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シンとトニーのムーンサルトレター 第105信

第105信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、お元気ですか? わたしは、ベトナムから帰国したばかりです。わたしが副座長を務める「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」のミッションで、3月9日から13日まで行きました。この研究会、以前は「東アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」の名で韓国ミッションや台湾ミッションを行いました。しかし、ベトナムやミャンマーといった東南アジアの国々が第2次研究会の研究対象となったため、名称を「東アジア」から「アジア」に変更したのです。

 ベトナムでは経済の中心であるホーチミン市と首都のハノイ市を訪問。日本大使館などを公式訪問する一方で、現地の結婚式場、写真スタジオ、葬儀会館、火葬場、墓地、納骨堂などを視察しました。また、ハノイ最古の寺院である「鎮国寺」をはじめ、史跡として有名な「一柱寺」、まるで宗教テーマパークのような「恩福寺」などの寺院も見学しました。

ハノイ最古の寺院「鎮国寺」で

ハノイ最古の寺院「鎮国寺」で史跡として有名な「一柱寺」で

史跡として有名な「一柱寺」で
 しかし何よりも興味深かったのは、「ホー・チ・ミン廟」でした。ここは、ベトナム革命を指導した革命家にして政治家のホー・チ・ミン(1890年〜1969年)の霊廟です。彼は初代ベトナム民主共和国主席であり、ベトナム労働党中央委員会主席を務めました。ベトナム人民は、親しみを込めて彼を「ホーおじさん」の愛称で呼んでいるそうです。ホー・チ・ミン廟は2年の歳月をかけて建てられ、1975年9月2日に完成しました。多くの兵士たちによって厳重に警備されており、一年中冷房の効いた内部の部屋に永久保存処置を施されたホー・チ・ミンの遺体が安置されています。廟の中はベトナム人民軍の軍人により警護されており、私語厳禁で立ち止まることは許されません。また、廟の内部は撮影不可です。生前のホー・チ・ミン自身は自己顕示的な人物でなかったそうです。死後はホー自身は存命中に自己顕示的行動におよぶことはありませんでした。その死に際しても本人は火葬および北部(トンキン)、中部(安南)、南部(コーチシナ)に分骨を望んでいたといいます。本人の希望を無視して永久保存にするというのは違和感をおぼえますね。

「恩福寺」は、まるで宗教テーマパーク!

「恩福寺」は、まるで宗教テーマパーク!「ホー・チ・ミン廟」にて

「ホー・チ・ミン廟」にて
 実際に見たホー・チ・ミンの遺体は、まるで蝋人形のようでした。4人の兵士に守られていましたが、いくらエンバーミングでも、あそこまで完全に遺体を保存できるものでしょうか。わたしは、「もしかしたら、本当に人形なのでは?」と思いました。共産党が独裁する社会主義国家なら、それくらいやりかねません。ホー・チ・ミンと同様に、レーニンや毛沢東や金日成や金正日の遺体も永久保存されていますが、こういう「人間の尊厳」を無視するところが社会主義国の嫌な部分だとは思います。というか、野蛮そのものの行為ではないでしょうか。正直、嫌悪感さえおぼえますね。それでも死者は死者です。わたしは、ホー・チ・ミンのご遺体に対して鎮魂の祈りを捧げました。

 話は変わりますが、2月21日に『慈経 自由訳』(三五館)を上梓いたしました。帯には「本邦初の自由訳」「親から子へ、そして孫へと伝えたい『こころの世界遺産』」「『論語』や『新約聖書』にも通ずる、ブッダからの『慈しみ』のメッセージ」と書かれています。そして、わたしがブッダの本心に想いを馳せながら自由訳を行った文章とともに、世界的写真家リサ・ヴォートさんが撮影した素晴らしい写真の数々が掲載されています。もう、この美しい写真を眺めているだけで癒される気分になります。

