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シンとトニーのムーンサルトレター 第100信

祝!ムーンサルトレター第100信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、100回目の満月が上りました。ついにムーンサルトレターが第100信になりましたね。2005年10月18日に第1信をお送りしてから、早いもので、もう丸8年が経過しました。この8年間、明るい世直しについて、お互い、じつにいろんなことを語り合いましたね。

 昨日の18日、「日本経済新聞」の最終面の「交遊抄」にわたしの文章が掲載されました。

 わたしは、Tonyさんとのこの文通のことを書きました。「満月の文通」というタイトルで、内容は以下の通りです。

 「毎月、満月の夜になると、往復書簡を交わす。便箋に書くわけではなく、WEB上の文通だ。相手は、鎌田東二先生。京都大学こころの未来研究センター教授を務める宗教哲学者である。

 出会いはもう20年以上も前になる。私が東京でプランナーをやっていたころ、『葬儀』をテーマに対談した。当時の先生は新進気鋭の神道研究者としてマスコミなどに広く知られていた。

 私の父で、サンレー会長である佐久間進は国学院大学で民俗学を学び、かの折口信夫先生の影響が強い。それで、父は冠婚葬祭に興味を抱き、事業化したのである。その父も私も、鎌田先生のことを『現代の折口信夫』と認識していた。

 先生は神職の資格も持っており、自分で作詞・作曲をして歌まで歌う『神道ソングライター』でもある。2001年に私が社長に就任した時、わが社の新しい社歌も作っていただいた。私たちはともに歌が大好きで、お会いすると、必ずカラオケボックスに直行して、2人で歌いまくる。先生はバク転が得意で、還暦を迎えた夜、比叡山の宙を何度も舞ったという。

 1回り年長の人生の師との文通は、今月でなんと、100信目となる。そのタイトルは、『ムーンサルトレター』という」

 以上のような内容でしたが、100回目の良い記念になったと思います。

また昨夜は、北九州市八幡西区折尾にあるサンレーグランドホテルのガーデンで「月への送魂」も行いました。夜空に浮かぶ満月をめがけ、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送るという、まさに「月と死のセレモニー」です。

 なぜ、月に魂を送るのか? Tonyさんには「釈迦に説法」ですが、多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことは自然でしょう。ミャンマーなどの上座部仏教の国々では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっている。そのように、わたしは考えています。

 わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのです。宇宙から来て宇宙に還る私たちは、宇宙の子なのです。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものと言えます。人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。その意味で月は、生きとし生ける者すべてのもとは同じという「万類同根」のシンボルでもあります。かくして、月に「万教同根」「万類同根」のシンボル・タワーを建立し、レーザー(霊座)光線を使って、地球から故人の魂を月に送るという計画をわたしは思い立ち、実現をめざして、いろいろな場所で構想を述べ、賛同者を募っています。

レーザー(霊座)光線が満月に届く!

レーザー(霊座)光線が満月に届く!これが、「月への送魂」の瞬間だ!

これが、「月への送魂」の瞬間だ!
 昨夜は皇産霊神社の瀬津隆彦神職が登場、魂弓(たまゆみ)を射って、送魂の儀を行いました。神職の弓から発せられたレーザー(霊座)光線が夜空の満月に到達すると、満場のお客様から盛大な拍手が起こりました。中には亡くなられたばかりの故人の遺影を持っておられる方もいらっしゃいました。わたしに声をかけて下さった老婦人は亡くなられた御主人の面影が月に見えたそうです。わたしは、その言葉をお聞きして感動しました。

 死後の世界のシンボルである月に故人の魂を送る「月への送魂」は、21世紀にふさわしいグローバルな葬儀の“かたち”であると思います。何より、レーザー光線は宇宙空間でも消滅せず、本当に月まで到達します。わたしは「霊座」という漢字を当てましたが、実際にレーザーは霊魂の乗り物であると思います。

