シンとトニーのムーンサルトレター 第135信
- 2016.08.18
- ムーンサルトレター
第135信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お盆はいかがお過ごしでしたか? わたしは、今年はずっと小倉の自宅におりました。18日の朝は、松柏園ホテルの神殿で「秋季例大祭」を行い、その後に「朝粥会」を開きました。おかげさまで、腰痛のほうはだいぶん良くなりました。この1ヵ月間もじつに色々な出来事がありました。
7月27日、ついに宗教学者の島田裕巳さんと対談しました。島田さんとの共著『お葬式を問う』(仮題、三五館)の巻末企画です。わたしは赤坂見附の宿泊先からタクシーで対談会場の六本木ヒルズへ向かったのですが、ぎっくり腰のために腰にコルセットを強く巻いて行きました。まるで、往年の東映ヤクザ映画で高倉健演じる主人公が殴り込みをする前に腹にサラシを巻くような感じでしたね。健さんは、サラシの中にドスを入れて殴り込むわけですが・・・。わたしにとってのドスとは、『唯葬論』(三五館)かもしれません。でも、本が厚すぎてコルセットの中に収まりませんでした。(苦笑)
49階の六本木ライブラリーへ行くと、島田さんが待っておられました。この中にある「ヒルズ・アカデミー」の会議室で対談しました。かつて、わたしは島田さんの『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)というベストセラーに対し、反論の書として『葬式は必要!』(双葉新書)を書きました。それから5年後、再び島田さんの著書『0葬』(集英社)に対抗して『永遠葬』(現代書林)を執筆しました。島田さんは、葬式無用論の代表的論者として有名ですが、わたしは葬式必要論者の代表のようにみられることが多いようです。そんな二人が共著を出すということに驚く人も多いようです。たしかにわたしたちは、これまで「宿敵」のように言われてきました。「葬儀」に対する考え方は違いますが、わたしは島田さんを才能豊かな文筆家としてリスペクトしています。
意見が違うからといって、いがみ合う必要などまったくありません。意見の違う相手を人間として尊重した上で、どうすれば現代の日本における「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切です。
当日の議論のポイントは、以下の通りでした。
●直葬をどう考えるか?
——急増している直葬について、両者の立場から議論を深めました。「直葬は、葬儀なのか? 遺体処理なのか?」「どの程度の直葬ならば“儀式”として認められるか?」
●仏式葬儀の是非(問題点)
——現在の葬儀の主流(読者の多くも体験する)でもある仏式葬儀について、そのおかしさや問題点をさらに掘り下げる。
●墓の問題
——葬儀と切り離せない墓のテーマについても現状の問題点と、今後の姿を論じる。
●自然葬のあり方
——島田さんがわたし宛の書簡に「海洋散骨は、海に捨てているだけではないかと思った」と書いておられたのが印象的でした。この問題について論を深めながら、未来志向の葬儀のあり方とはどんなものかを探る。
●「0葬」の是非
——ここは二人の見解が対立する部分であり、意見をぶつけ合う。
●家族を求めない社会←→隣人の時代
——「葬式を有用とするか、無用とするか」は人生観、あるいは社会観と一体となったテーマでもある。島田さんの「二度死んだ」事実などを踏まえながら、二人の人生観・社会観を語り合う。
●無縁社会をどう捉えるか?
——島田さんは「無縁社会は豊か」と書いておられますが、わたしはこれに強く反発しています。このテーマについて議論を深めてきます。
●死者の「たましい」、遺族の「こころ」
——島田さん宛の書簡に、わたしは「死者のたましいと、遺族のこころについての視点が抜け落ちている」と書きました。あわせて「島田さんは唯物論者なのでしょうか」と問いかけました。対談の中で、島田氏からこの問いへの答えを聞く。
●「生きている人が死んでいる人に縛られている?」
——これは島田さんからの問題提起です。わたしは島田さん宛の書簡で「生きている人間は死者に支えられている」と反発されていますが、具体的にどのようなかたちで支えられているのかなど、テーマを深めました。
●「葬送の自由をすすめる会」会長だった島田さんへ、どういうスタンスでこの会長職を引き受けられたのか?