 「慈経」(メッタ・スッタ)は、仏教の開祖であるブッダの本心が最もシンプルに、そしてダイレクトに語られている、最古にして最重要であるお経です。上座部仏教の根本経典であり、その意味では大乗仏教における「般若心経」にも比肩します。上座部仏教はかつて、「小乗仏教」などと蔑称された時期がありましたが、僧侶たちはブッダの教えを忠実に守り、厳しい修行に明け暮れてきました。「メッタ」とは怒りのない状態を示し、つまるところ「慈しみ」という意味になります。「スッタ」とは「たていと」「経」を表します。

 装丁に使われているクリーム色は、やわらかな月の光を連想させます。興味深いことに、ブッダは満月の夜に「慈経」を説いたと伝えられています。満月とは、満たされた心のシンボルにほかなりません。本書には美しい満月の写真が登場しますが、じつは「慈経」そのものが月光のメッセージなのです。わたしは、ドビュッシーの「月の光」を聴きながら、自由訳を試みました。わたしは、「慈悲の徳」を説く仏教の思想、つまりブッダの考え方が世界を救うと信じています。「ブッダの慈しみは、愛をも超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。生命のつながりを洞察したブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視しました。そして、すべての人にある「慈しみ」の心を育てるために「慈経」のメッセージを残しました。

 そこには、「すべての生きとし生けるものは、すこやかであり、危険がなく、心安らかに幸せでありますように」と念じるブッダの願いが満ちています。この「慈経」には、わたしたちは何のために生きるのか、人生における至高の精神が静かに謳われています。わたしたち人間の「あるべき姿」、いわば「人の道」が平易に説かれているのです。「足るを知り 簡素に暮らし 慎ましく生き」といった仏教の根本思想をはじめ、「相手が誰であろうと けっして欺いてはならぬ」「どんなものであろうと 蔑んだり軽んじたりしてはならぬ」「怒りや悪意を通して 他人に苦しみを与えることを 望んではならぬ」といった道徳的なメッセージも説かれています。その内容は孔子の言行録である『論語』、イエスの言行録である『新約聖書』の内容とも重なる部分が多いと、わたしは思っています。

 2012年8月、東京は北品川にあるミャンマー大使館において、わたしはミャンマー仏教界の最高位にあるダッタンダ・エンパラ大僧正にお会いしました。北九州の門司にある日本で唯一のミャンマー式寺院「世界平和パゴダ」の支援をさせていただいているご縁からでしたが、そのとき大僧正より、『テーラワーダ仏教が伝える慈経』という本を手渡されました。それを一読したわたしは、広く深く豊かな「慈経」の世界に魅せられました。

 本を送らせていただいたところ、Tonyさんから「御高著『慈経 自由訳』、お送りくださり、まことにありがとうございました。大変読みやすく、シンプルです。仏教は本来的に大変シンプルだと思います。神道もそうですが。一番、複雑微妙なのが、キリスト教だと思います」と書かれたメールを頂戴しました。短いコメントですが、これは宗教哲学者として“ど直球”の感想です。わたしは大変嬉しかったです。ありがとうございました。

 さて、「慈経」は、もともと詩として読まれていました。すなわち、単に書物として読まれるものではなく、吟詠されたものだったのです。わたしも、なるべく吟詠するように、1000回近くも音読して味わいました。そして、自身で自由訳をしたいという気持ちが高まったのです。「慈経」の原文には多くの英文訳がありますが、わたしはランカスター大学、ハーバード大学、およびスリランカ大学で仏教を研究したAndrew Olendzi(アンドリュウ・オレンズキー)博士の英文訳をテキストに使いました。すると、ミャンマー仏教研究の第一人者である高野山大学教授の井上ウイマラさんが英訳者アンドリュウ・オレンズキー博士のことをメールで教えて下さいました。それによると、「自称大工(建築家)さんで、研究所の建物などを設計しています。発心してアビダンマという仏教心理学の研究をしたようでハーバード大学で仏教心理学の勉強会などを開きマインドフルネスが脳科学や心理療法を経由して広がってゆく下地作りに貢献してくれています」と書かれています。貴重な情報を教えて下さった井上さんに感謝です!