 「月への送魂」によって、わたしたちは人間の死が実は宇宙的な事件であることを思い知るでしょう。『ロマンティック・デス〜月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)をはじめ、『葬式は必要!』や『ご先祖さまとのつきあい方』(ともに双葉新書)などの著作でも「月への送魂」を紹介しています。関心を抱かれる方も多くなったようで、問い合わせなども増えてきました。終了後は、数え切れないほど多くの方々から「今夜は本当に素晴らしかった」「これまでで最高の月だった」「これで寿命が延びた」「なつかしい故人に会えた気がした」などのお言葉を頂戴し、わたしの胸は熱くなりました。わたしは、「死は不幸ではない」ことを示す「月への送魂」の普及に、死ぬまで、そして死んだ後も尽力したいです。

 「月への送魂」も新しい儀式文化の創造と言えますが、最近、わたしは他にも新しい儀式を提案しました。10月2日、わが社の新しいセレモニーホールである「霧ヶ丘紫雲閣」が北九州市小倉北区にオープンしました。北九州市内では18番目、福岡県内では31番目、サンレーグループとしては55番目の紫雲閣です。竣工神事では、1300年の歴史を持つ足立山妙見宮から磐梨文孝宮司にお越しいただきました。

オープンした「霧ヶ丘紫雲閣」

オープンした「霧ヶ丘紫雲閣」「禮鐘」の横に立つ

「禮鐘」の横に立つ
 竣工式の後、施主挨拶が行われ、わたしは施主として次のように挨拶しました。このように立派なホールを建設できて、本当に嬉しい。これで、会員様に満足のゆくサービスを提供することができる。この周辺は、足立・黒原という小倉でも有数の高級住宅地が近くにあり、さらにキメの細かい高品質のサービスに努めていきたい。

 また、わたしは「今年は、伊勢神宮の式年遷宮、出雲大社の大遷宮が重なるという年です。そんな記念すべき年に、霧ヶ丘紫雲閣を竣工できて本当に嬉しく思います。奇しくも、本日は伊勢神宮の内宮で新しい社殿にご神体を移す「遷御の儀」、つまり式年遷宮の本番が行われる日です。この最高の佳き日に、1300年の伝統を持つ足立山妙見宮の磐梨宮司に竣工式を司っていただき、光栄です。磐梨宮司の「オーッ」と発する警蹕(ケイヒツ)の声を聞いていると、魂が揺さぶられ、また鎮められるようでした。まさに、タマフリとタマシズメです。そして、わたしたちの仕事も、魂のお世話そのものです。「サンレー」という社名は産霊(むすひ)という魂の業に由来しているのです」と述べました。

 さらに、わたしは以下のように言いました。この建物は個人の邸宅をイメージして作られた新感覚のセレモニーホールである。いま、「家族葬」という言葉が誤解されているが、多くの方々の縁に感謝しながら参列者をお迎えしつつ、家族によって温かい見送りができる、ここで真の意味での「家族葬」を提案したい。サンレーが考える家族葬である。この霧ヶ丘紫雲閣では、出棺の際にクラクションを鳴らすことはやめた。その代わりに、「禮」という文字が刻まれた銅鑼を鳴らして出棺する「禮鐘(れいしょう)の儀」を新たに行う。新時代の儀式が、ここから生れる。霧ヶ丘の「霧」という言葉を聞くと、わたしは港をイメージする。昔の小林旭とか赤木圭一郎の映画のように、主人公が霧にむせぶ波止場に立っている姿が目に浮かぶ。考えてみると、セレモニーホールというのも、ある意味では港のようなものだ。そう、故人の魂が「こちら側」から「あちら側」へと旅立つための港である。船の出港の際には、銅鑼(どら)を鳴らすもの。その意味でも、「禮鐘の儀」はぴったりである。そして、わたしは「人生を旅立つ港霧が丘 銅鑼を叩けば禮と響けり」という短歌を披露しました。

 竣工式の後は、「禮鐘の儀」のデモンストレーションが行われました。最初に林直樹支配人から説明があり、禮鐘が3回叩かれました。この3回というのは「祈り」「感謝」「癒し」の意味が込められており、サンレーに通じる「三禮」という意味もあります。鐘は会館正面に建つ鐘楼につり下げられ、直径50センチ、暑さ10センチ、重さ50キロ弱もあります。3回叩くと、禮鐘からは「レイ、レイ、レイ〜」という音が響いた気がしました。