——わたしから島田さんへの問いです。
●互いの著作(『葬式は、要らない』『葬式は必要!』)(『0葬』『永遠葬』)をそれぞれどう読んだか?
●大きな変化のさなかにある葬儀に必要な新しい意味とは?
——議論の一致点を探す。島田さんは、これからの時代の葬儀に新しい意味があるとすれば、どのようなものだと考えているのか?
また、下記のテーマについても大いに語り合いました。
●贅沢葬儀の代表(?)としての「社葬」をどう考えるか?
●自分(島田裕巳&一条真也)は自らの葬儀をどうするか? どういう弔い方をされたいか?
以上のようなテーマについて、島田さんとわたしは数時間にわたって語り合いました。島田さんとは意見の一致も多々あり、まことに有意義な時間を過ごすことができました。弁証法のごとく、「正」と「反」がぶつかって「合」が生まれたような気がします。
葬儀をめぐってのガチンコ対談風景
島田裕巳氏と一条真也
最近、原発や安保の問題にしろ、意見の違う者同士が対話しても相手の話を聞かずに一方的に自説を押し付けるだけのケースが目立ちます。ひどい場合は、相手に話をさせないように言論封殺するケースもあります。そんな大人たちの姿を子どもたちが見たら、どう思うでしょうか。間違いなく、彼らの未来に悪影響しか与えないはずです。わたしたちは、お互いに相手の話をきちんと静聴し、自分の考えもしっかりと述べました。
当事者のわたしが言うのも何ですが、理想的な議論が実現したのではないかと思います。けっして馴れ合いではなく、ときには火花を散らしながら、ある目的地に向かっていく。今後の日本人の葬送儀礼について、じつに意義深い対談となったように思います。いま大きな話題になっている「ポケモンGO」の話題も出ましたが、わたしは「冠婚葬祭とはリアルそのものです」と述べました。島田さんからは「もちろん、葬式は必要ですよ」「結婚式はもっと必要ですよ」との言葉も聞くことができて、大満足です。対談を終えて、わたしは「葬儀は人類の存在基盤である」という持論が間違っていないことを再確認しました。対談本は10月に刊行予定ですので、Tonyさんにも送らせていただきますね。
さて、Tonyさんは最近、映画を御覧になられましたか。わたしは主な夏休み映画はすべて観ましたが、とくに強いインパクトを受けたのは日本映画「シン・ゴジラ」でした。島田さんとの対談の2日後に「コレド日本橋」で鑑賞したのですが、大変な問題作でした。
「エヴァンゲリオン」シリーズなどの庵野秀明が総監督を務め、日本発のゴジラとしては初めてフルCGで作られた特撮作品です。現代日本に出現したゴジラが、戦車などからの攻撃をものともせずに暴れる姿を活写しています。
ゴジラの動きが能や狂言のようでした。それもそのはず、ゴジラ役は狂言師の野村萬斎が演じたそうです。人の動きをモーションキャプチャーでフルCGゴジラに反映しているとか。そのため、怪獣の動きにこれまでに見たことのないような様式美が表現されていました。まさに、まったく新しいゴジラ映画としての「新(シン)ゴジラ」でした。
映画「シン・ゴジラ」ポスター
それから、その動きの美しいゴジラが強過ぎる。自衛隊の攻撃にもまったくダメージを受けない強靭さは、まさに「完全なる生物」であり、神の化身としての「神(シン)ゴジラ」でした。そのゴジラをとにかく駆除しようとする人間側の理論にも違和感を覚えました。拙著『慈経 自由訳』(三五館)には、ブッダによる「慈しみ」の心が述べられています。「ブッダの慈しみは、愛をも超える」と言った人がいましたが、仏教における「慈」の心は人間のみならず、あらゆる生きとし生けるものへと注がれます。「どうして、ゴジラと人間は共生できないのか」と思いました。
