭業を営んでいることに心からの誇りを抱いています」と述べました。それから、わたしは「沖縄には日本人が忘れてしまった有縁社会が息づいています。今こそ、『本土復帰』ではなく『沖縄復帰』すべきであると思います。みなさんとゆっくりお話しする機会はなかなかありませんが、今夜は大いに飲んで、語り合いましょう!5年後のサンレー沖縄創立50周年を目指して、みんなで力を合わせて頑張りましょう!」と言いました。
宮古島の海を背景に
宮古島の宴会のようす
カラオケタイムでは、わたしはBEGINの「三線の花」を歌いました。沖縄の心を歌い上げたハートフルなナンバーです。歌い終わると盛大な拍手が鳴り響き、アンコールが起こりました。わたしは基本的に宴会で2曲は歌わない主義なのですが、いつまでもアンコールが止まないので、仕方なく歌うことにしました。結局、北島三郎の「まつり」を歌いました。途中、社員のみなさんと握手をしながら会場を回りました。すると、「法令試験合格おめでとうございます!」という横断幕が登場して、驚くとともに胸がいっぱいになりました。その後、そのままカチャーシー大会になりました。沖縄に限らず、社員旅行に行くたびに、会社の仲間がますます好きになります。やりがいのある仕事と素晴らしい仲間に恵まれ、わたしは本当に幸せ者だと思います。
翌8日の夜、宮古島から那覇経由で羽田に飛びました。羽田から横浜のホテルに移動してチェックイン。9日は、朝から「世界仏教徒会議日本大会」に参加。わたしが全互協の儀式継創委員会の担当副会長を務めている御縁からです。会場は、横浜市鶴見区にある曹洞宗大本山總持寺でした。なんと、ここの広さは東京ドーム17個分だとか。世界仏教徒会議の大会が日本で開催されるのは10年ぶりだそうですが、この日は「世界平和祈願法要」「記念式典」「記念撮影」「シンポジウム」などが行われ、参加しました。仏教系幼稚園に通う元気な園児たちと各宗派の“ゆるキャラ”たちが迎えてくれました。2年に一度、WFB世界仏教徒連盟、WFBY世界仏教徒青年連盟最高の議決機関として、世界仏教徒会議が加盟国で開催され、開催国はその貴重な機会にあわせ、仏教興隆をはかるための式典や法要、イベントなどを含む大会を開催しています。わたしは初めて参加しましたが、仏教の「いま」を知ることができました。
11月14日の夜、上智大学グリーフケア研究所の客員教授として、最初の講義を行いました。昨年、一昨年と特別講義を行った時はサンレー社員が随行していたのですが、この日は自分1人で四谷の上智大学を訪れました。そして、自分1人でパソコンを立ち上げ、パワポを操作して、講義を行いました。正直、生まれて初めての経験でした。
冒頭、わたしは姿勢を正して、「わたしは、これまで冠婚葬祭の仕事に従事してきました。これまで、わたしが学んできたこと、行ってきたことのすべて、わたしの人生のすべてをかけて、グリーフケアの研究と実践に尽力したいと考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします」と受講生のみなさんに対して深く一礼いたしました。みなさん、温かい拍手を講義のテーマは「グリーフケアと葬儀」です。
まずは、「葬儀」についての自分の考えを明らかにしました。それから、「グリーフケア」について話しました。2010年6月、わが社では念願であったグリーフケア・サポートのための自助グループを立ち上げました。愛する人を亡くされた、ご遺族の方々のための会です。月光を慈悲のシンボルととらえ、「月あかりの会」という名前にしました。同会の活動をはじめ、「隣人祭り」や「ともいき倶楽部」「笑いの会」など、これまでわたしが実践してきた実例を紹介しながら、無縁社会=グリーフ・ソサエティを超える方策についての私見を語りました。
講義後の質疑応答では何人もの方が興味深い質問をして下さいました。もしかしたら、そこでのわたしの回答のほうが講義の要点を押さえていたかもしれません。終了後も廊下で儀式の役割について質問をされる方などもいて、その熱心さには頭が下がりました。
世界仏教徒大会日本会議で
サンレー創立52周年のようす