 正確には、禮鐘は「鰐口(わにぐち)」という鐘です。古代の日本では、神社にも寺院にもともに鰐口が吊るされてたそうです。その後、時代が下って、神社は鈴、寺院は釣鐘というふうに分かれていったのです。ですから、鰐口は神仏共生のシンボル、さらには儒教の最重要思想である「禮」の文字が刻まれた「禮鐘」は神仏儒共生のシンボルとなります。

 言うまでもなく、神道・仏教・儒教は日本人の「こころ」の三本柱です。

 もともと、わが社は1978(昭和53)年、北九州市に日本初の都市型葬祭会館を建てました。最近では家での葬儀が減って葬祭会館などで行うケースが増えたのに伴い、都市部に建つ施設が多くなりましたが、同時に周辺住民の方々がクラクションの音を迷惑がる例も目立ってきました。今回、オープンした霧ケ丘紫雲閣の前には道路を挟んで高級住宅街が広がります。「地域のみなさんに愛される会館に」するためにも、わたしは「禮鐘」の導入を思いついたのです。鐘の音はクラクションに比べて低く、響きが少ないです。

 本来、クラクションにはいわれがなく、かつて野辺の送りの時に鳴らされたカネの代わりに使われた慣習に過ぎません。儀式とは、時代に応じて柔軟に変化して構わないと思います。もちろん、「変えてはならない」部分と「変えてもよい」部分がありますが、出棺時のクラクションは鐘に変えるべきであると思いました。最も大事なことは、故人を送り出すという心であることは言うまでもありません。葬式が「人生の卒業式」ならば、鐘の音は出港するドラの音にも似て、故人があちらの世界へ旅立つのには、ふさわしいと思います。わたしは、半年以内に全ての紫雲閣に鐘を設置したいと考えています。

オープンした「天道館」

オープンした「天道館」父である佐久間会長とともに

父である佐久間会長とともに
 さらに9月26日、父である佐久間進サンレーグループ会長の満78歳の誕生日でしたが、この日、「天道館」というわが社の施設が竣工しました。「天道館」の設立主旨は主に3つあります。第1に、実践礼道小笠原流の礼儀作法を取り入れて、サンレー社員としての基本的なスキルを学ぶ社員教育の場、また、社員間の意思疎通を図り、目的の共有を図るための社員同士のコミュニケーションの場としての役割を担う施設とするため。第2に、サンレー創業の地である上富野周辺の方々に、長くご愛顧いただき、お世話になった感謝の気持ちを込めて、この天道館をご近所の皆様が気軽に集える「公民館」や「市民センター」のようなものとして、ご利用いただける施設とするため。第3に、高齢者社会へと向かう日本において、高齢者同士が隣近所付き合いを活性化させ、共に支え合う社会を目指していく研究所としての役割を果たしていくことを目的とする。

 「天道」とは何か。日本では、一般的にお天道様(おてんとさま)とも言うように、太陽神としても知られます。サンレーの社名の由来でもある太陽は、日本において神として祀られたのです。信仰心が伴わなくても、日本人は太陽を「お日様」と呼び、「お月様」と同様に自然崇拝の対象でした。天照大神は太陽の神格化であり、仏教の大日如来とも習合しました。天道思想は太陽の徳の如く、あらゆる人々、いや人をも超えた万物を慈しむ思想です。ぜひ、この「天道館」を拠点に何事も「陽にとらえる」明るい世直しを推進したい。施主挨拶の終わりに、わたしは心をこめて「万物に光を注ぐ天道の名をば掲げてめざす世直し」という短歌を詠みました。

 これからも、わが社は、冠婚葬祭を中心に、明るい世直しを推進していきたいと願っております。Tonyさん、どうぞ、これからもよろしく御指導下さい!

2013年10月19日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 このムーンサルトレターの返信を10月20日の夕方17時半ごろから、埼玉県大宮の義母の家で書き始めます。わたしは、15年前の1998年11月末に、この家で、「神道ソングライター」として出発しました。

 このレターを書いている2階の居間で、多くの「神道ソング」を作詞作曲し、家の木々や猫塚や隣の家の花々に真っ先にそれを聴いてもらいました。真東、100メートルくらい行ったところに櫛引氷川神社があり、玄関を出てすぐの北側に墓地と櫛引観音堂があり、まさに「サンレー」のような「冠婚葬祭」の三角点のようなところに義母の家があります。