それにしても、現代日本に実際に未知の巨大生物が出現したら、どういった事態が現実に起きるのかということが超リアルに描かれていました。その意味で、この映画は「真(シン)ゴジラ」でありました。「これでもか」というほど、政権とか自民党とか官庁などを揶揄していますが、ちょっと「やりすぎ」といった感じで、鼻につきました。でも、怪獣映画でありながら政治映画にもしてしまった制作側の執念には脱帽です。この作品は一種の「怪作」と呼べるのではないでしょうか。それと、どうしても東京に直下型地震が起こったときのパニックぶりを連想してしまいましたね。
ネットのレビューなどを見ると、「エヴァ的なゴジラ映画」とか「エヴァのファンにはたまらない」などと絶賛されているようですね。でも、わたしは「エヴァンゲリオン」については、まったく知りません。観たこともありません。「ガンダム」すら知りません。怪獣は好きですが、ロボットには興味がないのです。「マジンガーZ」なら知っています。(笑)
1954年に製作された映画「ゴジラ」第1作は怪獣映画の最高傑作などというより、世界の怪奇映画史に残る最も陰鬱で怖い映画だったと思います。それは、その後に作られた一連の「ゴジラ」シリーズや無数の怪獣映画などとは比較にもならない、人間の深層心理に訴える名作でした。ある心理学者によれば、原初の人類を一番悩ませていたのは、飢えでも戦争でもなく、「悪夢」だったそうです。「ゴジラ」の暗い画面と黒く巨大な怪獣は、まさに「悪夢」を造型化したものだったのです。そして、「シン・ゴジラ」のゴジラは、原子力発電所のメタファーでもありました。ゴジラが動くたびに東京が放射能汚染されていくのです。まさに移動するメルトダウン! やはり、3・11後のゴジラはハンパなく怖いです。地震・津波・原発事故という「東日本大震災」の三大想定外をすべて体現した、途方もないゴジラでした。Tonyさんは、もう「シン・ゴジラ」を観られましたか? まだなら、ぜひ御覧下さい。超おススメです!それでは、次の満月まで。オルボワール!
2016年8月18日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
残暑お見舞い申し上げます。また、腰痛のお見舞いも申し上げます。くれぐれも御身お大事になさってください。まだまだこれからの人ですから、Shinさんは。
今日は8月も下旬、今日は21日です。8月の終わりは、夏休みが終わる感じで、いつも「仕残した宿題意識」が繰り返し頭を擡げ、無常や憂愁や自責感を普段以上に感じます。
それはさておき、島田裕己さんとの対談、有意義だったようで、たいへんよかったですね。対極的な異論のある人と心置きなく論議し尽くせるなんて、「自由民主主義」の極意・極地・極道ですよ。すばらしい! お二人に心から敬意を表します。本が出来るのを楽しみにしています。
さて、わたしは、8月3日から9日まで丸1週間、内モンゴルに行っておりました。はじめてのモンゴル体験です。主に、オーラ(阿古拉)、ハイラル(海拉)、フルンボイル大草原、ロシアとの国境の満州里などを回りました。この旅は、18年続いたNPO法人東京自由大学の第1期最後の第18回夏合宿内モンゴル研修の旅として行ないました。
ご存知のように、1998年に設立したNPO法人東京自由大学は、本年3月から、東京の自由ヶ丘に移転して、新たな体制に入っていますが、旧体制(第1期)最後の夏合宿が今回の内モンゴルの旅だったのです。
今回の内モンゴル研修でわたしが見出した問いは、次の5つです。
1. 子安貝問題
なぜ、海のないモンゴルシャーマンが、シャーマン衣装に「子安貝」をたくさんたくさん身に着けているのかという問い。
ハイラルのフルンボイル民族博物館でもっとも衝撃を受けた展示が、子安貝、でした。女陰の形態を持つ子安貝は、安産や豊饒の象徴です。それは、生命の容れ物として母胎のメタファーとなります。その子安貝が信じがたいほど大量に内モンゴルのシャーマンの衣装に縫い付けられていたのです。なぜ海のないモンゴルシャーマンがシャーマン衣装に「子安貝」をこれほどたくさん身に着けるのでしょうか。その量とデザインの美しさと見事さに圧倒されました。