 「慈経」の教えは、老いゆく者、死にゆく者、そして不安をかかえたすべての者に、心の平安を与えてくれます。「無縁社会」や「老人漂流社会」などと呼ばれ、未来に暗雲が漂う日本人にとって最も必要なメッセージが「慈経」には込められていると確信します。その自由訳全文は、こちらを御覧下さい。

 「毎日新聞」に取り上げられたこともあり、各地の書店でも反響を呼んでいるようです。北九州市にある西日本最大級の書店「クエスト」では、話題書コーナーに『慈経 自由訳』と同じ三五館から刊行されている『1000の風』が大量に並べられています。その姿を見て、わたしの胸は熱くなりました。数年前、「千の風になって」という不思議な歌が大ブームになりました。「私のお墓の前で泣かないでください」というフレーズではじまることからもわかるように、死者から生者へのメッセージ・ソングです。

刊行された『慈経 自由訳』

刊行された『慈経 自由訳』『1000の風』から『慈経 自由訳』へ

『1000の風』から『慈経 自由訳』へ
 もともと「1000の風」は作者不明の、わずか12行の英語の詩でした。原題を「I am a thousand winds」といいます。欧米では以前からかなり有名だったようです。かつて、この詩の存在を週刊誌で知った1人の日本人がいました。三五館の星山佳須也社長です。大きな感銘を受けた星山社長は、1995年にこの詩を出版しました。その後、この本を作家の新井満氏が読んで大変感動しました。新井氏は、この不思議な力をもつ詩に曲をつけてみたいと思い立ち、自身による新訳にメロディーをつけました。それが、「千の風になって」です。CD化やDVD化もされて大ヒットし、現実の葬儀の場面でも、この曲を流してほしいというリクエストが今も絶えません。喪失の悲しみを癒す「死者からのメッセージ」として絶大な支持を受け続けています。

 それまでの日本で「死」について語ることは大きなタブーでした。それを打ち破ったのが三五館の『1000の風』だったのです。「死者からのメッセージ」は確実に日本人の死生観を変え、それは現在の「終活」ブームにまでつながっています。最初に「慈経」のラフな直訳をお見せしたとき、星山社長は非常に興味を持って下さいました。そして、「これは、今の日本に最も必要なメッセージですね。ぜひ、出版しましょう!」と言って下さったのです。なにしろ、日本人として初めて「I am a thousand winds」の素晴らしさを理解された方の言葉に、わたしは大きな勇気を得ました。『1000の風』の刊行から約20年を経過し、今また日本人の死生観や人生観に大きな影響を与えるメッセージが発せられました。両書のスタッフも同じメンバーです。

 そして、わたしに素晴らしい朗報が届きました。なんと、「バク転神道ソングライター」の異名で知られるTonyさんがわたしの自由訳に曲をつけて歌って下さるというのです。Tonyさんは、「『神道ソングライター』が世紀の仏教ソングライターを兼務する『神仏習合シンガーソングライター』に大化けするわけですね」とのメールを送ってくれました。
 いやあ、これは楽しみになってきました。Tonyさんによる神仏習合ソングが「千の風になって」以上のヒットになるかもしれません。すべては御仏の心のままでしょうが、わたしたち“礼楽コンビ”の「明るい世直し」がいよいよ現実の形になります。というわけで、Tonyさん、どうぞ、よろしくお願いいたします。心より楽しみにお待ちしています。それでは、次の満月まで、オルボワール!

2014年3月17日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、いよいよ3月です。3月はわが誕生月でもあり、いつもこの時期になると、この世に生まれてくる旅をしたせいか、どこかにふらりと旅立ちたくなります。ほとんど窒息死寸前で死にかけて生れてきたわたしにとって、3月は特別の生の息吹きを感じる季節です。黄色いタンポポや菜の花を見ると、涙が出てきます。特に菜の花の群生を見ると、いつもなぜか泣いてしまいます。そのけなげに、あかるく、一生懸命に生きている姿に心の底から感動するからです。

 さて、Shinさんは、「アジア冠婚葬祭業国際交流研究会」のミッションで、ベトナムに行かれていたとか。ベトナムは、タイやカンボジアやラオスやミャンマーなど他の東南アジアと違って、上座部(テーラワーダ)仏教(いわゆる小乗仏教)ではなく、大乗仏教国です。Engaged Buddhism を提唱した、1926年生まれのベトナム出身の僧ティク・ナット・ハンが有名ですが、友人の小説家宮内勝典さんの『焼身』でも描かれたように焼身した反戦僧のこともよく知られています。