 義母は昨年の夏死去したので今はもう故人となりここには住んでいませんが、しかし、ここはやはり、義父と義母の家で、その思いといのちが詰まっています。そしてその思いといのちの中で、わたしは15年前に「神道ソングライター」になったのでした。

 最初に作詞作曲した「神道ソング」は、「日本人の精神の行方」、2番目に作ったのが酒鬼薔薇聖斗に捧げる「探すために生きてきた」、3番目に作ったのがわが子を含めすべての15歳の少年少女に捧げる歌「エクソダス」でした。これが1晩で出来ました。

 というと、サンレーの社歌を、渋谷の飲み屋「八丈島ゆうき丸」で頼まれて、その2時間後に大宮に帰り着いた時にはすでに社歌が出来ていたという「前科」を持つわたしのことをよく知るShinさんならば信じていただけると思います。

 「神道ソング」は考えずに作るというか、出来てくるので、すべてが日清チキンラーメンのようにワンタッチ3分間で出来ると言っていますが、実際、その通りなのです。なぜなら歌はわたしが作るのではなく、すでに向こう側に、「在る」からです。わたしはそれを「ダウンロード」するだけ。借りてくるだけ。拾ってくるだけ、です。その時、もちろん、お借りするエキュスキューズは、「礼(霊)」として必要ですが。

 今日、朝の9時からずっと今まで、ほぼ7時間、昼食を食べに近くのカフェに行くまで、「余はいかにして神道ソングライターになりしか」について語り続けていました。ぶっつづけで。休むことなく。途中で256曲目の神道ソング最新曲の「約束」を歌いましたが。

 実は、ポプラ社新書で、『歌うこと。そして祈ること。』という本を出してほしいというオファーがあり、それを受けて、たった1日でそれができると確信し、語りおろしで本を作ろうと考え、それを本日実行したのです。

 わたしの目論見は見事に的中し、話すべきことは全部話し切りました。というより、歌い切りました。わたしは、これまで、自分の話を歌の一種だと思って来たのでした。ですので、わたしの授業も、歌を歌っているのと本当は同じなのです。もちろん、聞いている学生は、講義の論理的な構造や事例を理性的に理解していると思いますし、そのような部分を持っていますからそう受け取るのが当然でしょうが、実は、それは歌なのです。歌が好きな学生は、わたしの講義が歌であることを見抜くでしょう。聞き分けることでしょう。

 ともかく、その話=歌を、正味6時間ぶっ続けで、歌い切りました。『超訳古事記』(ミシマ社、2009年)以来の語りおろしです。『超訳古事記』は、鎌田東二が現代の稗田阿礼に成り切って語り下ろす、という超無謀なる試みでした。そしてそれは、幸いなことに一定の形を見ました。それは、この大宮の義母の家の義母の寝室を借りて、語り下ろしました。わが家で半日3時間、そしてその翌日、自由ヶ丘のミシマ社本社で半日3時間語りおろし、2日間正味6時間で出来た本でした。

 本日、それよりも早く、超速で、1日実質6時間で、『歌うこと。そして祈ること。』の新書を語り下ろしました。これは実に、実に、楽な仕事でした。そして、楽しい仕事でした。自己本来の姿を包み隠すことなくただ開陳すればよいだけですし、好き勝手に歌っていればよいだけですから。こんな楽しく、楽な本作りはこれまでありませんでした。

 もちろん、「神道ソング」となるためには、そこに「スピリチュアル・ペイン」(霊的・精神的痛み)や「グリーフ」(悲嘆・哀しみ)があるので、歌の根底には「悲」があるのですが、同時にそれを包み込む「慈」もあるのです。歌とは慈と悲のせめぎ合い・応答関係の中で生まれてくるものですから。

 原初に、深い、遠い呼びかけがありました。その呼びかけ自体が歌でしたが、その呼びかけに応答して次の歌が生まれました。それが人間の歌う歌です。神や仏や精霊や死者の霊や大自然や動物からの呼びかけに答えたアンサーアクションとして歌も詩も神話も「神道ソング」も出来てきたと思っています。その「神道ソング」の世界がどのように受け止められるのか、聴き取られるのか、それは読者やリスナーの反応、応答を待ちたいと思いますが、それがかりにどのようなものであっても、それとして受け止めたいと思います。

