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シンとトニーのムーンサルトレター第212信(Shin&Tony)

鎌田東二ことTonyさんへ

Tonyさん、お元気ですか?
今夜は、満月が地球の影に隠れる「皆既月食」が全国で見られます。皆既月食が国内で見られるのは2021年5月以来、約1年半ぶりです。さらに皆既月食中に天王星が月に隠される「天王星食」が起こりました。皆既月食と惑星食が同時に起こるのは442年ぶりで、日本で次に皆既食中に惑星食が起こるのは、2344年7月の土星食となり、322年後だそうです。

さて、満月や惑星ではありませんが、もっとも身近な天体ショーといえば、日の出ではないでしょうか? レターの210信で報告したように、9月9日の朝、大分県別府市にあるリゾートホテルの客室のバルコニーから会社の「年頭所感」の表紙に使う日の出の写真を撮影したかったのですが、厚い雲に阻まれて朝日を拝むことはできませんでした。しかし、捲土重来。10月25日の朝、再度挑戦して見事にリベンジしました!


10月25日の別府湾の朝日

 

その日の朝は、まだ空が暗い6時前に起床しました。気温は12度で寒いです。ずっと空を見ていたら、別府湾の対岸が次第にオレンジ色になっていきました。前回はそのままで夜が明けていったのですが、オレンジ色の空もそれなりに美しい光景ではありましたが、やはり太陽そのものが拝めないと物足りません。しかし、今日は朝日が海上を照らし、一筋の「太陽の道」ができていました。感動したわたしは、「お天道さま!」と言って、思わず手を合わせました。そのまま露店風呂に入って。「お天道さま、ありがとうございます!」と30回唱えました。わたしは太陽を「サムシング・グレート」ととらえており、さらに言えば「神」そのものだと思っているのです。


海上の朝日を背に

 

「太陽は美人も犬の糞も照らす」と言ったのは異色の哲学者・中村天風ですが、太陽は万物に等しく光を降り注ぎます。わが社の「サンレー」という社名には、「太陽の光」という意味があります。富める人にも貧しき人にも等しく冠婚葬祭を提供させていただきたいという願いが社名には込められています。太陽は、あらゆる生きとし生けるものに生存のためのエネルギーを与えています。太陽ほど偉大なものはありません! それは他者を幸せにするという「利他」の精神そのものです。そして、冠婚葬祭互助会の使命とは「利他」の実践であると思います。


『心ゆたかな映画』(現代書林)

 

その日は、見事な朝日の写真を撮影できたこと以外にも嬉しいことがありました。次回作『心ゆたかな映画』(現代書林)の見本が完成したのです。109冊目の一条本ですが、「HEARTFUL CINEMAS ハートフル・シネマズ」のサブタイトルがついています。約480ページのボリュームで、帯には、「映画は、愛する人を亡くした人への贈り物」「ネットで大人気の映画レビューが待望の書籍化!!」「世界的大ヒット作からミニシアターの佳作までを網羅した厳選の100本」と書かれています。同書は、『心ゆたかな読書』(現代書林)の姉妹本です。読書と映画鑑賞は教養を育てるための両輪だとされていますが、ともにその目的は心をゆたかにすることにあると思います。わたしがブログを書き始めたのは2010年からですが、多種多様な記事の中で、最も人気があるものの1つが本の書評であり、映画の感想です。見本は10冊ですが、早速、Tonyさんに1冊を送らせていただきました。ご笑読のうえ、ご批判下されば幸いです。なお、同書の発売は11月15日です。

 

『心ゆたかな映画』で取り上げた100本の映画のうち、最も新しい作品は、日本映画「アイ・アムまきもと」です。これは、2013年のイギリス・イタリア合作映画「おみおくりの作法」を原作としています。全互協が協賛しており、わが社もたくさんチケットを買わせていただきました。映画「アイ・アムまきもと」の最大のテーマは「葬儀とはいったい誰のものなのか」という問いです。死者のためか、残された者のためか。「おみおくりの作法」で、ジョン・メイの上司は「死者の想いなどというものはないのだから、葬儀は残されたものが悲しみを癒すためのもの」と断言します。「アイ・アムまきもと」でも、牧本の上司は「人は死んだら、それで終わり。何も残らないの!」と言い放ちます。わたしは、多くの著書で述べてきたように、葬儀とは死者の「たましい」ためのものであり、同時に、愛する人を亡くした人の「こころ」ためのものであると思います。

 

「アイ・アムまきもと」は葬儀がメインテーマになっていますが、葬儀の映画といえば、米国アカデミー賞で初の外国語映画賞を受賞した日本映画「おくりびと」(2008年)が思い出されます。この映画が公開されたことは葬祭業界においても非常に大きな出来事でした。映画の中での美しい所作と儀式は、お客様が望む葬儀の在るべき姿を映画というメディアで表現してくれました。ご遺族が大切にしている方をこうも優しく大事に扱ってくれるということはグリーフケアの上でも大切なことでした。「おくりびと」のおかげで葬祭スタッフに対する社会的地位も変わったのではないかと感じるところもあります。何よりも、自分の仕事へのプライドを彼らに与えてくれました。


「おくりびと」を連想させる楽器演奏

 

映画「おくりびと」の原案は、青木新門さんの『納棺夫日記』です。青木さんは、8月6日午前8時52分、肺がんで亡くなられました。その青木さんの「お別れの会」が10月17日に富山市で開かれ、わたしも参加いたしました。15時頃に会場のオークスカナルパークホテル富山に到着しましたが、「お別れの会」は2階で行われていました。「お別れの会」の会場前ではピアノとチェロ演奏が行われていました。わたしは、映画「おくりびと」を思い出しました。本木雅弘さんが演じた主人公は、納棺師になる前はチェロ奏者でした。