シャーマンの衣装の子安貝
シャーマン衣装の子安貝と金属銅鑼と鈴
これには心底驚きましたね。これほど見事な子安貝集積回路は初めて実見しました。凄すぎました。この「子安貝」はそれを見る者にも着る者にも確実に「身心変容」を引き起こします。胴体下部に金属器でジャラジャラと音の鳴る楽器が付いているは、その「身心変容」を倍加し促進します。このデザインセンスと衣装の装着技法には脱帽です。
「子安貝」は、神霊の受信機であり、霊的アンテナです。その「子安貝」が神霊音波をキャッチし受信します。このシャーマン衣装を見ていると、その身心変容技法の意味と作用がよくわかってきます。
中国古代の殷の時代の遺跡から大量の子安貝が出土しています。そこには、青銅器や玉石も大量に含まれていますが、子安貝は単なる貨幣や装飾以上の呪術性を帯びていました。甲骨文を遺した殷では、卜官による天帝に神意を質す祭祀が行われていたので、その時代の祭祀に青銅器や玉器のみならず、子安貝も用いられていたことは間違いないことでしょう。
2. 鳴鏑問題
2つ目は、「鳴鏑」問題で、それが、「比叡山の神のルーツ」とつながることです。
「鳴(なり)鏑(かぶら)」という語は、『古事記』上巻に3度出てきます。スサノヲノミコトのいる根の堅州国に到ったオホナムヂ(大国主神)に、スサノヲが「鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき」とあるのが、その初出です。スサノヲが「鳴鏑」の矢を放ってオホナムヂにその矢を取って来くるように命じ、オホナムヂが矢を採りに野に入った時、火を放って焼き殺そうとします。すると鼠がやってきて、「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言ったので、その地面を踏みしめると、そこの土が落ちて穴倉のようになったので、そこに入って、野火が通り過ぎるのを待っていると、「鼠、鳴鏑を咋ひ持ちて、出で来て奉りき」、つまり、鼠がその「鳴鏑」を口に銜えて持って来て、オホナムヂに捧げ、助けたというのです。
『古事記』上巻での3つ目の「鳴鏑」の表記は、スサノヲが大山津見神の娘の神大市比売を娶って生んだ「大年神」の神裔として出てきます。比叡山と関連して、特に重要なのが、「鳴鏑を用(も)つ神ぞ」と、比叡山の神を名指しで説明している点です。すなわち、「大山咋(おほやまくひ)神(のかみ)、亦の名は山末之(やますゑの)大主(おほぬしの)神(かみ)。この神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」という一節です。
この、比叡山に鎮座する「大山咋神」は、別名「山末之大主神」と言い、「近江」の「日枝の山」(比叡山の古事記表記)に鎮座すると同時に、「葛野の松尾」、すなわち松尾大社に鎮座し、「鳴鏑」を持っている「神」である、と言っているのですよ。
その「鳴鏑」を、ハイラルのフルンボイル民族博物館の展示物の中に見出したのです。
中国内モンゴル・ハイラルのフルンボイル民族博物館に
展示された子安貝(左)と海螺(中)と鳴鏑(右)
この「鳴鏑」は、通常、矢の先端に付けて、弓で射て音を鳴らす道具です。木や鹿角や牛角や青銅などで「蕪」の形に作り、中を空洞にし、周りに四個ほどの小さな孔を穿ちます。この「鳴鏑」は弓で射られて飛んでいく際に自然にその孔から空気が入いって高い音が鳴ります。
中国北部を遊動していた匈奴は「鳴鏑」を用いていました。東北アジア一帯でも「鳴鏑」は用いられました。古代日本に、その匈奴〜鮮卑系の「鳴鏑」文化が入ってきていたことは間違いありません。それを、スサノヲ〜オホナムヂ〜オホトシ〜オホヤマグヒという「出雲系」の神々が担っているのです。そして、秦氏が斎いた松尾の神すなわち「大山咋神」が「鳴鏑」を持つ神であると『古事記』は明言しているのです。