 もう一つ、「神道ソングライター」の15周年を飾る画期的な出来事があります。あさって、10月22日(火)夜19時から、広島市のライブハウス「をるがん座」で「神道ソングライター」として2時間のライブ&トークを行うのですよ。「神道ソングライター」としてオファーがあるなんてことは、これまで正式には1度もなかったですが(もっとも、友人・知人からお情けのように、「歌ってみてよ」と言われてライブをしたことは2〜3回ありましたが)、初めてまったくの他者から呼びかけがあったのです。涙が出るほどありがたいことですね。革命的な事件です。わたしにとっては。これに全力で応えたいと思いますが、このような場合、力めば力むほど風邪を引いたりして喉を傷めるので、そのあたりの調整が必要です。実際、力が入りすぎて、風邪気味になりつつあります。喉の微妙なはしかゆさや痛みがあります。気をつけねば。

 ところで、2008年に角川学芸出版から出していた『聖地感覚』が角川ソフィア文庫に入りました。角川書店グループは、この10月1日にすべての関連・参加会社が合併し、総売り上げが出版業界では講談社を抜いて第1位になるそうです。「KADOKAWA」というローマ字で世界市場に乗り出すとか。大角川、さて、どうなるか? わたしは、大規模化していく方向に未来はないと思いますが、どうでしょう? 大KADOKAWAを見守りたいと思います。

 この『聖地感覚』文庫本は、10月25日に発売になります。この解説を思想家で武道家の内田樹さんが書いてくれたのですが、これが実に見事な解説で、わたしの本文よりも解説の方がすばらしいのですよ。ぜひこの解説を読んでほしいです。これほど深く、身体感覚の繊細微妙な深みから「聖地感覚」を解き明かしてくれた人はいませんでした。内田さんがただの思想家ではなく、武道家であり、身体思想家であることの妙と能が如実に出ています。

 8月末から9月にかけて、わたしは殺人的なスケジュールでしたが、後期の授業が始まってようやく平静を取り戻したかに思っていたら、先週、伊豆大島が台風26号による集中豪雨で、幅1キロ、崩落1・2キロにも及ぶ土石流の大災害を受けました。大島は、1986年に三原山が大噴火して大きな被害を受けました。その10年後の1996年、近藤高弘さんたちと一緒に、三原山噴火10年を期して、大島町の教育委員会の要請を受けて、「ご神火と生きる〜火山のコスモロジー」というシンポジウムと大野焼きフェスティバルのイベントを行ないました。

 火口近くに、三原神社があり、その小さな社の屋根の上のところまで覆いかぶさるように溶岩が迫っていました。それはまるで、オーラのようでもあり、仏像の光背のようでもありました。よくまあ、こんなところで、溶岩が止まってくれて、分かれていったのが不思議なくらい、神社のすぐ真後ろで、真っ二つに溶岩が分かれているのでした。

 その三原神社の鳥居から後ろを振り仰ぐを目の前に富士山が見えるのですが、その富士山が天空の城ラピュタのように高く高く中空に聳え立っているのでした。ええっ! 富士山ってこんな高かったの! と、驚くような高みに富士山が位置しているのです。富士山はわたしの精神安定剤というか、コンパスというか、霊性の心の御柱というか、基台になるので、至るところから富士山を拝んでいますが、三原山の山頂の三原神社から見た富士山がわたしの見たもっとも崇高な畏怖するほどの神々しい富士山でした。

 その三原山でご神火をいただき、溶岩のクレーターの穴の中に陶器を入れ、大島名物の椿の葉っぱを覆って野焼きし、その上、鰺と飛魚のクサヤを焼いて焼酎とともに食べて直会をし、夜通し話し、飲み耽ったのですが、1998年1月6日に酒を止めたわたしは、まだその頃、1996年の秋には大酒飲みの大ウワバミだったのです。これまでの人生で、わたしほどの酒飲みに出会ったことはありません。死ぬ気で飲んでましたね。Shinさんと出会った1991年頃も相当飲んでいて、一緒によく飲みに行きましたよね。渋谷のクサヤの行きつけの店の「八丈島ゆうき丸」とかで。