 

チェロ奏者とは音楽家であり、すなわち、芸術家です。そして、芸術の本質とは、人間の魂を天国に導くものだとされます。素晴らしい芸術作品に触れ心が感動したとき、人間の魂は一瞬だけ天国に飛びます。絵画や彫刻などは間接芸術であり、音楽こそが直接芸術だと主張したのは、かのヴェートーベンでした。すなわち、芸術とは天国への送魂術なのです。拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の「芸術論」にも書きましたが、わたしは、葬儀こそは芸術そのものだと考えています。なぜなら葬儀とは、人間の魂を天国に送る「送儀」にほかならないからです。人間の魂を天国に導く芸術の本質そのものなのです。「おくりびと」で描かれた納棺師という存在は、真の意味での芸術家ではないでしょうか。そして、送儀=葬儀こそが真の直接芸術になりえるのではないかと思います。


青木新門さんの「お別れの会」の入口

 

青木さんの「お別れの会」の入口には大きな書棚があり、膨大な数の書籍が並べられていました。故人の書斎を再現したもので、特に故人の机の最も近くに並べられていた本を集められたそうです。一見して、「死」や「哲学」や「仏教」に関わる本が多いことがわかりました。なぜなら、わたしの書斎に置かれている本と同じ気を放っていたからです。そして、その書棚を遠くから俯瞰して眺めていたとき、突如、一冊の本がわたしの目に飛び込んできました。拙著『永遠葬』(現代書林)です。島田裕巳氏の『0葬』(集英社)への反論本として書いたものですが、青木さんがとても気に入って下さり、青木さんのブログでも取り上げていただいたことを思い出しました。


書棚の中に『唯葬論』を発見!

 

また、書棚の中には、『唯葬論』(三五館)もありました。しかも、梅原猛著『梅原猛の授業 仏教』(朝日新聞社)と五木寛之著『親鸞』(講談社)に挟まれています。生前の青木さんは仏教、それも浄土真宗に帰依されていたことは有名です。青木さんにとって親鸞聖人がどれほど大切な方であったかを良く存じていますので、拙著が並べられた場所に感動いたしました。その後、書棚の写真を拡大して見たところ、『死を乗り越える読書ガイド』、『死を乗り越える映画ガイド』(ともに現代書林)もあったことが確認できました。青木さんの書斎に拙著を大切に保管していただいていたこと、とても嬉しかったです。


『葬式不滅』(オリーブの木)

 

2016年6月6日、わたしは富山で青木新門さんにお会いしました。そのとき、島田裕巳さんが『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)を出した時、青木さんは当時本願寺の教学研究所の所長をしておられた浅井成海師と対談形式で『葬式は要る』と題して出版する計画があったという話をお聴きしました。ところが企画したPHP研究所と打ち合わせていたら浅井氏が末期癌で急逝され、出版の話はたち切れとなってしまったそうです。そうこうするうちに、わたしの『葬式は必要!』(双葉新書)が出版され、青木さんの想いも代弁されていると感じられたので、『葬式は要る』の出版は断念されたそうです。そのとき、青木さんはわたしに「葬式は絶対になくなりませんよ」と言われました。その青木さんの遺志を継ぎ、わたしは島田さんの最新刊『葬式消滅』(G.B.)への反論書である『葬式不滅』(オリーブの木)を書き上げました。年内に刊行の予定です。


「毎日新聞」2022年10月30日朝刊

 

さて、今月18日、わが社は創立56周年を迎えます。そんなわが社の理念を紹介してくれる記事が「毎日新聞」10月30日朝刊に掲載されました。記事は、「思いやりの都市に」の大見出し、「高齢者が多いことは強み」の見出しで、「冠婚葬祭業『サンレー』(北九州市小倉北区)の 佐久間庸和社長(59)は、北九州市誕生と同じ1963年生まれ。経営する松柏園ホテル(同区)では旧5市合併の際、市長らの会合も開かれたという。『そうした縁から北九州市は同級生という思いがあり、いつまでも輝いていてほしい存在』。市は少子高齢化・人口減が進むが、コンパッション(思いやり)を掲げた都市づくりを提唱する」と書かれています。


インタビュー取材のようす

 

また、記事には「小学校では社会の授業で出てくる『四大工業地帯の1つ北九州工業地帯』が誇らしかった。今では北九州市は政令市で最も高齢化率が高く、人口も100万人を切り衰退が言われる。しかし『高齢者が多いことは北九州の強み。それを悪いことと思い込んできたことが意気消沈してきた原因』と訴える。配偶者の死が自殺の要因となるケースも多いため、近くで接する遺族の立ち直りを支援するグリーフケアを推進してきた。またNPO法人を設け、セレモニーホールなどで地域の独居高齢者らが集う『隣人祭り』を開き、孤独死防止を図ってきた。葬儀などで血縁や地縁の希薄化がみられる中、趣味などの新たな縁作りの手伝いにと、囲碁や俳句大会も開催している」と書かれています。


『心ゆたかな社会』を手に写真撮影

 

そして、記事には「こうした取り組みはコンパッションの都市作りに通じる。『全国で独居老人が増えているが北九州市を高齢者特区にして、高齢者向けのショッピングセンターや娯楽施設、医療も受けやすくする。孤独死しないような隣人都市を作り、全国から独居老人が北九州に集まってくれば人口も増える』
自身の著書で地域を『巨大なカルチャーセンター』とするプロジェクトで、高齢者が生きがいを得ている海外の事例も紹介している。困窮者やシングルマザー支援も充実させ、困ったら北九州に行ってみようという街にする。『そうすれば世界初のコンパッション都市が生まれる』日本一の超高齢化都市ともいえる北九州は、そうしたモデルを実現できるチャンスがあると考えている。『鉄鋼業などで日本を豊かにした北九州がまた日本を豊かにできるとしたら、老いの豊かさを提供することだと思う』【山田宏太郎】」と書かれています。ちなみに、記事の中で「自身の著書」とあるのは、『心ゆたかな社会』(現代書林)のことです。同書は、2020年9月に上梓した100冊目の「一条本」です。