いやあ〜、まいりましたね〜。「鳴鏑」と「子安貝」を通して、古代日本と古代中国、そして古代内モンゴルとの密接なつながりが見えてきます。その「鳴鏑」問題をさらに追及したいと思います。
3. 馬上の身心変容
3つ目は、モンゴル大草原と馬と身体文化の問題です。モンゴルと言えば、わたしたちの多くは、フルンボイル大草原をイメージします。そのフルンボイル大草原の丘の上に自然崇拝の拝所である「オボー」がありました。そこでまずその地の自然崇拝の聖所・拝所である「オボー」に拝礼し、念入りに石笛・横笛・法螺貝の吾が三種の神器を奉奏しました。
その「オボー」では馬がのんびり草を食んでいましたが、まったくその音に微塵たりとも驚かなかったのにはこちらが驚きましたね。さすがに雄大な大草原の馬はのんびりしてるというか、おおらかというか、肝っ玉が太いというか。
この草原を移動する者は馬・羊・人です。この旅でわたしたちは、「人間が羊を放牧するのではなく、人間が羊に放牧される」という遊牧民の心と霊性をしかと学びました。
その「放牧される心」を知るためにまず馬に乗りました。しかし、慣れないわたしには一人で馬に乗るだけでも大変でした。もちろん手綱さばきも容易ではありません。そこからギャロップや疾走に持ち込み、行き先を自在にコントロールするのは、自動車教習よりも時間と経験を必要とするでしょう。なぜなら車はメカニズムですが、馬はバイタリズムですから。その「心」を理解し通い合わせる必要があるからです。単なるメカニズムではない、バイタルでエモーショナルな律動と行為の意味と特質を深く内在的に理解し、寄り添い、最接近することでしかコントールはできないのです。そこでは、自分が馬をコントロールするのか、馬が自分をコントロールし人を「調教」するのか、そのどちらとも言えます。作用と反作用。その「間主体性」。主客未分の絶対矛盾的自己他者同一。
4. マンモス問題
4つ目は、マンモス問題です。わたしたちは、蒙古民俗村の巴尓虎を訪ね、そこで昼食を摂りながら、演舞・演奏を見学し、その後、ジャライノール地区に移動して、マンモス(猛馬象)公園に入り、何十頭ものマンモスの群れの中に参入しました。じつに興奮しまくりましたね。
その満州里のマンモス公園を遊動し法螺貝を吹き鳴らしながら、わたしはこの巨大なマンモスに人はいかにして近づくことができたのかを問いかけていました。恐れずにマンモスの腹の下に潜り込むその心は? マンモスに近づくためのその技法は? などと。
ブルブル震えることなしにマンモスに近づくことができなければ、マンモスの急所を突いて射止めることはできません。マンモスはたいへん巨大です。人間の10倍以上あります。その巨大なサイズに人間サイズでどう立ち向かうことができるのでしょうか? マンモスに、旧石器人や新石器人が彼らの手にした石の武器でどのように立ち向かっていったのでしょうか? その石器人の「身心変容」と「身心変容技法」を考えさせられたのです。
こうして、最後の問いに行き着きました。
5. サイズ問題
5つ目は、サイズ、です。残念ながら、この巨大なマンモス種は滅びました。なぜでしょうか? 気象異常による食料の減少が原因でしょうか? それとも人間による乱獲のためでしょうか? どちらにしても、問題の根幹は、サイズだったのではないでしょうか? 恐竜もそうですが、そのサイズは大きすぎたのです。大きすぎることが何をもたらすのか? 荒廃と絶滅だと思います。
それは、国にも民族にも人類という種にも言えます。中華人民共和国もロシア共和国も大きすぎます。それは、マンモスや恐竜以上です。内モンゴル自治区だけでも、日本の国土の5〜6倍はあるといいます。いかに中華人民共和国が大きいか想像できますか。想像はできても、実感はできません。わたしたちは、ロシアとの「国境大通り」を260キロ走破し、右手にロシアの街と山河を望みながら、ひたすら大草原地帯を走り続けました。この巨大なサイズの「国境」をどう考えればよいのでしょうか?
