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シンとトニーのムーンサルトレター 第140信

 

 

 第140信

鎌田東二ことTonyさんへ

 今年最初の満月が上りました。Tonyさん、あけましておめでとうございます。旧年中はお世話になりました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。お正月はいかがお過ごしになられましたか? 元旦の朝、わたしは例年通りに北九州の門司にある皇産霊神社を訪れ、初詣をしました。見事な初日の出も拝みました。神社では、「歳旦祭」の神事が行われました。最初にサンレーグループの佐久間進会長が、続いてわたしが玉串奉奠しました。多くの同志とともに、それぞれの家族の幸福と会社の繁栄を祈願しました。

皇産霊神社から見た初日の出

皇産霊神社から見た初日の出歳旦祭終了後に挨拶する一条真也

歳旦祭終了後に挨拶する一条真也
 神事の終了後は、佐久間会長が新年の挨拶をしました。会長は「今年も、みなさんとお会いできて嬉しいです。ただただ、天に感謝するばかりです」と述べ、さらに「聖徳太子が制定した「憲法十七条」には「和を以て貴しとなす」という言葉がありますが、この「和」こそは日本的精神の真髄です。このたび、聖徳太子の像をこの皇産霊神社に建立いたしましたと述べ、「和」の重要性や冠婚葬祭の素晴らしさについて語りました。

 その後、同神社の境内で瀬津隆彦神職により「聖徳太子像清祓祭」が執り行われました。佐久間]会長は、聖徳太子をこよなく尊敬していますが、このたび、ついに聖徳太子像を建立したのです。平成の寺子屋こと「天道館」に建立された孔子像および、皇産霊神社の境内にある七福神像、河童大明神像などと同じく、「北九州のミケランジェロ」と呼ばれる名工・三島平三郎氏が彫りました。「以和為貴」「日出和國之教主」と刻まれた碑とともに建てられた聖徳太子像は威厳のある顔つきです。じつは、この像を建立した後で、父から報告を受けたわたしは、「もしかして、旧1万円札に使われた聖徳太子像ではないだろうな?」と心配していました。あの聖徳太子はキヨソネが描いた西洋人の顔なので、ふさわしくないと思ったのです。しかし実物はいわゆる「孝養像」で、見事な和顔(笑=和来)で安心しました。

皇産霊神社境内に建立された聖徳太子像

皇産霊神社境内に建立された聖徳太子像聖徳太子像清祓祭のようす

聖徳太子像清祓祭のようす
 日本人の宗教感覚には、神道も仏教も儒教も入り込んでいます。よく、「日本教」などとも呼ばれますが、それを一種のハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないでしょう。Tonyさんも著書で述べられているように、聖徳太子は宗教における偉大な編集者でした。儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う・・・3つの宗教がそれぞれ平和分担するという「和」の宗教国家構想を説いたのです。

 この太子が行った宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭といったように、さまざまな形で開花していきました。その聖徳太子が行った最大の偉業は、604年に「憲法十七条」を発布したことでしょう。儒教精神に基づく冠位十二階を制定した翌年のことであり、この「憲法十七条」こそは太子の政治における基本原理を述べたものとなっています。

 普遍的人倫としての「和を以て貴しとなし」を説いた第一条以下、その多くは儒教思想に基づくが、三宝(仏法僧)を敬うことを説く第二条などは仏教思想です。さらには法家思想などの影響も見られ、非常に融和的で特定のイデオロギーにとらわれるところがありません。これが日本最初の憲法だったのです。そして、ここで説かれた「和」の精神が日本人の「こころ」の基本となりました。

 それから1月4日、小倉の松柏園ホテルでサンレーグループの新年祝賀式典が開催されました。恒例の社長訓示では、わたしは以下のような話をしました。おかげさまで、サンレーは昨年ようやく創立50周年を迎えましたが、日本には100年はおろか、300年を超える企業も多く、なんと605社も存在しています。室町・戦国時代に創業された500年以上の企業は39社です。さらには創業1000年を超える超長寿企業が7社もあり、世界最古の企業も日本に存在します。まさに「長寿企業大国ニッポン」と言えますが、その秘密の1つに「会社儀式」を重んじていることが挙げられます。

 今年は酉年ですが、鳥にも大きな鳥と小さな鳥がいます。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉が『史記』にあります。鴻鵠とは、色白く鶴に似て大なる鳥です。燕や雀のような小鳥には、そういう大きな鳥の考えていることはわからない。同様に、「礼経一致」の高い志を抱いている企業の理念を、同業他社にどうして理解ができるでしょうか?