九州国際大学での特別講義のようす

 

10月28日、九州国際大学の客員教授として特別講義を行いましたが、北九州市内には4年制大学が10あります。人口比での学生数はかなり高いのに、大学卒業と共に多くが北九州市を去っています。これは1にも2にも、受け皿となる企業が乏しいためです。高齢者も大事ですが、当然ながら都市の持続には若者も必要です。かつての八幡製鉄のような大企業がなくとも、北九州市に魅力ある中小企業がたくさんあれば、若者の働き方への考えが変化している中で、学生を引き留められるように思います。その意味で、市には企業の誘致や育成への努力が求められます。そして、北九州はコンパッション都市を目指すべきです。わがサンレーはコンパッション企業を目指します。北九州市は同い年の兄弟のような存在ですので、どちらが先に志を果たすか競争したいです。11月28日(月)、わたしは京都へ向かいます。8月24日に90歳で亡くなられた故稲盛和夫氏の「お別れの会」に参列するためです。その日の夜、Tonyさんとお会いできること、楽しみにしています。これからますます寒くなりますので、どうか、ご自愛下さいませ。

2022年11月8日 一条真也拝

 

一条真也ことShinさんへ

11月8日の皆既月蝕は、三条大橋の上から見ていました。Shinさんは小倉から見られたのでしょうか?

その夜、わたしはロンドン郊外のヒッチンに住んでいるチャールズ・ロウさんと尚代さん夫妻と、三条のイタリアンレストランのサルヴァトーレ・クオモで、イタリア料理を食べながら2時間半ほどゆっくりと話をしたのでした。ロウさんと日本で会うのは、12年ぶり、最後にロンドンで会ったのが、2012年だったので、ちょうど10年間も会っていなかったのですよ。

チャールズ・ロウさんは、ロンドン大学に大本と八雲琴の研究で博士論文を提出したPhD.の博士で、1994年にわたしがロンドン大学のSOASで「神道とケルト」を比較する講演をした際の通訳を務めてくれて以来の家族ぐるみの付き合いをしてきた人です。1994年以来、イギリスに行ったら、いつもロウさん夫妻を訪ね、ヒッチンの彼らの家に泊めてもらって、いろんなところを案内してもらいました。

実は、二人は大本信徒で、今回は、11月6日に大本の綾部の長生殿で「開教130年 開祖大祭」が執行されるので、それに参列するために久しぶりに来日したのでした。その時の様子を動画にしましたので、ぜひご覧ください。出口なお開祖、出口王仁三郎聖師、出口すみ二代教主、出口直日三代教主、出口日出麿(三代教主補)、諸氏の奥津城(神道式のお墓)の前で、加藤眞三医師(慶應義塾大学名誉教授)が天津祝詞を奏上し、神号奉称し、わたしがわが三種の神器(石笛・横笛・法螺貝)を奉奏しています。また、梅松苑内の神域・神苑を巡っていますが、紅葉が最高に美しいです。

また、この間の比叡山の紅葉も動画を嵌め込みます。東山修験道815と816です。11月7日の登拝では、つつじヶ丘から美しい虹を見ました。その虹も写っています。

 

 

 

ところで、さる9月に、「吟遊詩人」として北海道を巡遊したことは、この前のムーンサルトレターに書きました。9月17日に旭川、18日に札幌、19日に函館で、『絶体絶命』の詩の朗読と「神道ソング」を数曲歌ったのでした。そして、旭川で三浦綾子と小熊秀雄という二人の問題提起的な文学者(一人は小説家、もう一人は詩人)に出会ったことも書きました。

じつは、それ以外に、函館でもう1つ、大きな出会いがあったのでした。函館で佐藤泰志という小説家と会ったのでした。Shinさんは、佐藤泰志の小説を読んだことがありますか?

1949年に函館に生まれた佐藤泰志は、芥川賞候補5回、三島由紀夫賞候補1回と、大きな文学賞に何度もノミネートされましたが、残念ながら受賞には至らず、1990年10月9日の夜に、国分寺の恋ヶ窪近くの森で首を吊って自死したのでした。1989年には、『そこのみにて光輝く』で三島賞候補となり、今度こそはと本人も周囲も大いに期待していましたが、時の運も駆け引きも(? 後述)あったようで、残念ながら、受賞を逃しました。その年の受賞者は大岡玲の『黄昏のストーム・シーディング』でした。この時、佐藤泰志が受賞していたら、彼は自死していなかっただろうとわたしもおもいます。たいへん残念であり、残酷だともおもっています。

 

わたしが函館で詩を朗読し歌を歌った、津軽海峡を望むことのできる「サン・リフレ函館(函館市勤労者総合福祉センター、愛称サン・リフレ函館)」は、その佐藤泰志が通っていた旭中学校の跡地に建設された市の施設なのでした。その2階の音楽室で、わたしは佐藤泰志のことなどまったく知らずに(その時はそう思っていた)、「神ながらたまちはへませ」とか、「なんまいだー節」とか、数曲を歌ったのでした。

佐藤泰志の名を知ったのは、朗読会終了後、主催者の番場早苗さんや何人かの函館の詩人たちと懇談をしていた時のことでした。「函館の佐藤泰志が……」と、朗読会を主催してくれた詩人の番場早苗さんが言った言葉が耳に残り、気になっていました。その夜、宿泊しているホテルの売店で何気なく店内を見ていたら、その佐藤泰志の小説の文庫本が置いてあったので、それを手に取って、驚いたのでした。