 そんな縁のある伊豆大島がこのような大災害を受けて、衝撃でした。誰もが予測できない事態だったと思います。深夜のことでもあり、特別警報や避難警報を出しても、地区住民はこの大雨の中どこに逃げればよいか、どこに避難すればよいかもよくわからなかったのではないかと思います。少し大島の地形や地理を知っているので、よけいに難しいと思いました。マスコミなどは町長さんの行政責任を責めていましたが、行政の長なので、当然大きな責任を背負うし、迅速適確な判断と指示を迫られるでしょうが、本当に誰であっても、どうしたらいいのか、迷いに迷い、結局夜が明けるまでどうすることもできなかったのではないかと思います。被害の実態もどこでどうなっているのか、夜が白むまでわからなかったと思います。それほど、「想定外」のことが起こったのではないかと考えています。

 もちろん、地質学者などは、この溶岩流の上に乗っかっていた地層が大規模な土石流となって崩れ落ちていくことの危険性を察知していたかもしれません。また行政も防災対策において、そのような大島の特殊な溶岩地質やその特質をある程度把握していたでしょう。しかし、そのような机上の知識と現場での日常的土地勘や想定を超えて、ありえないことがおこってしまった、というのが実態ではなかったでしょうか?

 わたしは、このムーンサルトレターで繰り返し自然災害の頻発について予告していました。100信を迎えることになったので、Shinさんはこのことをよくわかってくれると思います。Shinさんは「人間の尊厳」が大切だという孔子の道を主張され、それを生きています。それを否定するものではありませんが、わたしはそれ以上に、「自然の尊厳」と「自然への畏怖・畏敬」の大切を主張し、それを生きています。そして「人間智」ではなく、「生態智」をよすがにして生きていくほか未来はないとさえ思っています。そのような「生態智」に基づく未来をどのように創造できるのか、今回の自然災害はそのような突き付けを迫ってきました。

 2年前、天河大辨財天社の半径1キロ以内で、3ヶ所の大規模な土砂の深層崩壊があったことをこのレターでも伝えましたが、大雨が降ったら、日本全国どこにでも同じような土砂崩れや深層崩壊の大災害が起こる危険があり、またその集中豪雨の雨量がこれまでにないような、予想外の雨量が起こる可能性が高いと思います。地球温暖化も原因しているでしょうし、その他の原因もあるでしょう。そのような自然現象の起因してくるメカニズムの究明は自然科学者の仕事ですが、プラグマチストのわたしとしては、どんな知識も活用できなければ意味がないと考えます。その「活用」がどのようにしてできるか、そして今ある知識と対策とその組み合わせの中でどのような最適解をそのつど編み出していくことができるかが問われていると思っています。

 さて、Shinさんが日本経済新聞の「交遊抄」にわたしとの「交遊」のことを書いてくれましたが、「日本」も「経済」も「科学」も「技術」もこれから正念場を迎えると思います。原発の制御もこれから多発する自然災害の中で具体的にどのように可能なのかが問われ、その対策・対応も並大抵ではないと思います。その制御の科学と技術、そして活用力を底上げしなくてはなりませんが、安陪首相の「汚染水は完全にコントロールされている」とか、「過去・現在・未来に健康被害はない」などの根拠のない暴言や大嘘は、それこそ、今後科学や技術がその根拠のなさを証明していくのではないでしょうか。放射能による健康被害も深刻なものになるのではないでしょうか? 2年や3年ではまだまだよくわからないと思います。

 とにもかくにも、日本の未来は、日本の未来の安全も安心も安定も「想定内」に収まらない「想定外」の事態に見舞われることは必至でしょう。しかしそんな中で、われわれは覚悟して生きていかねばなりません。そのような生の底力と臨機応変力を常に涵養していく正精進をしてまいりましょう! 今後ともなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 最後になりましたが、葬儀・告別式での「出棺」の際の「クラクション」を鳴らすことですが、それを「禮鐘」に替えるという試み、大賛成です。それによって、儀式の「質」がよりしめやかにかつ鎮魂供養のこころと意味を持ち始めると思います。そして何よりも、それは参列した方々の心と体で判断され評価されることにより、広がっていくことと思います。ぜひ全国に「礼楽の鐘」を鳴らしてください! お願いします。

2013年10月20日 鎌田東二拝