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シンとトニーのムーンサルトレター 第134信

 

 

 第134信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、今日は久々にお会いできて嬉しかったです。それもTonyさんの新しい職場である上智大学で。7月20日、わたしは上智大学グリーフケア研究所のお招きで、「葬儀」と「グリーフケア」についての連続講義を行わせていただいたのです。

 しかし、ここで時計を針を巻き戻して7月6日の話を先にしたいと思います。その日、わたしは横浜でトークショーに出演しました。パシフィコ横浜で開催された「フューネラルビジネスフェア2016」で、仏教界きっての論客で知られる村山博雅老師と「葬送儀礼の力を問う〜葬儀の本質とは」をテーマに対談させていただいたのです。村山老師は、「萩の寺」として有名な曹洞宗の東光院(豊中市南桜塚)の副住職であり、全日本仏教青年会の第一八代理事長として活躍されました。「第1回世界仏教優秀指導者賞2014」も受賞されている日本仏教のニューリーダーの1人です。

 本番前の打ち合わせから、村山老師とは多様なテーマでお話させていただきました。「無縁社会」や「葬式は、要らない」などの言葉が登場した背景には、日本仏教界の制度疲労にも一因があるように感じます。よく「葬式仏教」とか「先祖供養仏教」とか言われますが、日本の仏教が葬儀と先祖供養によって社会的機能を果たし、また一般庶民の宗教的欲求に応えてきたという歴史的事実を認めないわけにはいきません。

 対話の中では東日本大震災の話題も出ました。2011年の夏、東北の被災地は震災の犠牲者の「初盆」を迎えました。この「初盆」は、生き残った被災者の心のケアという側面から見ても非常に重要でした。通夜に始まって、告別式、初七日、四十九日・・・日本仏教における一連の死者儀礼の流れの中で、初盆は1つの大きな節目です。そして、年忌法要そのものが日本人の死生観に合ったグリーフケア文化となっています。

パシフィコ横浜での対談のようす

パシフィコ横浜での対談のようす日本仏教についての思いを述べました

日本仏教についての思いを述べました
 今後も仏式葬儀は時代の影響を受けて変化せざるを得ませんが、原点、すなわち「初期設定」を再確認した上で、時代に合わせた改善、いわば「アップデート」を心掛ける努力が必要ではないでしょうか。初期設定といえば、仏式葬儀は村山老師も属される曹洞宗によって基本的なスタイルが確立され発展してきました。それでは、アップデートとは何か。まさか、アマゾンのお坊さん便ではないとは思いますが・・・。

 そして13日にわたしはギックリ腰になり、数日間まったく動けませんでした。それでも19日には飛行機に乗って東京に向かいました。20日、朝からは冠婚葬祭文化振興財団の評議員会、全互協の中長期ビジョン・新セーフティネット研究会報告書説明会および理事会に参加しました。その後、いったんホテルに帰ってから、わたしは四谷の上智大学に向かいました。上智大学グリーフケア研究所の人材育成講座科目「グリーフケアと人間学」で連続講義を行うためです。

 上智大学グリーフケア研究所といえば、以前は髙木慶子先生が所長を務めておられました。髙木先生のご著書『悲しんでいい』はわが愛読書です。そして現在の所長は、宗教学者の島薗進先生です。島薗先生の所長就任は2013年4月1日のことですが、さらには、この4月からTonyさんが特任教授に就任されました。お二人との御縁から、わたしが講師として招かれた次第であります。

 最初は18時から「なぜ葬儀は必要か」と題する講義を行いました。会場は、上智大学四谷キャンパスの12号館201教室です、島薗所長の御挨拶の後、わたしを紹介していただきました。登壇したわたしは、まず「すべては1991年から始まった」という話をしました。現代日本の葬儀に関係する諸問題や日本人の死生観の源流をたどると、1991年という年が大きな節目であったと思います。

上智大学の正門前で

上智大学の正門前で特別講義のようす

特別講義のようす
 最近、往復書簡を交わした宗教学者の島田裕巳氏も1991年が日本人の葬儀を考える上でのエポックメーキングな年であると述べていましたが、わたしもまったく同意見です。まさにその年に島田氏の『戒名』(法蔵館)と拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)が刊行されました。ともに既存の葬式仏教に対して大きな問題を提起したことで話題となりました。その他にも「死」と「葬」と「宗教」をめぐって、さまざまな問題が起こりました。