そこで手にした佐藤泰至の小説『そこのみにて光輝く』(河出文庫、2011年)の帯に作者の顔写真が大きく出ていたのですが、どこか、見覚えがあるのでした。作者プロフィールを見ると、國學院大學文学部哲学科卒業と書いてあり、彼が1949年生まれであることを考えると、同時期に同大学の同学科で学んでいることが明らかでした。

なので、顔写真を見てどこか知っているような気がしたのは、國學院大學文学部哲学科の授業で彼と会っていたからでした。確か、ギリシャ古代哲学を専門にしていた東千尋教授の授業(哲学演習)だったように記憶しますが、授業中だったか、授業前後の休み時間だったかは忘れてしまいましたが、議論となり、その中で、わたしは佐藤泰志に、「キミの言ってることは当たり前すぎてつまらないよ。」みたいなことを言い放ったのでした。その時、彼はさみしさそうな顔をして、それ以上の反論をしなかったのですが、妙にその時の彼の顔の表情が記憶にしっかりと残っていたのでした。

この記憶が正確かどうか、今となっては確かめるすべはありません。本人と話ができないので。けれども、その時の彼の顔ははっきりと覚えていて、それが函館のホテルで買った文庫本の帯の顔写真を見た途端に、フラッシュバックのように甦ってきたのでした。これは、絶対間違いはない! と、確信を持ったのでした。

小説の第一印象は、中上健次(1946‐1992)の路地物の世界によく似た印象で、中上の影響を受けた亜流文学かと思いました。それが第一印象でした。1972年からリアルタイムで中上健次の小説を読んできて、1991年には箱根で3日3晩朝から晩まで酒を飲みつづけ対談して、中上健次没後の1994年に、中上健次・鎌田東二対談集『言靈の天地』(主婦の友社、1994年)という対談本を出したりしてきたので、そんな印象を持つのも仕方がないかもしれません。

が、佐藤泰志の『そこのみで輝く』1冊だけを読んですぐ中上健次の壮絶な癌死(腎臓癌)と、佐藤泰志の自死に何か共通するものを感じたことも事実でした。それは、暴力というか、ある強力な攻撃的なものに対して、どうしようもなく巻き込まれながらも、そこで翻弄されながら生きていく人間の悲しみ、叫び、悲哀のようなものでした。

わたしたちの世界はさまざまな暴力に晒されています。その暴力を回避することはできません。その押し寄せる暴力の波の中でどのような処世ができるのか? 各自の生き方と世界観が問われます。正解はありません。中上健次は浴びるように酒を飲んで死にました。そして、どうやら睡眠薬を常用しアルコール依存症になっていた佐藤泰志もそうだったようです。

佐藤泰志の自死の本当の理由はもちろん分かりません。文学的な行き詰まりや悩み、受賞を逃したことを含め、今一つはかばかしくない文学界の反応に絶望しての自暴自棄の衝動的行動だったかもしれません。それは分かりませんが、しかし、佐藤泰志の悲し気な顔、「おまえはわからないんだな。わかってくれないんだな。」とでも言いたげな、その悲し気な顔がずっと気になっていることも事実です。言葉ではなく、ノンバーバルなその表情が言葉以上のナラティブだという気がするのです。

わたしは、津軽海峡と太平洋の海の見えるグランドピアノの置いてある音楽室で石笛・横笛・法螺貝を奉奏し、ギターを抱えて海を見ながら歌を歌いました。その時は、その場所がどんな場所であり、施設であるかもまったく知らずに。先にも述べたように、後で番場早苗さんの話で知ったのですが、その施設「サン・リフレ函館」は、佐藤泰志が通っていた函館市立旭中学校の廃校跡地に造られた「函館市勤労者総合福祉センター」で、<勤労者の福祉の充実および勤労意欲の向上を図り、雇用の安定に資するため、設置・運営されている施設>(同センターHPの説明文)だったのです。

 

なので、因縁話めいてきますが、後から考えると、それらの歌は佐藤泰志へ向けて歌った鎮魂歌のように思えたのでした。主観的な独りよがりな思いと言われるかもしれませんが、わたしは、國學院大學の哲学研究室で岐れたままの佐藤泰志と、半世紀が経って、形を変えて(ステージを変えて?)死後の佐藤泰志と出逢い直し、対話し直し始めているような気がしているのです。

京都に帰って来てから、まず『佐藤泰作品集』(クレイン、2007年)を注文して、全頁読みました。それは、映画にもなった佐藤の代表作の一つ「海炭市叙景」「移動動物園」「きみの鳥はうたえる」「黄金の服」「鬼ガ島」「そこのみにて光輝く」「大きなハードルと小さなハードル」「納屋のように広い心」「星と蜜」「虹」などの主要小説と詩6篇、エッセイ7篇を収めた2段組686頁の本でした。

そこには、佐藤泰志と彼に「等身大」の若者たちの姿がありました。国分寺界隈や八王子や函館で、明日を夢見ることのない今ここの若者の姿が。そのような「等身大」が今の閉塞状況と居場所のない時代の情況に刺さるのかもしれません。

この大部な『佐藤泰志作品集』を全部読んだ後、次に、最近出た中澤雄大『狂伝 佐藤泰志ー無垢と修羅』(中央公論新社、2022年4月)を読みました。これまた大著で、608頁もある網羅的な詳細な評伝でした。