 わたしは、15年ほど前に、なぜか、東京財団主催の漫画のシンポジウムでベトナムに生きました。確か、数名の研究社の他に、『セーラー・ムーン』をヒットさせた東映アニメの社長さんもいました。そんな中に、なぜわたしが呼ばれたかというと、日本の漫画と神話や伝承との関係について話を求められたからです。そんなことで、ホーチミン市やハノイやフエなどに行ったことを覚えています。ベトナムでは、『ドラエモン』が大ブームになったとのことでした。

 しかし、その時、ホーチミン廟に行く機会はありませんでしたので、そんなにリアルな遺体があるのは知りませんでした。わたしが東南アジアで行ったことのある国は、タイとカンボジアとインドネシアとフィリッピンとベトナムだけです。中でもタイは10回ほど行っています。

 その東南アジアに伝わった仏教の基本テキストの『メッタ・スッタ』すなわち『慈経』を自由訳されましたね。大変読みやすく、素直な言葉で、調べも詩的でした。Shinさんたちが作ったYou tube版には、<親から子へ、そして孫へと伝えたい「こころの世界遺産」/「慈経」(メッタ・スッタ)とは—仏教の開祖であるブッダの本心が、シンプルかつダイレクトに語られた教え。ブッダは、人間が浄らかな高い心を得るために、すべての生命の安楽を念じる「慈しみ」の心を最重視した。」とガイドしていますね。また、<すべての生きとし生けるものが/幸せであれ/平穏であれ/安らかであれ」という結びの章句も印象的ですね。

 10年前、『呪殺・魔境論』(集英社、2004年、『「呪い」を解く』と改題して2013年に文春文庫より再版)に書いたことですが、わたしは、1987年2月に魔を体験し、40日間不眠状態に陥りました。その苦闘の中でわたしを癒してくれたのは朝日と富士山と虹でしたが、その苦闘の後、お釈迦さんの『スッタニパータ』を座右の書とするようになりました。それは、次のように始まります。


1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


 ここでお釈迦さんが説いているのは、イリュージョンと執着の放棄、断滅です。これは仏教の「身心変容技法」ですが、重要なのは、Shinさんが「自由訳」した『慈経』でも繰り返しが修行者の身心に血肉化するためにもとても大事でしたが、ここでも、「この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るように」という末尾の章句が繰り返されている点がきわめて重要です。「この世もかの世」も「ともに捨てる」。この世の執着もあの世の執着も、どの世の執着も捨てて、物事をありのままに見、とらわれなく生きる。これがシンプルな仏教の教えであり、生き方です。

 自己と世界を「正見」すること。そしてその「正見」は「正定」、つまり正しい瞑想なしにできないこと。座禅、禅定が伴うこと。ここがポイントです。欧米で「マインドフルネス瞑想」として広がっているものが、上座部仏教のヴィパサナ瞑想で、それは「観察」つまり「正見」する瞑想=「正定」です。井上ウィマラ高野山大学教授はこのヴィパサナ瞑想の実践者であり名手です。

 その内、Shinさんによる自由訳『慈経』を神仏習合ソングにしますので、楽しみにお待ちください。

 ところで、Shinさんが3月9日から13日までベトナムに行っている間、ちょうどほぼ同じ時期に、わたしは伊勢に行っておりました。3月9日から14日まで、伊勢で「ルーツとルーツの対話」という日仏シンポジウムがあり、その発表者の一人として参加しました。宗教学者の島薗進さん(東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長)やスェーデンボルグ研究者の高橋和夫さん(文化学園大学名誉教授)や美術史家の稲賀繁美さん(国際日本文化研究センター教授)や比較神話学者の吉田敦彦さん(学習院大学名誉教授)や詩人の高橋睦郎さんや音楽家のツトム・ヤマシタさんも一緒でした。