翌15日にスターフライヤーで北九州に戻りました。そして、16日は「サンレー創立52周年記念式典」が開かれました。朝から松柏園ホテルの顕斎殿で、役職者参加の神事が執り行われました。わが社の守護神である皇産霊大神を奉祀する皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。佐久間進会長に続いて、わたしは玉串奉奠を行いましたが、会社の発展と社員のみなさんとそのご家族の健康を祈念しました。その後、500名を超える社員が参集して、「創立記念式典」が開催されました。佐久間会長に続いて登壇したわたしは「相互扶助の心と人生を肯定する冠婚葬祭は永久に不滅です。新しい時代を高い志で切り拓いてゆきましょう!」と述べ、最後に「平成の幕降りるとき誓ひたり 支縁の世をばわれら拓かん」という道歌を披露しました。
18日の日曜日は、映画「君は一人ぼっちじゃない」で、同作品の完成披露試写会でした。 完成披露試写会の場所は、映画の撮影にも使われた小倉紫雲閣の大ホールです。この日は、三村順一監督をはじめ、鶴田真由さん、的場浩司さんらの俳優陣5人が来場して舞台挨拶しました。セレモニーホールでの映画の完成披露試写会および舞台挨拶はおそらく世界初ではないかと思います。挨拶を終えて、わたしがが下手へ下がる途中、わたしが「君は一人ぼっちじゃない」に出演したというエピソードが紹介され、赤面しました。撮影は松柏園の大広間で撮影が行われ、わたしは、渡辺裕之さん演じる地元財界の大物経営者である佐久間社長(!)が開いた宴席の主賓の役でした。
舞台挨拶の前にわたしが主催者として挨拶しました。鶴田真由さん演じる芸者の駒子が佐久間社長の昔の女でした。駒子の舞いを楽しんだ後、拍手をして終わりのはずでしたが、なんと急遽、わたしにセリフが入りました。昔の女の思い出に浸っている佐久間社長に気をきかせて、「佐久間さん、今日はどうもありがとう。先にカラオケに行ってるよ!」と言って退席するというものです。しかしながら、単なるエキストラ出演だと思っていたわたしは、急にセリフを与えられて、ちょっと慌てました。それでも、1度だけ撮り直しをしましたが、ぶっつけ本番で何とか演じ切りました。
その後、三村監督と5人の俳優さんたちが舞台挨拶をした後、わたしが再び登壇して、鶴田さんに花束をお渡ししました。Tonyさんは鶴田さんと親しいそうで、近く奈良で『古事記』をテーマに一緒にトークショーを行われるとか。鶴田さんに「わたしはTonyさんの魂の弟なんですよ」と言うと、大変驚かれていました。まさに縁は異なものです。
映画の舞台挨拶で鶴田真由さんと
上智大学を照らす月
20日、再び上京しました。14時から全互協の儀式継創委員会に参加し、夜は有楽町で映画「A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー」を観ました。タイトルそのままに幽霊が登場する映画で、グリーフケアのヒントになると思ったのです。「死」を「詩」として表現したアート系の映画でしたが、幽霊を「時間を超えた存在」として映画いているところが興味深かったです。
翌21日の朝は、東京は気温7度以下の寒さでした。その日は早朝から議員会館で国会議員の先生方との朝食会、その後は西新橋で互助会保証の取締役会の事前打ち合わせ、全互協の正副会長会議と委員長会議に出席。そして、夜は客員教授を務める上智大学グリーフケア研究所で講義を行いました。この日は「朝日新聞」の取材が入りました。夜空には幻想的な月が輝いていました。テーマは「グリーフケアと読書・映画鑑賞」でした。当初は「グリーフケアと読書」の予定でしたが、島薗所長から昨年の特別講義が好評だったので、「ぜひ今年もお願いしたい」というリクエストがあり、急遽、「読書」に「映画鑑賞」を追加した次第です。
「グリーフケア」にしろ、「修活(終活)」にしろ、一番重要なのは、死生観を持つことだと思います。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。一般の方が、そのような死生観を持てるようにするには、読書と映画鑑賞が最適だと思います。本にしろ、映画にしろ、何もインプットせずに、自分1人の考えで死のことをあれこれ考えても、必ず悪い方向に行ってしまいます。ですから、死の不安を乗り越えるには、読書で死と向き合った過去の先人たちの言葉に触れたり、映画鑑賞で死に往く人の人生をシミュレーションすることが良いと思います。この日は、そんなことを話しました。
受講生の方々からは多くの質問をお受けし、最後はこれまでにない大きな拍手も受けて感動しました。講義後は、島薗所長とともに四谷のレストランで「朝日新聞」の取材を受けました。グリーフケアの研究と実践はわたしの天命だと思っています。これからも全身全霊で、この道を歩んで行く覚悟です。上智大学を照らす月を見上げながら、そう誓いました。それでは、次の満月まで。ごきげんよう!