 「伏すこと久しきものは、飛ぶこと必ず高し」という言葉が中国古典の『菜根譚』に出てきます。雌鳥が雄鶏に服従している様子を「雌伏」という。苦難の状況に身をまかせながら活躍できる機会の来るのをじっと待つときに使われます。そして、雄鶏が飛揚するように、勢い盛んに勇ましく活動する様が「雄飛」です。じつに20年もの雌伏の時間を経た我がサンレーは、いよいよ雄飛のときを迎えました。空より高く海より大きな使命を抱くサンレーの時代がいよいよ幕を開けようとしています。今年も、どうぞよろしくお願いいたします。そして、「忘るるな雌伏のときを 覚悟せよこれより雄飛 いざ羽ばたかん」という道歌を披露し、最後に「今年も、ミッショナリー・カンパニーの一員として、ともに大いなる使命を果たしましょう!」と締めくくりました。

 新年祝賀式典の後に開かれた新年祝賀会では、昨年11月18日の創立50周年記念祝賀会と同じく、わたしは北島三郎の「まつり」を熱唱しました。騎馬にまたがって登場し、イントロの部分で「年がら年じゅう、お祭り騒ぎ。初宮祝に七五三、成人式に結婚式、長寿祝に葬儀を経て法事法要・・・人生は祭りの連続でございます。冠婚葬祭のサンレーが50周年を迎えたよ。さらに正月来たとあっちゃ、めでたいなあ〜。今日は祭りだ! 祭りだ!」と言うと、早くも会場が熱狂の坩堝と化しました。よし、つかみはOK牧場!

サンレー新年祝賀式典

サンレー新年祝賀式典祝賀会で「まつり」を熱唱

祝賀会で「まつり」を熱唱
 わたしが「男は〜ま〜つ〜り〜を〜♪」と歌い始めると、大漁旗や巨大団扇を持った男たちが次々に出現しました。1番を歌い終わると、「祭」と書かれたブルーの法被を着た営業所長たちも登場しました。みんなで歌い、踊り、大いに盛り上がりました。最後の「これが日本の祭り〜だ〜よ〜♪」の歌詞を「これがサンレー北九州の祭り〜だ〜よ〜♪」に替えて歌い上げると、興奮が最高潮に達しました。

 そして1月8日。「成人の日」の前日、何かと話題の北九州市の成人式が開催されました。わたしは来賓として招待されており、会場のメディアドームに行ってきました。わたしは自分自身の成人式にも長女の成人式にも参列していないので、わが人生で初の成人式体験でした。実際に生の成人式に参加してみて気づいたこと、浮かんだアイデアなどが山のようにありました。わたしのような「儀式バカ一代」をレアな儀式に参加させると、もう骨を与えられた犬のようになります。とことん味わい、しゃぶり尽くしますぜ!(笑)

 行事は式典とアトラクションの二部構成。最初の式典は、「国歌斉唱」、市長の「主催者あいさつ」、市議会議長の「来賓あいさつ」がありました。予想していたのとはまったく違い、会場内の新成人たちはみな静聴していました。ここに来る前は「儀式を壊す者がいたら、俺が許さん!」と意気込んでいたのですが、杞憂でした。それから男女二人の新成人が、両親や周囲の人々への感謝の言葉を述べました。成人式に限らず、結婚式でも葬儀でも、通過儀礼というのはすべて「感謝」の心を表わす場なのだと再認識しました。

 さて、今年の北九州市の成人式は新たな取組みとしての「お祝いプロジェクト」が用意されていました。新成人の実行委員が主体となって、生まれ育ったまちに感謝の気持ちを込めて、現代的デザインのスタイリッシュなゴミ袋を使って「まちに感謝!おそうじ大作戦」を実施することになっていました。

北九州市成人式にて

北九州市成人式にて「おそうじ大作戦」の本部テント前で

「おそうじ大作戦」の本部テント前で
 じつは、このゴミ袋はすべてわが社が製作・提供しました。わが社が「おそうじ大作戦」に全面協力することになったことには理由があります。昨年1月、北九州市の成人式の様子がいくつかのテレビ局のワイドショーを通じて全国に流されました。金銀の羽織袴や花魁のようなド派手な着物姿で傍若無人に振る舞う新成人。北九州市といえば近年、暴力団の発砲事件が相次ぎ、市を挙げた安全・安心な町づくりの運動が実を結び、やっと沈静化して観光客も増えてきました。そんな中、暴れる新成人の姿が全国に発信されるのは、北九州市にとって大きなイメージダウンとなります。

 わが社は北九州市に本社を置いています。儀式サービスの提供を行う「礼業」であるわが社にとっても、北九州の下品な成人式は恥ずべきことだと思いました。そこで、わたしは地元の成人式の正常化へ全面的に協力したいと、式典が終わった直後に市の青少年課に申し上げたのです。あれから1年。市から要望があり、わが社は今年の成人式に合わせて独自にゴミ袋を製作し、5000枚を寄贈しました。新成人が式典後に会場周辺で取り組むプロジェクト「おそうじ大作戦」に協賛したのです。

 これには伏線がありました。しばらく前に「荒れる成人式」として全国に知られた沖縄では、新成人による「ごみ拾い」が始まったのを機に、成人式の様子が全国に発信されなくなりました。心ある新成人たちの勇気ある行動がすべてを良き方向に変えたのです。当時の清掃活動を主導した若者は、今わが社の沖縄事業部の正社員として働いています。