 フランス側からはコロンビア大学教授のベルナール・フィールさんやベルナール・セルジャン(フランス神話学会会長)やアンドレ・ヴォシェさんやフランソワ・ラショー(宗教美術史、仏極東学院・高等研究実践院)やフィリップ・マルキヴィッチ神父さん(ベネディクト派修道会士)や宗教社会学者のダニエル・エルヴュー=レジェや秘教研究の第一人者のジャン=ピエール・ローランさんたちが参加しました。それぞれ、大変興味深く啓発的な発表をしてくれ、ワクワク、ドキドキ、ルンルンでしたね。

 いずれこのシンポジウムが本になるといいなと思いますが、その可能性はあるでしょう。大変大変有意義で面白かったから。各論テーマは、①自然とサクレ(聖性)、②芸術と宗教、③霊性的体験、④ルーツと普遍性、日仏における新しい霊性の形の4テーマでした。そのどの各論テーマも興味津々でしたし、わたしの関心事に深く入ってくるものばかりでしたが、とりわけ、80歳を超える秘教研究者のジャン=ピエール・ローランさんの秘教論と、アミナ・タハ・フセイン・オカダさんのギュスターブ・モロー論がグイグイと迫ってきて、面白かったですね。

 猿田彦神社で行なってきた「おひらきまつり」を止めてから、たまにしか伊勢に行く機会がなくなっていたので、今回の研究合宿のような朝の9時から夕方6時近くまで行う集中的なシンポジウムには堪能できました。おかげさまで、3年ぶりに口外炎ができました。まちがいなく、話し過ぎ、聞き過ぎ、食べ過ぎが原因でしょう。

 その話の一つ一つを紹介し始めると切りがないので、バサッと省きますが、わたしにとってこの機会は一種のイニシエーションであったと思います。それほど貴重な機会であり、それによって、自分の立ち位置や使命がいっそう明確に自覚できました。

 終わってすぐ3月15日に、NPO法人東京自由大学で「鳥山敏子さんを偲ぶ会」を行ないました。午前中に、鳥山さんが作ったグループ現代の映画『先生はほほーっと宙を舞った』(四宮鉄夫監督、1991年製作)を上映しました。これは、鳥山さんが宮沢賢治の教え子にインタビューした記録映画です。午後には、「鳥山敏子さんを偲ぶ会」と映像「鳥山敏子の生涯」(提供:東京賢治シュタイナー学校)とTBSの1996年9月20日のいじめ特集での東京賢治の学校の紹介と鳥山敏子さんへのインタビュー映像と、鳥山敏子さんがNPO法人東京自由大学で行なった「21世紀世界地図—今、教育を問う!〜シュタイナーと宮沢賢治の精神と教育実践」(2011年11月19日)の講座の映像を見ました。

 鳥山敏子さんは、1941年10月3日に広島に生まれました。その頃父親が海軍工場に勤務しており、やがて広島は危険ということで、山口に移動し、戦後母の故郷の香川県に移りました。鳥山さんが4歳の時でした。鳥山さんにとって、「戦争がない世界を作る」ということは、子供の頃からの悲願で、それがやがて宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』の「世界全体が幸福にならないと個人の幸福はありえない」という思想に繋がります。五人兄妹の長女だったので、自分でお金を稼いで大学に通いました。お茶の水女子大に行きたかったのですが、経済的に不可能だったので地元の香川大学に入学するも、安保の年で、毎日のようにデモに参加し、父親とも対立し、家を出て高松に下宿します。その頃、日本共産党に入党し、卒業まで120人を産党員として入党させるすごいオルガナイザーでした。

 鳥山さんは、「東京賢治シュタイナー学校」では、1年生から8年生までの担任を1回、そして7〜8年生の担任を2回、そして、1年生から3年生の担任をやっている最中の2013年10月7日、72歳になったばかりで突然亡くなりました。