2018年11月23日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
まずは、法令試験の見事合格、まことにおめでとうございます。短期間での勉強と本番の強みで合格を勝ち取り、これにより、いっそう頼もしく前進できますね。さぞかし社員の皆様も社長の奮闘に鼓舞されたと思います。まさに「率先垂範」、言行一致の見本です。心より祝意と敬意を表します。
また、上智大学グリーフケア研究所(四谷)での客員教授としての講義、まことにありがとうございました。Shinさんの該博な知識と経験が受講生の関心と感性とうまく切り結ばれ、ともに触発され創発されていくことを心より願っております。今後ともよろしくお願いします。また、「久高オデッセイ第三部 風章」のナレーションを担当してくれた鶴田真由さんとのご縁も、面白くも不思議ですね。わたしも来月、鶴田真由さんと奈良県で『古事記』をめぐる対談をする予定です。
さて、先回のムーンサルトレターを書いたのは、ちょうどShinさんたちの集まりの講演の日でした。その少し前にわたしは帯状疱疹にかかり、背中と胸もとに痛みを抱えていました。服がこすれると痛いので、動作も鈍く、普段の運動量の1/10くらいの活動量でしたね。ところが、その講演中に喉の調子がおかしくなり、少し声がかすれ始めました。そして講演終了後、Shinさんたちと食事をしている時に寒気がしていました。その翌日から声が出なくなったのです。まる2日間は一切声が出ない状態でしたが、しかしいろいろと仕事が山積しています。加えて戸隠神社や諏訪大社や茅野の縄文博物館への見学の研修旅行や美術館での対談もありましたので、体調不良で本当に大変でした。移動することも声を出すことも、基本的な身体動作がままならなくなった時の人間の能力と活動の低下は信じられないくらいの差ですね。普段「身心変容技法」という領域を研究していますが、まさにマイナスレベルに「身心変容」したこの1ヶ月でした。
そのせいで、普段から意識していますが、よりいっそう身体と声に注意せざるを得ず、空海の思想と活動を改めて見直しました。やはり、いろんな領域で、またいろんな意味で、空海は大きな先人・先達ですね。声は身体の流出であり、身心変容の瞬間瞬時であり、宇宙や大日如来との交信現場です。その声のデリケートさと力と象徴性を再認識しました。
来週末の11月30日から21月2日までの金土日の3日間、「身心変容のワザと哲学」をテーマに、フランス、ロシア、中国、日本の4ヶ国の国際シンポジウムを行ないますが、その前にこんな体調に「身心変容」したことも一つの「啓示」であると思っています。
さて、この前のShinさんや浅井さんや内海さんとの会食の時に出たいろいろな話も面白かったですね。これからもいろんなおもろい企画をガンガンやっていきたいですよ。話の中で、『禁じられた遊び』の「禁じられた遊び」が実は動物殺しであるという話になりましたが、ポーレットとミッシェルとの墓作りとは、ミミズやモグラやヒヨコの殺害でもあったということなのですね。愛犬は空襲によってドイツ兵の機関銃に撃たれて死んだので、戦死というか、犬にとってもポーレットにとっても事故死というか、でしたが、どこからミッシェルは動物殺しに手を染め始めたのでしょう? その心理の推移を考えてみたくなります。彼はポーレットを慰めるために墓を作り続けるのですよね。一人ぼっちになった天涯孤独のポーレットの「死者」の「お友達」を作るために次々と墓作りをし、そこに埋葬する動物たちを・・・・・・。そのことを考えると、何とも言えない気持ちになります。あの映画のキーマンは、やはり、ミッシェル少年ですね。彼の発想と行動が「禁じられた遊び」を生み出すのですから。ミッシェルはカトリックの信仰の深い田舎の普通の少年のようですが、しかし悲しい眼差しを持った少年です。その彼の悲しみと痛みはどこから来るのか? パリから来た少女と出会わなければ彼の一生はどうなっていたか? また、孤児院に預けられることになるポーレットと、親の「裏切り」によるポーレットの警察への引き渡しに憤激し絶望したミッシェルはその後、どのような人生を歩むことになるのか?