 「死」においては、脳死問題をはじめ、安楽死、尊厳死、臨死体験と、人の死をめぐる議論がヒートアップしました。91年3月には作家立花隆氏のレポートによってNHKテレビで「臨死体験——人死ぬとき何をみるか」が連続放映され、すさまじい臨死体験ブームが巻き起こりました。また92年1月には、脳死臨調が「脳死は人の死」として臓器移植を認める最終答申を宮沢首相に提出し、さまざまな論議を呼んでいます。

 「葬」においては、海や山などへの散灰を社会的に認知させる「自然葬」運動によって、法務省が条件つきで「散灰」を認めました。91年2月に「葬送の自由をすすめる会」が発足しています。また、レーザー光線にスモークマシン、シンセサイザーなどを駆使した「ハイテク葬儀」も登場しました。散灰というローテク葬儀とショーアップされたハイテク葬儀は、まったく正反対のべクトル上にあり、この二つが同時期に話題となったことは非常に興味深いと思いました。

 「宗教」においては、91年1月にはオウム真理教が「救済元年」を宣言して、暴走をはじめした。2月には創価学会が「学会葬」を開始し、11月には日蓮正宗が創価学会およびSGIを破門しています。そして、12月には幸福の科学が東京ドームにおいて第1回「エル・カンターレ祭」を開催しています。その他、宜保愛子というスーパースターの出現による霊能ブーム、チャネリングやヒーリングなどの精神世界ブームも忘れることはできません。これらの「死」と「葬」と「宗教」にまつわる話題は連日マスコミでも取り上げられ、いずれも社会的に大きな関心を集めました。それにしても、これだけの現象がわずか1年の間に集中したのです。あらためて、人々の死生観を中心とした価値観が大きな地殻変動を起こしはじめたのだという実感が湧いてきます。

 それから、わたしは「0葬」について話しました。通夜も告別式も行わずに、遺体を火葬場に直行させ焼却する「直葬」をさらに進め、遺体を焼いた後、遺灰を持ち帰らず捨てるのが「0葬」です。「直葬」や「0葬」がいかに危険な思想を孕んでいるかを知らなければなりません。葬儀を行わずに遺体を焼却するという行為は「礼」すなわち「人間尊重」に最も反するものであり、ナチス・オウム・イスラム国の巨大な心の闇に通じています。

 葬儀によって、有限の存在である“人”は、無限の存在である“仏”となり、永遠の命を得ます。これが「成仏」です。葬儀とは、じつは「死」のセレモニーではなく、「不死」のセレモニーなのです。そう、人は永遠に生きるために葬儀を行うのです。「永遠」こそが葬儀の最大のコンセプトであり、わたしはそれを「0葬」に対抗する意味で「永遠葬」と名づけたのです。

 さらに、わたしは『唯葬論』(三五館)を上梓しました。同書のサブタイトルは「なぜ人間は死者を想うのか」です。わたしのこれまでの思索や活動の集大成となる本です。わたしは、人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。約7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化しました。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行いました。
 つまり「死」ではなく「葬」こそ、われわれの営為のおおもとなのです。

 葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。以上のようなお話をさせていただきました。

 10分間の休憩を挟んで次の講義を開始しました。テーマは「グリーフケアの時代」です。上智大学といえば、日本におけるカトリックの総本山ですが、わたしはブッダの話をしました。「釈尊」ことブッダは、「生老病死」を4つの苦悩としました。

 わたしは、人間にとっての最大の苦悩は、愛する人を亡くすことだと思っています。老病死の苦悩は、結局は自分自身の問題でしょう。でも、愛する者を失うことはそれらに勝る大きな苦しみではないでしょうか。配偶者を亡くした人は、立ち直るのに3年はかかると言われています。幼い子どもを亡くした人は10年かかるとされています。こんな苦しみが、この世に他にあるでしょうか。一般に「生老病死」のうち、「生」はもはや苦悩ではないと思われています。しかし、ブッダが本当に「生」の苦悩としたかったのは、誕生という「生まれること」ではなくて、愛する人を亡くして「生き残ること」ではなかったかと、わたしは思うのです。

 それでは、ブッダが苦悩と認定したものを、おまえごときが癒せるはずなどないではないかという声が聞こえてきそうです。たしかに、そうかもしれません。でも、日々、涙を流して悲しむ方々を見るうちに、「なんとか、この方たちの心を少しでも軽くすることはできないか」と思いました。