自然が生み出した川や山が自然の連続線とも切断線ともなっていますが、人間はそれを踏まえつつも人工的な「国境」を定めました。そしてやがて「万里の長城」を築いたり、国境警備隊を置いたりしながら、自国防衛網を確かなものとし始めます。そんな「国境」がなぜ生まれたのでしょうか? 自然界には生物種の棲み分けや行動や食物連鎖によるボーダーはあり、動植物に北限種も南限種もありますが、「国境」はありません。人間だけに「国境」があります。
この人間サイズと自然サイズと国サイズの関係性。そのバランスが崩れるとヒトも間違いなく滅びるでしょう。その滅びの道に近づいているのかもしれません。そんなことを、中ロ国境、内モンゴルの「国境」線上で考え続けたのでした。
京都に住んでいると、この歩行可能距離の街のサイズというものをとても程よく感じ、しみじみよくできていると思います。たとえば、午後4時近くから比叡山に登って山頂付近でバク転をして夜7時には降りてくることができるのですから。わたしの住む東山山麓の一乗寺から対極の西山山麓の嵐山の辺りまで多分2〜3時間も歩けば行き着けるでしょうから。
また、天台千日回峰行者は最大一日80キロ近く京都大回りをするといわれますが、それは、比叡山を越えて日帰りで京都を回ることが可能な身体サイズであるということです。この「サイズ」が、平安京を1000年の都にした最大の理由ではないでしょうか?
大きすぎても小さすぎてもダメなのです。創造力の発現や適度な新陳代謝やエネルギーの適度な爆発やカオスとコスモスの相互作用が起こらないからです。単純化だけでは続かないのです。多様性とカオスや新奇性が必要なのです。そしてそれを受け入れ接ぎ木する伝統が必要なのです。そんな「伝統」がどのようにしてできたのでしょうか? その「伝統」を創り出し支える「サイズ」というものがあるのです。
そんな「サイズ」問題を深刻に考えるきっかけとなったのが今夏の内モンゴルの旅でした。ハイラル空港には、「富強・自由・愛国・民主・平等・敬業・文明・公正・誠信・和諧・法治・友善」の理念が並べられていました。これはもちろん現代の「大中国」の方針であり、政治スローガンです。そしてそれに並んで「民族文化」愛護が提唱されています。しかしそれはどこまで実現しているでしょうか?