わたしは、ミッシェルが、大重潤一郎さんのような映画監督か詩人になるのではないかと思いましたね。あの映画は一つの「詩」ですよ。戦時下の叙事詩でもあり抒情詩でもあります。
そんなことやら、あれこれといろいろと考えさせられました。そんな考えの断片を引きずりながら、11月の文化の日の前後、わたしたちは戸隠神社や善光寺や飯綱神社や縄文博物館や諏訪大社を巡っていたのでした。戸隠神社や飯綱神社や諏訪大社の紅葉が心に沁みました。ちょうど七五三の時期でもあったので、可愛らしくあでやかな衣装の親子連れを何組も見かけました。そして、戸隠山、飯綱山、八ヶ岳の雄大さと諏訪湖の美しさとその周辺の環境のたたずまいに深いもののあはれを感じました。古代人の「聖地感覚」は凄い、と改めて感じ入った次第です。
その連休中に、千葉市立美術館で、友人のアーティストで大阪府立大学准教授の花村周寛さんと対談したのですが、その時の彼の展示のテーマが「地球の告白」でした。とてもいいタイトルでした。龍村仁監督の映画『地球交響曲(ガイア・シンフォニー)第一番』が封切になったのが、1991年だったでしょうか、その時に龍村さんは「地球の声が聴こえますか?」とその映画の宣伝ポスターでささやきましたが、それとも通じる設定だと思いました。「地球のささやき」「地球の語り」「地球の告白」・・・。わたしはそれを聴いてみたいです。日々、聴く努力をしています。時々、聴こえるような気もしますが、悲鳴も咆哮も溜息も聴こえるような気もします。
今年、2018年は、1968年にアポロ8号が月の周回軌道から「地球の出」(月の水平線から昇ってくる地球)を撮影して、NASAを通して全世界に発信され、衝撃を与えてから、半世紀、50年の節目となります。その地球のリズムや思いをそのように聴き取ることができるのか、今本当に試されているように思います。
そんな「地球の語り」に耳を澄ます芸術活動を展開した1人が、Shinさんにも紹介したことのある、東京自由大学の初代学長を務めてくれた故横尾龍彦画伯でした。小倉生まれの横尾龍彦先生が、北九州市立美術館で展覧会をした時に、Shinさんも観に来てくれましたよね。わたしもその展覧会の会期中に横尾先生の描画パフォーマンスに石笛・横笛・法螺貝などの音付けでコラボレーションしたのでした。思えば、横尾先生とは、ドイツのベルリンで2度、タイのサラブリで1度、スロバキアのブラ照すラバで1度、そして日本では10度ほど描画コラボしたのでした。忘れられないひと時です。横尾先生の描画法は、始めは非常に具象的な幻想絵画的な自己探求型の世界でしたが、禅で見性体験をした後の描画は、「水が描く、風が描く、**が描く」という自然描画法で、極めて抽象的で幻想的な作風となりました。
その横尾龍彦先生が亡くなった日、わたしは次の3首の歌を詠み、横尾先生のみ魂にその歌を捧げました。
君ははや 天上めぐる 龍となり 日の本の魂 み描き往く
美の行者 横の尾の上人 龍彦と 受肉せし身を 脱ぎて還らむ
はろばろと 伯林秩父を 翔け巡り 天空上人 龍の眼の人」
3年前の2015年11月23日のことでした。そして、丸3年が経って、次の歌を詠みました。
たつなみ(立つ波・龍浪)の行方を望み始祖鳥は 飛び立つ朝の静けさに舞う
ここでは、横尾先生もわたしも一匹の「始祖鳥」として「舞う」のです。その舞いは、自分が舞うのではなく、自然が、場所が、時間が舞わせてくれる舞いです。そんな舞いを舞わねばと思いながら、渋谷のギャラリーTOMで行なわれている<横尾龍彦「舞踏する混沌」>を観ての帰り、お月様を見上げながら思ったのでした。今、横尾先生の個展が渋谷区松濤町の瀟洒なギャラリーで、とても面白い空間に開顕されています。機会がありましたら、ぜひご覧ください。
横尾龍彦 「舞踏する混沌」
ギャラリー TOM