 わたしたちの人生とは喪失の連続であり、それによって多くの悲嘆が生まれます。大震災の被災者の方々は、いくつものものを喪失した、いわば多重喪失者です。家を失い、さまざまな財産を失い、仕事を失い、家族や友人を失った。しかし、数ある悲嘆の中でも、愛する人の喪失による悲嘆の大きさは特別です。グリーフケアとは、この大きな悲しみを少しでも小さくするためにあるのです。2010年6月、わが社では念願であったグリーフケア・サポートのための自助グループを立ち上げました。愛する人を亡くされた、ご遺族の方々のための会です。月光を慈悲のシンボルととらえ、「月あかりの会」という名前にしました。その「月あかりの会」で実際に取り組んできた事例を中心に報告しました。講義は島薗先生とのトーク、そして質疑応答でした。そして、21時10分に連続講義は終了しました。盛大な拍手を頂戴し、感激するとともに安堵しました。

Tonyさんと・・・・・・

Tonyさんと・・・・・・講義後の食事会のようす

講義後の食事会のようす
 講義の後、所長の島薗先生、特任教授の鎌田先生とともに、ポルトガル料理店「マヌエル カーサ デ ファド四ツ谷」で遅い夕食を取りました。上智大学総務局の萬崎英一主幹も御一緒でした。美味しい料理とワインをいただきながら、上智大学グリーフケア研究所の今後の在り方や活動についても意見交換させていただきました。上智大学は日本におけるカトリックの「最強・最大」の組織ですが、上智大学グリーフケア研究所もグリーフケアの「最強・最大」の組織となる予感がします。わたしが客員研究員を務める冠婚葬祭総合研究所とのコラボが実現すれば素晴らしいと思います。
 ということで、Tonyさん、次の満月まで、ごきげんよう!

2016年7月20日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさん、昨夜は大変充実した講義、まことにありがとうございました。また講義終了後のポルトガル料理店での会食と懇談も。料理も話もたいへん盛り上がりましたね。これからぜひ「兄弟仁義」第二楽章を始めて、ShinさんやShinさんたちのネットワークと上智大学グリーフケア研究所を結んで、日本最初の「死生学博物館」や「グリーフケア・フォーラム」を作り上げ、世直し・心直しを伴う新しい国作りを仕掛けていきましょう! 自由自在に、奔放無辺に、多様多彩に、多元多種に。くれぐれもよろしくお願いいたします。

 さて、わたしはこのムーンサルトレターを縄・那覇空港に向かう飛行機の中、上空1万メートルで書き始めました。JAL羽田10時55分発フライトで、沖縄・那覇空港に到着するのが13時半頃になると思います。実は、今日から、沖縄大学・南城市と久高島で「大重祭り」が行なわれるのです。大重潤一郎監督が亡くなって、明日で丸1年になります。大重さんは、2015年7月22日に亡くなり、那覇赤十字病院からサンレー豊崎の葬祭場に送られ、そこで何日かを過ごし、偲ぶ会(通夜式)とお別れ会(告別式)を執り行い、盟友・大重潤一郎との縁により、その司式をわたしが務めたのでした。

 あれから、1年。7月21日から24日までの4日間、「久高オデッセイ〜故大重潤一郎監督 追悼祭りin沖縄『風になった大重潤一郎と未来へ原点回帰する旅』 映画上映&トークセッション&LIVE&玉城・久高島ツアー」に参加するために沖縄に向かっているのです。

 と、ここまで書いて、丸2日が経ってしまった。今日は、7月23日。これから、久高島に向かう。今は、安座真港から高速船で久高島に渡る前、沖縄県南城市百名のペンション「涼風」にいて、出発前の短い時間にレターを書き継いでいます。

 7月21日は、まず、15時から、比嘉真人沖縄映像文化研究所代表と須藤義人沖縄大学准教授の司会進行で、沖縄大学のミニシアター(きちんとした立派な映画館です)で大重潤一郎監督作品『原郷ニライカナイ〜比嘉康雄の魂』(2001年、60分)の記録映画上映と、沖縄大学教室(ホール?)での『久高オデッセイ第一部 結章』(2006年、68分)上映とトークセッション「未来を生きる君たちへ〜大重潤一郎が伝えたかったこと」を行ないました。