それを読みながら、佐藤と1学年違いの生まれのわたしの軌跡を合わせ鏡のように見ているような感覚に陥りました。四国の阿波の徳島から出てきた生意気な若者と北海道の港町の函館から出てきた文学青年が一瞬國學院大學の哲学科の教室で出会って、1回こっきりの激論(口論)を交した。という、ただそれだけの「出逢い」とも到底言えぬ「縁」でしたが、ひょんなことから、彼の全作品や詳細な評伝まで読むに至りました。さらには、文庫本になっている佐藤の小説(すでに作品集で読んでいるものが大半でしたが)、佐藤泰志と親交のあった詩人の福間健二の評論『佐藤泰志 そこに彼はいた』(河出書房新社、2014年)、福間健二監修『佐藤泰志 生の輝きを求めつづけた作家』(河出書房新社、2014年)を読み進めているところです。

 

佐藤泰志が書いた哲学科の卒業論文の題目は「神なきあとの人間の問題―ツァラトゥストラ研究」でした。それに対して、わたしの書いた卒業論文の題目は「東洋と西洋における神秘主義の基礎的問題への試論」で、空海とドイツの神秘哲学者ヤコブ・ベーメの神秘体験と言語哲学を問いかける内容で「神仏と出逢い体験したあとの人間の問題」でした。

佐藤泰志の作品は、没後30年を迎えた2010年に、彼の短編小説集『海炭市』を原作に熊切和嘉監督により映画化されます。その後続けて、『そこのみにて光輝く』が2014年に呉美保監督により、また『オーバー・フェンス』が2016年に山下敦弘監督により映画化され、「函館3部作」とされているようですが、映画好きのShinさんは観たことがあるでしょうか? 映画『そこのみにて光輝く』は主人公・達夫役を綾野剛、その義弟・拓児役を菅田将暉が演じ、第38回モントリオール世界映画祭最優秀監督賞、キネマ旬報ベストテン1位を受賞しています。また、ヒロインで拓児の姉・千夏を演じた池脇千鶴はその年の日本アカデミー賞主演女優賞を受賞しています。

『そこのみにて光輝く』は、造船会社を辞めて先の見えない生活を送っている達夫のひと夏の出逢いと姉弟との交流を、乾いた文体(じつに失礼な表現かも知れませんが、まるでB級ハードボイルドなタッチ)で描いた緊張感のあるピーンと張った小説でした。しかし、わたしにとっては、既視感のある小説で、中上健次の亜流のように見えたのですが、詩人の番場早苗さんによれば、それは違う、誤解だということでした。

そのあたりのことをよく言い当てている評論があるので、長文ですが引用してみます。福間健二監修『佐藤泰志 生の輝きを求めつづけた作家』(河出書房新社、2014年)に収められた川口正和の「優しさの由来―佐藤泰志の代表的作品を味読する」(200‐209頁)と題する評論です。

中上健次の批判と誤解

佐藤泰志は芥川賞候補に五回、三島賞の候補に一回あがり、すべて落選している。

高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』を第一回受賞作として始まった、後発の文学賞である三島由紀夫賞。芥川賞とは異なる立ち位置を探るなかで、その第二回候補に『そこのみにて光輝く』が選ばれた。

選考委員のうち江藤淳は推した。だが、中上健次は選評で次のように述べ、推さない。

処女作発表時から注目して読んできた作家であるが、長編小説としての失敗を論じるより、選考委員としての我がままを言えば、この記述の徹底的な解体を迫りたい気なのである。(中略)おそらく佐藤泰志は処女作からこの長篇まで現今の文学雑誌がふりまく通説通念を守り、一心に精進を続けて来たのであろう。だがリアリズムなるものが変化するように通説、通念は変化する。

選評のなかで、中上健次は佐藤泰志のことを「才能ある作家である。腕力もある」ともほめているが、落とした。この中上評はおそらく当時の典型的な佐藤泰志評であり、誤解でもある。「徹底的な解体」とは、中上健次でいえば、「十九歳の地図」のような初期作品に始まり、<路地>の発見から、「岬」「枯木灘」でつくったピークを自ら「地の果て 至上の時」で解体し、ポストモダンとも伴奏した仕事を自負するものであろう。

一九四六年生まれの中上健次、一九四九年生まれの佐藤泰志はおたがいのルーツがよく似ている。ともに十代から作家を志し、早熟な才能を認められ、大江健三郎の影響下で小説を書いた。上京し、肉体労働などの仕事をしながら、同人誌で研鑽を積み、ジャズや海外文学にも親しんだ。だが、芥川賞をとり、スター作家となるのは中上のほうがずっと早かった。同じ頃、佐藤泰志と同年生まれ、函館と同じく港町・神戸出身の村上春樹も新しい都市小説の旗手として登場する。アメリカの翻訳小説のような文体と換喩性に富んだ作風で、「羊をめぐる冒険」などの代表作を飄々とものにしていく。

中上健次が「徹底的な解体」を迫ろうとしたものこそ、佐藤泰志が信じた<そこのみにて光輝く>ものの力だった。中上健次とも、村上春樹ともちがう、佐藤泰志にとっての小説の最適解であり、普遍性だった。

<そこのみ>ローカルな土地・場所・故郷に根ざして暮らす人々の、<光輝く>男女の出会いの一回性、いのちの現在性、この瞬間・かりぎあるものー-。

中上は、「通説、通念は変化する」といった。が、結果的に、佐藤泰志は文学の流行に左右されず、没後二十年以上経つ現在も新しい読者と出会うことになる。(前掲201‐202頁)

 