 鳥山さんは、子どもの持っている学ぶ力、面白がる力を最大限に引き出す名人でした。彼女の口癖は、「面白くなると子どもが勝手にやりだすのよ。だからね、子どもの学びたい気持ちにどう付き合うかが大事なのよ」というものでした。この子はなぜこの地上にやってきたのか、なぜこの両親のところに生まれてきたのか、ということまで含めて、子どもの気質と傾向と学びたいこととを探りながら授業を組み立て展開していったのです。彼女にとっては、授業は神聖なる儀式を行なう神殿であると同時に、戦いの場としての戦場でもあったと思います。

 その子が何をするためにこの地上に生まれてきたを見抜いて、その子のやる気を邪魔せず引き出し、刺戟する。そうすると、子どもは勝手にどんどん行動し、学んでいく。鳥山さんは言います。「困難をどうやって自分の力にしていくか。人間やることってこれしかないのよ。死ぬ寸前まで鍛え続けるのだから。退職したら悠々自適じゃないのよ。なぜ地球にやってきたとか考え続けるのよ。そうすると新しく次が始まる。どうせなくなる命だもの。しかし無くなりません。肉体は死んでも霊の形で生き続ける。そしてまた地上にやってくるのよ」と。

 東京自由大学のメンバーの一人が、鳥山敏子さんと宮沢とし子さんとは名前が似ているだけでなく、共通点があると指摘してくれました。そう言われれば、確かに、鳥山敏子さんと宮沢とし子さんには共通点があります。2人とも「教師」であったことです。鳥山敏子は30年間、東京都の公立小学校の教諭をし、宮沢とし子は2年間だったか、母校の花巻女学校の教師をしました。が、宮沢とし子さんは、結核で亡くなったため、「教師道」を成就できずにこの世を去りました。けれども、鳥山敏子は「教師道」を完成成就したと言えると思います。その意味で、宮沢とし子の遺志と思いを成就したと思います。

 時代の課題と自己の使命を宮沢とし子も宮沢賢治もこの世で十全に達成成就できないで夭折してしましたが、確かに、鳥山敏子は突然の死ではあったけれど、十分にこの世での使命を果たしたと思います。わたしは鳥山敏子さんを追悼する文章を3通り書きましたが、NPO法人東京自由大学ニューズレター第22号に次のような追悼文を書きました。


「追悼・鳥山敏子」
 鳥山敏子と会ったのは、どこだったか、いつだったか、今はもう思い出せない。だが、その鳥山敏子がわたしの姉になった。魂の姉になった。実の姉にもよく似ているが、それだけではない。宮沢賢治とルドルフ・シュタイナーとの関わり方。子どもたちへの半端ではない迫り方。すべてにおいて、魂と身体を同時に感じさせるその言葉と行為。
 鳥山敏子は身体に食い込むゆえに、魂に食い込む。そのような捨て身の食らい付き方を鳥山は曝け出し、示した。
15年と少し前、1998年11月の末、鳥山はわたしに「歌わないの?」と投げかけた。その言葉はわたしの身体を貫き、魂に届いた。弾丸のような、火山弾のような熱い返答を返し、その夜からわたしは「神道ソングライター」になった。
鳥山敏子はわたしを変えた。というよりも、わたしをわたしにした。自己実現などというきれい事ではない。わたしにわたしを捨てさせることによってわたし自身に成らせたのだ。元共産党員の鳥山は工作の名人である。オルグの達人である。アジテートする破壊者だ。人をそそのかし、その気にさせ、自分を捨てさせ、自分にさせる。自分に成り切るためには、確かに、乗り越えなければならない深淵がある。その深淵の魂の深度を鳥山はよく知っていた。その魂の乗り越え方を、鳥山は身をもって指し示した。
その鳥山敏子の身体と魂とその行為は不滅である。鳥山の言葉は生者のみならず、死者をも貫く。現界と霊界を串刺しにして逝った姉・鳥山敏子を心から称え、追悼する。


 改めて、鳥山敏子の凄さと過激さと優しさを感じています。ありがとう、鳥山敏子。わが愛する姉。

追悼・鳥山敏子先生 〜映像で偲ぶ鳥山敏子の教育の理想と実践〜

追悼・鳥山敏子先生 〜映像で偲ぶ鳥山敏子の教育の理想と実践〜
2014年3月17日 鎌田東二拝