 改めて、沖縄を代表するカメラマンであり民俗学者の比嘉康雄さんの遺言を記録した映画『原郷ニライカナイ〜比嘉康雄の魂』を観て、この時、亡くなる3週間前の比嘉康雄さんから名指しでダイレクトに大重潤一郎さんに、「大重さん、俺の遺言を撮ってくれ」というオファーがなければ「久高オデッセイ」三部作も生まれていなかったのだということを思い返しました。比嘉康雄さんはなぜ人生の最期に鹿児島県鹿児島市天保山生まれの大重潤一郎に遺言を託したのでしょうか? 今もって、謎です。

 しかし、その比嘉康雄さんの遺言は大重さんの心を打ち破り、魂まで届き、大重さんの体を久高島まで運ばせ、そこで濃密な12年間を過ごさせることになったのですから、遺言の力は絶大なものがあったというほかありません。大重さんは比嘉さんの遺言に触れることがなかったらまったく違う人生を歩んでいたでしょう。同時にまた大重さんと関わったわたしもこれほど密に久高島に関わることにならなかったことでしょう。「縁」というものは、本当に不思議なものだとつくづく感じます。

 ちょうどその頃、大重さんは、福井県三方市に新設される縄文博物館の常設展示用の映像「縄文」を最終編集する段階でした。夜を徹してでも納期までに作品を収めなければならない、そんなせっぱつまった時に、比嘉康雄さんからダイレクトコールがあったのです。何は差し置いてもそれに向き合わねばならない。大重さんは、比嘉さんからの要請を真正面から受けとめました。

 実は、大重さんがその電話を受けた翌日に、わたしは芦屋で大重潤一郎と精神科医の加藤清先生に会って会食したのでした。大重さんは、大変興奮して、比嘉さんからの電話のことを熱く語ってくれ、翌日、スタッフには行き先も何も言わずに沖縄に向かったのでした。そして比嘉さんと一緒に久高島に渡り、比嘉さんの自宅で「遺言」を聴き取ったのです。知られているように、久高島は尚氏王朝時代から「神の島」として尊崇されてきた特別の島です。比嘉さんはその久高島のことを研究誌記録し、亡くなる直前に久高島の本を出しました。『日本人の魂の原郷 沖縄久高島』(集英社新書、2000年)です。

 死を目前にした比嘉康雄さんは、インタビュアーの美学者・梅原賢一郎さんと大重さんのカメラの前で思いのたけを語りました。その「遺言」は大重さんの心を打ち抜き、魂に届き、終には大重の体を久高島まで運ばせ、そこで死ぬまでの濃密な12年間を過ごさせることになったのですから、この比嘉康雄さんからの1本の「いのちの電話」と「遺言」の力は絶大なものがありました。大重さんは比嘉さんの「遺言」に触れることがなかったらまったく違う晩年を過ごすことになったでしょう。同時にまた、盟友大重とタッグを組んで歩いてきたわたしの人生も違ったものになっていたことでしょう。「縁」というものは、つくづく不思議なものであると思います。

 2006年に完成した「久高オデッセイ第一部 結章」は、大重潤一郎さんの一人息子の大重生さんと須藤義人さんが助監督となって懸命に支え、完成にこぎつけましたが、しかし、残念ながら、そこではまだ大重流のいのちといぶきの感覚が全面展開されるというところまで行き着きませんでした。2004年10月に脳内出血で倒れて半身不随になった大重さんにとって、その後遺症の痛みやリハビリや生活形態の激変で、実際のところ、映画どころではなかったのです。倒れた直後、2004年の末の段階では、映画を完成させることができるかどうか、まったく不明でした。

 それを、大きな宗教学関係の国際学会である国際宗教学宗教史学会で初上映とシンポジウムをやることが決まっているから、そこから助成金を得ているからと、励まし続け、ニンジンを目の前にぶら下げて鞭打つように第一部を完成させました。その第一部にはわたしは「監修」として名を載せていますが、実質的に、第一部の「製作」を担当することになったと思っています。これが、「久高オデッセイ」の始まりの背景と経緯でした。

 しかしながら、大重節の全面展開とまでいかない未完成に見えた「第一部 結章」が大変貴重で多様な意味と価値を持っていると見えてきたのは、続く「第二部 生章」が出来、遺作「第三部 風章」が完成してからのことです。三つ揃いして初めて、第一部の価値(真価)が見えてきた、わかってきたのでした。そこには、始まりの時とモノに宿る豊饒と、いい意味での混沌とダイナミズムがあります。多様・多岐・多彩・多声が。

 とまれ、いずれにしても、比嘉康雄さんによって吹き出された「風」によって織られた「縁」は、「結」ばれて「第一部 結(ゆい)章」ができあがったのです。そして2009年に、「久高オデッセイ第二部 生章」が完成しました。

 その冒頭と最後、大重さんは自分の声で次のようなナレーションを入れています。

  岬の突端に立って わたしは見た
  いのちあるもののすがたを
  いのちあるもののかたちを
  いのちあるものの輝きを
  いのちあるもののつながりを
  わたしは 視た!