この一節を読んで、わたしの考えは、川口正和の言っていることよりも、中上健次の「選評」により近いものでした。突き放した言い方になりますが、次のようなものでした。

「確かに、佐藤泰志の小説は達者だ。一定の水準以上の濃密さ、稠密さがある。中上健次が言う『腕力』がある。だが、その『腕力』でグワーンと鷲摑みするものがない。突き刺さらない。小説は上手いけれども、魂にまで刺さらない。皮膚の表面止まりだ。何かが足りない。すべてが出来過上がりぎていてチマチマしている。開放感も突破感もない。もちろん、鬱屈した青春のドライな陰惨と虚無を描いているのだから、仕方ないとも言えるが、しかしどこかが爆発してほしい、ともどかしく思いつづけた。どの小説を読んでいても。今一つ、何かが足りないのだ。それが何か? よく分からないが、突き抜け、疾走する力と言えるだろうか。あるいは、無軌道ではあっても、思想というか、哲学が感じ取れない。そこでだろうか、止まってしまうのだ。小説世界が。だから、どれを読んでも、最後に、静止画のような印象が残った。」

 

1970年代の始め、わたしは、たぶん佐藤泰志もしばしば通っていただろう國學院大學図書館で、「早稲田文学」や「三田文学」などの文芸雑誌をよく読んでいました。そしてそこで、「早稲田文学」(第4巻第10号、1972年10月1日刊)に掲載されていた中上健次の「灰色のコカコーラ」を読んだのでした。リアルタイムで。それは確か、鎮痛剤ドローランを常用している予備校生のざらついた空虚な日常を描いた作品だったと記憶します。あるいは『十九歳の地図』と一部混同しているかもしれませんが。どこか、大江健三郎の初期の小説を思わせるところもありました。村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は、間違いなくこの「灰色のコカコーラ」の世界の村上龍バージョンだと思います。予備校生の幻覚と衝動的暴力とセックス。

なので、佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』を読んだ時、強烈な既視感・既読感があったのです。それが、中上健次の「灰色のコカコーラ」や「十九歳の地図」など、中上の初期作品でした。たぶん、佐藤泰志とわたしは、同じ大学の同じ図書館の同じ「早稲田文学」を別の日に読んでいたのだと思います。1972年10月のある日に。

そんなことがあったので、わたし自身の読後感は間違いなく「中上スモッグ」に覆われていたことでしょう。しかしその後、佐藤泰志の主要作品をほぼすべて読んでもこの「既視感・既読感」が消えませんでした。おそらく、佐藤泰志とわたしは、50年前の1972年も今もすれ違ったまま、岐れたままなのでしょう。そんな感じもします。「神なきあとの人間の問題」を一貫して追求したニヒリズムの真夏を描いた佐藤泰志と、「神仏と出逢ったあとの人間の問題」を一貫して追求してきたミスティシズムとスピリチュアリズムの鎌田東二とは正反対の極を向いていますから。

しかし、にもかかわらず、わたしは、なぜか、佐藤泰志の作品に向き合う必然を感じているのです。というのも、妻の感性はわたしとは正反対のマテリアリストで、どこか、佐藤泰志のニヒリズムやアナーキズムに共通するものがあったからです。だからこそ、彼女は虎ノ門病院分院脳外科のドクターエイド(医療秘書)を15年も続けることができたと思いますが、彼女も「神なきあとの人間の問題」を生きてきたのではないかと傍にいて思っています。そして彼女もまた佐藤泰志と同じ大学の同じ哲学科の学生でした。たぶん、いくつかの科目については同じ教室で学んでいました。が、佐藤泰志の顔写真を見せても記憶にないと言います。しかし、入学時の記念撮影の写真の左端の佐藤泰志の右隣に座っている背の高い学生のことは記憶にあると言っています。だから、まったく同時期に、同場所で、佐藤夫妻(佐藤泰志の妻となる喜美子さんも同学科の学生でした)とわたしたちは同座していましたし、日常的にニアミスしていたのです。

そんなこともあるので、ちょっと佐藤泰志との死後の再会はわたしにとってはけっこう重い課題でもあります。その課題とは、「神なきあとの人間の問題」と「神仏と出逢ったあとの人間の問題」との交叉、響き合い、という課題です。それがわたしにとっての「interfaith~超宗教」(異なった信念間の相互理解と相互交流)であります。だから、この課題は、わたしにとって避けて通ることのできないものと感じざるを得ないのです。いよいよ、わたしは本格的に佐藤泰志の世界と向き合うのだとおもいます。

佐藤の卒業論文の副題は「ツァラトゥストラ研究」でした。わたしもニーチェはよく読んできました。当時から今に至るも繰り返し読んできました。すばらしく示唆的な哲学叙事詩だと思っています。佐藤泰志と教室で議論して半世紀がたって、ようやっとここまで辿り着いたような気がしています。わたしは今71歳ですが、17歳の頃の課題と再会しているのです。詩も文学も音楽も芸術も含めて。そのような折に、佐藤泰志が、突然、あの世から、霊界から、ぬっと現われ出たのでした。

 

今回の北海道の旅は、旭川、札幌、函館と、それぞれに深く刻まれました。が、佐藤泰志との「再会」は痛みと悲しみを伴うものでした。文学も宗教もともにそのような痛みや悲しみに正面から向き合うものだとおもっています。

今回も、わたしは函館の定宿である宝来町のホテルWBFグランデ函館に予約しようとしたのですが、たまたまそこがコロナ禍で休業になっていたのです。そのホテルの窓から遠望できる津軽海峡が好きで、いつもそのビジネスホテルっぽいホテルに泊まっていたのですが、今回はそこに泊まることができないので、たまたま息子たち夫婦と息子のパートナーの両親と弟と最初に顔合わせをした国際ホテルを予約したのでした。そして、その国際ホテルの売店で偶然に佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』の文庫本を見つけ、帯の顔写真を見て驚いたのでした。