それはともかく、このモンゴルを、戦前に今西錦司たちが大走破していました。19944年の春のことでした。日本帝国は大東亜省の研究機関として蒙古聯合自治政府の首都である張家口に「西北研究所」を設立します。そして、生態学と民族学の調査を主業務としたその機関の所長を今西錦司、次長を民族学者の石田英一郎が務めます。日本の生態学と民族学はこの内蒙古探検とフィールドワークから発展したのです。特に、今西錦司を隊長とし、梅棹忠夫などが参加した大興安嶺踏破は、その後の生態学や民族学の発展に測り知れない機会と経験になりました。今西進化論もこの内蒙古体験をてこにしているのです。
それ以前には、大正10年(1921)の第一次大本事件後の出口王仁三郎が、植芝盛平らを用心棒に、1924年(大正13年)にモンゴルに潜入しています。出口王仁三郎は自らダライラマともスサノヲともジンギスカンとも源日出夫とも名乗ったといわれていますが、通遼で捕虜とされて殺されそうになりました。間一髪で助かりますが、それを「パインタラの法難」と大本では位置づけています。
わたしは来月9月に拙訳『超訳 古事記』(ミシマ社、2009年)を元にした東京ノーヴィレパートリーシアターの「古事記〜天と地といのちの架け橋」(演出:レオニード・アニシモフ)の上演のためにロシアのモスクワに行きますが、中国とロシア両国のサイズの「大矛盾」を感じました。ちなみにロシアの「大矛盾」とは、
① キリスト教ヨーロッパとしてのロシア
② アニミズム・シャーマニズム・トーテミズムアジアとしてのロシア
③ 中露国境・朝鮮国境・日本国境(日本海・樺太)を境界線に持つ地政学的複雑系のロシア
④ イスラム圏・カザフスタン共和国と接続し境を接する中東ロシア
という、とてつもなく巨大なサイズの複雑系ロシアの「大矛盾」です。これを混乱なく統治できるのは奇跡のようなものではないでしょうか? その巨大複雑系のロシアと中国がこれほどの「国境」を共有しているのです。これまた凄いことですね。この「国境」は。日本にいてはこんな「国境」感覚は到底わかりません。京都など、自然の「国境(山城の国と摂津の国と丹波の国とかとの)」を境界とする世界にいてはとってもわからん複雑系の巨大さです。
ところで、わたしは先日、京都烏丸四条のCOCONの京都シネマで、韓国のチン・モヨン監督のドキュメンタリー作品「あなた、その川を渡らないで」(2014年)を観ました。モスクワ映画祭やロサンジェルス映画祭で賞をもらった評判作です。韓国の田舎の小さな村で結婚76年目を迎えた98歳の男性と89歳の女性の日常生活が描かれます。互いにいたずらをし合い、かばい合い、讃え、思いやる。いつもおそろいの韓服を着て、手をつないで、出かける。ドラマチックな出来事はありませんが、野に花が咲きほころぶような日常の生命的な交歓が淡々と描かれます。「戦争と平和」というものがあるとしたら、その安心・安らぎと安全に満ち満ちた世界は平和そのものだといえるでしょう。
それを観た直後にもう1本、新京極のMOVIXで、庵野秀明総監督の劇映画「シン・ゴジラ」を観ました。「シン・ゴジラ」を観る前に新京極を激しい雷雨が襲いかかりました。
わたしは「シン・ゴジラ」を観て、「新世紀エヴァンゲリオン」を作った庵野秀明監督らしい大変面白くモノモノシイ作品だと思いました。底知れない破壊衝動と再建衝動の連鎖と接続。破壊は「世直り」の衝動でもあり、「世直し」への動機です。わたしはこの「シン・ゴジラ」を、「世直り・世直し世界観」満載の「新=神ゴジラ」と観ました。放射性物質を取り込んで「完全生物」に進化した「新生=神性ゴジラ」。作中で、「荒ぶる神」とも呼ばれるその「シン・ゴジラ」の「シン」には、Shinさんも指摘されているように、「新」と「神」のみならず、「親」や「信」や「真」も含意されていると感じました。
現代日米リアルポリティックスを想起させるモノモノシイ仕掛けの中にたいへんシンプルな「世直り〜世直し願望」が読み取れました。2000年に起きた「セカンド・インパクト」後を生きる「新世紀エヴァンゲリオン」とも接続点を持つ「シン・ゴジラ」。その無慈悲で無差別な徹底破壊の様相の中に、東日本大震災の津波と放射能汚染を読み取るのは自然です。そしてそれに立ち向かうのは人間です。人間の意志と世界観と政策と実行力。「シン・ゴジラ」がもたらす破壊と福音の両極周波数をどう聴き取るのでしょうか?
2016年 鎌田東二拝
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