 病気による激しい痛みの中で、何度も繰り返しもう死んでしまいたいと思った大重さんは、久高島に渡り、「ニライカナイ」と呼ばれる神々や先祖たちの住む他界のある東の沖の方から差し昇ってくる朝日を見ることで自死を思いとどまり、生きる活力を得たのです。その生死の境を彷徨いながら生の旅を続ける苦闘が、イザイホーの祭りで最後の神女(カミンチュ)になった3人の女性の退任の儀式「フバワク」と共に「久高オデッセイ 第二部 生章」に描き出されています。そのシーンも、心に染みます。残ります。

 こうして、2011年3月11日に起こった東日本大震災をもう一つの機縁として、大重さんの遺作となり最期の作品となった「久高オデッセイ第三部 風章」が昨年、2015年6月に完成し、6月22日に久高島で初上映をしたのでした。そしてそこに、これまで1度もなかった反応がありました。たくさんの島のオバアたちがその映画を観に来てくれて、大重さんへの感謝を口にしてくれたのでした。それまでは大重さんはただの酔っ払い。フーテンのシゲさんに過ぎなかったのです。

 あの大酒のみで、いつも大声でわめき散らしている豪放磊落な男が、こんな繊細微妙で島の心に寄り添った映画を撮ることができたのか? オバアたちの驚きと感謝は尋常なものではありませんでした。それまでのマイナス評価はうなぎのぼりで赤丸上昇し、満塁決勝ホームランを大重潤一郎は放ったのでした。彼の人生の最期の最後に。それが彼の遺した最大の「遺言」であり「贈与」だったと思います。第一部、第二部、第三部、それらが三つ揃いして初めて見えてくる12年の時の厚みと歩み。その一つ一つのかけがえのない出来事のいのち。

 今回の「大重祭り」に参加した映画「縄文」(2000年製作)の主役を務めた俳優でありダンサーの天人(あまんと)JUNは、大重さんとの最後の会話をこう明かしてくれました。「あの世に行って閻魔大王に会って『この世はどんなところだったか?』と訊かれたら、『そこには風が吹いていました』と答えるよ」と。

 大重さんにとって、この世とは「風が吹いているところ」だったのです。その「風」は、「夢」であり、「愛」であり、「希望」であり、「苦悩」であり「痛み」であったのかもしれません。その「風」に吹かれて、彼は生死の境を旅していったのでした。

 この魂の深いところにまで届く「風」の力。「久高オデッセイ」三部作を通して大重潤一郎さんは、この地球世界に「風通し」のよいよき「風」の「遺言」を遺してくれ、その「風の声」を聴き取ることのできる人びとを今も未来も促し、励まし続けています。この「大重祭り」はその「風の力」で来年度も続くようです。わたしもまた「風」に吹かれて来年も参加したいと思います。

 大重さんの中期の傑作「光りの島」(1995年製作)と遺作「久高オデッセイ第三部 風章」は、スピリチュアルケアの映画だと思います。生死の境を彷徨い、「魂の道草」の末に、母の「遺言」の真意といのちの帰趨に目覚める、とても深く切ないセルフ・スピリチュアルケアの映画だと思います。そしてそこに描かれたいのちのあらわれを、伊藤若冲であれば、うんうん、よしよし、と頷きながら、受け止め、受け入れ、讃えてくれるでしょう。人間中心主義から一番遠い「動植物王国」や「アニミズムの楽園」や「いのちの讃歌」を描き切った画家・伊藤若冲であれば。

 「大重祭り」は大重潤一郎をサポートし、惹かれ、慕う人たちによって、心の籠った催しとなったと思います。すばらしい4日間でした。久高島でのかけがえのない出逢いと経験を大重潤一郎は「風」となって媒介してくれています。今も、未来も。これからもずっと。これまで、大重さんを支えてくれた方々全員に心からの感謝を捧げます。本当にありがとうございました。

 大重さん、ほんとうに、よかったね!

 2016年7月24日 鎌田東二拝