この国際ホテルは、佐藤泰志の最晩年(と言っても41歳の頃ですが)の連作「海炭市叙景」を原作にした映画『海炭市叙景』の撮影時にスタッフやキャストの定宿となっていたようです。その時の昼夜の食事を、詩人の番場早苗さんたちが食事班として担当していたとのことです。番場早苗さんは映画化された佐藤泰志の作品を観たら「佐藤の作品が中上の亜流ではない」と分かると言ってくれました。ので、いずれ佐藤泰志原作の映画を観てみたいと思います。佐藤泰志の小説はこれまで5作品が映画化されていて、6作目が年末に公開予定だそうです。

番場早苗さんによれば、「サン・リフレ函館」は、佐藤泰志の再評価のきっかけとなった場所です。映画の成功を祝って、クレインや河出書房新社や小学館の編集者や詩人の福間健二さんや関係者が集まって祝賀イヴェントをした場所だからです。佐藤泰志の小説を原作とした最初の映画『海炭市叙景』を市民と一緒に作った「シネマ・アイリス」は、今年のサントリー地域文化賞を受賞しました。映画化の発案者で代表の菅原和博さんは、「サン・リフレ函館」にあった旭中学校の出身で、佐藤泰志の後輩であるとのことでした。

 

さて、『狂伝 佐藤泰志―無垢と修羅』(中央公論新社、2022年)には、第2回三島賞の選考過程で、中上健次が谷崎賞を取りたかったために、佐藤泰志の『そこのみにて光輝く』を押さず、大江健三郎が推した大岡玲の小説を推す側に回ったと書いてありますが(539‐541頁)、もしそうだとすると、中上健次もけっこう野心家というか策士というか戦略的な狡いところのある人だったということになります。江藤淳は、「少数意見の弁」と題した選評に、「敢えて推すなら佐藤泰志『そこのみにて光輝く』ぐらいしかないというような気持であった。殊にこの作品の第一部は、文章がピチピチと躍動していて艶と色気があり、千夏という女の描き方も巧妙で、思わず惹き込まれて読んでしまったからである。/ところが、この作品については第二部が弱いというのが多数意見であった。(以下略)」(前掲537頁)と書いて、佐藤泰志を評価していたことがわかります。だから、中上健次がこの時佐藤泰志を推していれば、間違いなく佐藤は三島賞を受賞していたというわけです。

しかしながら、仮にそうだとしても、わたし自身の読後感の中核は大きくは変わりませんでした。佐藤泰志の小説にわたしは感動しません。どうしても、何かが足りない、と思ってしまうのです。が、それでも、というか、それだからこそ、わたしなりの佐藤泰志との対話が始まり、今も続いているのです。その「距離」をどう見るのか、という。

こうして、そんなこんなで佐藤泰志を読んでいる間に、次のような詩を書きました。来年、2023年の2月2日に刊行予定の第5詩集『開』(土曜美術社出版販売、2023年2月2日刊予定)の「第3章 鎮魂」は、まるまる佐藤泰志に捧げる詩篇となりました。その冒頭の詩と最後の散文詩は次のようなものです。

 

<第3章 鎮魂

立待   佐藤泰志に捧ぐ

立待岬からのびているひとすじの道

歩いているうちに気づいた

死がそこにあるから 今ここのこのいのちが輝くのだと

 

津軽海峡を望みながら歌った

佐藤泰志への鎮魂歌(レクイエム)

 

君の死が教えた

光があるから闇があるのではなく

闇の中で 闇を潜って 光りが輝くのだと

 

1990年10月10日

君が国分寺の森の中で自死した時

僕は遠くの空の下でロケットの打ち上げを見た余韻に浸っていた

 

ユーミンが「天国のドア」を唄っていた

 

明日があるのと 明日がないのと

どうしようもなく道は岐れてしまったが

不忍池の鯉は 跳ねて 飛んだ

 

解いてくれ!

 

見えない鎖に巻き上げられて

がんじがらめになった体から

息も絶え絶えだった魂が飛び出す

自由

 

自由でありたかったんだ

檻の中でコーヒーカップが割れた

 

誰も行き着けない店で待ち合わせたために

ずいぶん長い時間がかかったが

佐藤よ

君が書いた「神なきあとの人間の問題」は

僕が書いた「神仏と出逢う人間の問題」と

激しく対立もし

同時に牽引し合っていた

 

ニヒリズムとミスティシズムは

銀貨の裏表

にぶい光沢の底で

あいまいな像に触れる

 

ところかまわず逃げ出そうとしなかったばかりに

つかまってしまった時の十字路

その夕間暮れ

 

立待岬の尽端から真っすぐにのびている

そこに君が立っているのが見えるが

僕のいる岬からは届かない

 

だから 歌おう

海峡をはさんで

声の橋を架けよう

 

君が歩いていく海と空のあいだに

虹は立たぬが 祈りは立つよ

立待岬の突端に

この世の涯の果てに

 

佐藤よ!

 

*佐藤泰志が書いた哲学科の卒業論文の題目は「神なきあとの人間の問題―ツァラトゥストラ研究」だった。僕の書いた卒業論文の題目は「東洋と西洋における神秘主義の基礎的問題への試論」。空海とドイツの神秘哲学者ヤコブ・ベーメの神秘体験と言語哲学を問いかけるもので「神仏を体験した人間の問題」だった。芥川賞候補に5回、『そこのみにて光輝く』で第2回三島賞候補になった佐藤は、1990年10月10日、国分寺の自宅近くで自死した。享年41歳。函館生まれ。1971年、佐藤は同人誌「立待」を創刊した。そして佐藤と同じ大学の同じ哲学科の教室で佐藤と僕は対論し岐れた。半世紀も前のこと。

 