スケジュール 2018年11月07日 〜 2018年12月02日 開館時間 11:00〜18:00
アーティスト 横尾龍彦
ホームページ:http://www.gallerytom.co.jp/ (アートスペースのウェブサイト)
アートスペースの開館時間 月曜休館 祝日の場合は翌火曜日休館
アクセス 〒214-0011 東京都渋谷区松涛2-11-1 電話: 03- 3467-8102
京王井の頭線神泉駅より徒歩6分
アートと言えば、今日、上智大学大阪サテライトキャンパスのグリーフケア研究所の授業「スピリチュアルケアと芸術」の中で、「魂の三兄弟」の一人の近藤高弘さんに授業を担当してもらいました。9時30分から12時40分までの3時間。受講生たちに大きなインパクトとヒントと関心を与えることができたと思います。この授業はわたしが主担当ですが、また同時にコーディネイトして5名の芸術家や音楽家や美術史家を招いて2コマ半日の授業を担当してもらいますが、本日の1コマ目90分が近藤さんのプレゼンテーション・講義で、2コマ目の半分がわたしとの対談と受講生との質疑応答で、大変充実した内容でした。高祖父の近藤正慎の話から、その孫の人間国宝の近藤悠三、2人の息子の近藤豊・闊、そして近藤悠三さんの孫の近藤高弘という5代に続く人生ドラマ、芸術創作ドラマの展開でした。
5代前の近藤正慎は、独一という京都清水寺の修行僧でしたが、26歳の時に還俗して近藤正慎と名乗り、清水寺の寺侍(寺役人)として月照上人たちに仕えます。その月照が安政5年の安政の大獄で追われた勤皇の志士の薩摩藩士西郷隆盛とともに薩摩に逃れるのですが、錦江湾に入水して、月照は亡くなり、西郷隆盛は生き残ります。2人を逃亡させた罪で捕まり、この時、拷問を受けた近藤正慎は最後まで自白をせず、舌を噛み切って獄中で自決します。その近藤正慎のスピリットを引き継いだ近藤一族五代の家族史であり、芸術家一族史が語られ、本当にたくさんのヒントやサジェスチョンをもらったと思います。
Wikipediaを見ると、次のように書かれていました。
参考:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E6%AD%A3%E6%85%8E
近藤 正慎(こんどう しょうしん、文化13年(1816年)2月 – 安政5年10月23日(1858年11月28日))は、江戸時代末期(幕末)の尊王攘夷運動家。清水寺寺侍。本姓は栗山、名は義重、通称は仲。
丹波国桑田郡亀山藩山本村中条(後の京都府南桑田郡篠村山本中条、現在の亀岡市篠町山本中条)生まれ。京都清水寺成就院で出家。兄弟僧であった月照を支援し尊攘運動に身を投ずる。
安政の大獄に連座して捕縛され、六角獄舎において、月照の行方について拷問を交えて問われるが全く白状せず、獄中で舌を噛み切って壁に頭を打ちつけて自害した[1]。享年43。明治維新後従五位に列せられた。
孫に陶磁器の人間国宝である近藤悠三、曾孫に俳優の近藤正臣がいる。子孫は代々、清水寺境内で休憩所「舌切茶屋」を営む。
ひとりひとりの個性というものは、一代によって成るとは思えません。その家系・家族の期待や夢や挫折や事件を踏まえながら、またそれとの葛藤や確執や緊張や継承の中から生まれてくるものかと思いました。Shinさんも、同様のはずです。佐久間一族の悲願を背負って今のShinさんがあるのだと思います。もちろん、わたしもそうです。鎌田一族の悲願と挫折を背負っていると思っています。そんな子孫の活動も運命も、一筋縄ではいかない複雑さと強靭さと諸さの多様な側面を持っているものだとしみじみと感じ入るこの頃です。平成単独の最後の年も、いよいよ暮れていきますね。
2018年11月24日 鎌田東二拝
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