立待岬の行方不明者

戸惑いと行方不明の君が言った。そこにいてくれるだけでいいから、と。でも、居場所がなかったんだよ。居時間がなかったんだよ。この限りなく透明でソーメイなボクには。君のやさしさが肌一ミクロンでも滲入してくると、もうボクは、どこか、わけの分からぬ涯に跳ばされていたのだ。涙が一つの星の海になって海獣たちが泳ぎ回っているから、涙は涸れ果てても、心は枯れてはいないよ。ありがとう。歌を届けてくれて。立待岬はいつもボクのお気に入りの場所だった。永遠という神秘があるとしたら、その永遠に通じていく秘密のパスワードのような場所がある。それが立待岬だった。この世では制約と限界と締め切りに追われたけど、今はどこにも締め切りはない。すべてが開かれていて、すべてが始まっても終わってもいない。未生の朝。ボクは海峡を見る。君が歌っているのが見えるよ、ほら、その突端。いいね。その切羽詰まった眉。絶体絶命の叫びを振り撒いていて。でもね、そんなに力まなくてもいいよ。がんばらなくてもいいんだ。夜は開けたんだから。朝の今ここでのみ輝くから。ボクは待ってる。君たちの漂流を。どこに流れ着いてもいいから、とにかく、生きて、生きて、生きていて。>

 

1972年末か、1973年頃、わたしは哲学科の授業の議論で佐藤泰志と言い合いになりました。生意気だったわたしは、佐藤泰志にズケズケと話をし、「君の言うことには納得できない。」とか「当たり前すぎてつまらない。」とか何とかかんとか言ったのでした。彼が41歳で自死したことをたいへん悔やみますが、しかし、今回、現代の琵琶法師のように「吟遊詩人」として函館に行かなかったら、佐藤泰志とこのような形で「再会」することはなかったでしょう。

また、彼が小説家であることも知らないまま生きていたことでしょう。が、函館での番場早苗さんたちとの会話がきっかけとなって、佐藤泰至のほぼ全部の小説を読むに至ったのです。これまた不思議な再会であり縁だとおもっています。この縁を作ってくれた小樽在住の詩人の長屋のり子さん(故山尾三省さんの妹)や函館在住の詩人の番場早苗さんには心より感謝します。

 

じつに長々と佐藤泰志のことを書いてしまいました。が、現代のニヒリズムは、わたしにとって避けて通ることのできない問題であり、佐藤泰志はそれを突き付けているように感じています。

 

Shinさんは、「困窮者やシングルマザー支援も充実させ、困ったら北九州に行ってみようという街」、すなわち「世界初のコンパッション都市」にするという課題に突き進んでいます。「日本一の超高齢化都市ともいえる北九州は、そうしたモデルを実現できるチャンスがある」と考え、「北九州はコンパッション都市を目指すべきです。わがサンレーはコンパッション企業を目指します。北九州市は同い年の兄弟のような存在ですので、どちらが先に志を果たすか競争したいです。」と今回のレターに書いていますが、國學院大學文学部国文学科の卒業生であった先代社長佐久間進現サンレー会長の創業の時代から一貫して「コンパッション企業」を目指していたと思います。そこに、70歳を過ぎた佐藤泰志も入って交わりができるかどうか、それがわたしの課題でもあります。

つまり、グリーフケアやスピリチュアルケアや地域包括ケアにかかわる人たちが、故佐藤泰志が表現したような、「神なきあとの人間」を生きる虚無的なニヒリストやニヒリズムの克服を課題として持つ人たちが高齢者となった時にどう交わることができるかという課題です。佐藤泰志は、戦後ベビーブームの最後の世代、つまり、団塊の世代の最終学年の生まれです。その佐藤自身は1990年に41歳で自死しましたが、もし彼が今も生きていて、本年4月26日に73 歳となった2022年の今、また2020年代やこれからの2030年代の近未来にどのような生をまっとうするか、そのことを一つの課題として考えたいのです。なぜなら、スピリチュアルケアとは、生きる意味・価値・目的を問いかけ、自己や他者との実存的出会いを自覚し、それを「コンパッションcompassion」し、「インターパシーinterpathy」するいとなみですから。そこに、虚無や無意味を見、感じとる他者との交わりはどのようなものとなるでしょうか?

スピリチュアルケアの理論的牽引者の窪寺俊之さんは『スピリチュアル学概説』(三輪書店、2008年)の中で、「今日のスピリチュアルケアは、かつて宗教が人々と密接に関わっていた時代、また病む人と家族の絆が強かった時代に観察されるスピリチュアルケアとは共通する役割もあるが、さらに求められる役割に多様性があるといえよう。たとえばシシリー・ソンダース医師が提唱したスピリチュアルケアは、人びとが自分自身を支えるものを失った現代社会での魂のケアを含む医療である。死に直面した患者が宗教的信仰もなく、特別の思想的支えもなく、そのうえ家族の絆が弱くなった時代における人間を支える土台をスピリチュアルケアが担っている。」(前掲4頁)と記しています。

これは、今後大変深刻な課題になると見ています。通じ合い、分かち合い、共有(シェアリング)という点からも。そしてそれは、そもそも理解するとか、相互理解、コミュニケーション、他者との交流とか、寄り添いということはどういうことかという問いになってきます。多様な価値観や感性(感覚)と共に在るとはどういうことか。未来の「コンパッション都市」にとっても、そこに関わる「コンパッション企業」にとっても、避けて通ることのできない問題だと思うのです。

そのようなことも含め、11月28日再会した時に、いろいろとお話しできることを楽しみにしています。コロナが第8波になっています。くれぐれも御身お大事にお過しください。

2022年11月12日 鎌田東二拝

以下、「絶体絶命」レコ発ライブ(「APIA40」@碑文谷 2022年12月18日)のご案内です。