 今回、沖縄の成人式正常化の取り組みに学びたいという北九州市の要請がありました。それで、北九州市の職員の方々と多和田君との面談の機会を設けたりして、このプロジェクトに参加してきたのでした。今日は朝から雨天のために「おそうじ大作戦」は中止になるかと心配しましたが、式典の開始直前には雨が上がりました。

 式典終了後には、例年のように会場前の広場でヤンチャな新成人たちが騒ぎ始めました。わたしは「天下布礼」の幟を持って徘徊したのですが、服装は派手でも顔を見ると気の良さそうな若者ばかりでした。彼らもピンクのネクタイに白いマフラーをしたオッサンが幟を持ってウロウロしているので、ギョッとしたのではないでしょうか。本当はサングラスもしたかったのですが、ヤクザに間違えられる恐れがあるため控えました。(苦笑)

 奇抜な恰好をして目立ちたいというのは決して悪いことではありません。それは「バサラ」とか「カブキ」にも通じる意識で、文化を発展させる推進力ともなるものです。わたしは北九州のど派手な新成人たちを微笑ましく眺めながら、「これは仮装大会のようなもので、ハローウィンと同じだな」と思いました。かわいいもんです。

 一方で、心ある若者たちは「まちに感謝!おそうじ大作戦」スタッフの呼びかけに応えて、続々とゴミ袋を持って清掃を始めました。その姿を見たマスコミはど派手な連中から離れて、清掃する新成人の姿をカメラで追い始めました。わたしは、「これで北九州の成人式は変わる」という確信を持ちました。北九州市の成人のイメージが変わるまで、あきらめずに挑戦を続けます。沖縄から北九州へ・・・日本の成人式はサンレーが変えます!

 ということで、Tonyさん、今年もどうぞよろしくお願いいたします。1月27日に開催されるサンレーの新年賀詞交歓会、翌28日に北九州芸術劇場で上演される東京ノーヴィー・レパートリー・シアターの舞台「古事記〜天と地といのちの架け橋〜」、その上演後に行われるトークショーでご一緒できるのを楽しみにしています。

2017年1月12日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 あけましておめでとうございます。Shinさんと貴社のますますの発展を祈念申し上げます。

 さて、いよいよ平成29年、2017年が始まりました。今年はどんな年になるでしょう。それは誰もよくわからない未知なる近未来とはいえ、激動の年になることは間違いないでしょう。すべてが動く。激しく。激烈に。過激に。過酷に。過密に。過剰に。米国大統領も韓国大統領も含め。

 年末に1年ぶりで山形県鶴岡市に行きました。そこで、前山形県議会議員の草島進一さんたちと会って、現在の政治や福祉や社会情勢についての意見交換をし、羽黒山の出羽三山神社合祭殿で行なわれる修験道の神事「松例祭」を見学しました。

 この「松例祭」は、拙著『世阿弥—身心変容技法の思想』(青土社、2016年)にも書きましたが、修験道の「験較べ」の修行と競争が正月予祝儀礼と結びついた大変演劇的に構成された儀礼です。現在は「つつが虫」の虫送りの祭りとされていますが、古くは「ソランキ」を退治し鎮める祭りでした。

 「ソランキ」(乱鬼)とは、「悪鬼」ともされる古代の神です。中世末の教義書『拾塊集』に、慶雲年間(704年〜708年)に「ソランキ」(乱鬼)と呼ばれる「悪鬼」が陸奥と出羽の2ヶ国に悪疫をもたらし、多くの人が死去し、田畑も荒れ果てて困窮の極みに達したので、7歳の娘に憑依した羽黒権現が悪鬼の姿に模した大松明を焼くよう託宣し、それを実行すると、悪鬼は逃げて悪疫が鎮まったという由来譚が記されています。これが「松例祭」の始まりを告げる物語とされていますが、この「ソランキ」は、三面六臂の姿を持った阿修羅のような怪物で、神前に12人の験者を置いて悪鬼の像を大松明で焼くように託宣を下したことが「松例祭」の中心行事となっていきます。

 羽黒修験道の「秋の峰入り」は、籠りと回峰を組み合わせた「死と擬死再生」の修行ですが、「秋の峰入り」が修験者個人の「死と再生」をめざす「十界修行」体験やそれに基づく利他行行為を練磨するのに対して、「冬の峰入り」は羽黒山という修験共同体の「死と再生」ないし再組織化・強化を図るものと対照させることができます。「秋の峰入り」という8月の修行が個の霊力を高める修行であるのに対して、12月の「冬峰入り」は共同体ないし社会・国家の活力を高め、担保する修行です。

 大晦日から正月にかけて行われる松例祭は、羽黒修験道の最重要役職である2人の「松聖」=「先途」と「位上」の「験較べ」として組織化されています。2人の「松聖」は、修験の集落である羽黒町と手向地区の上と下の両区から選ばれ、2手に分かれて、9月24日から100日間の籠りの行を行ないます。100日間参籠した「位上」と「先途」のどちらが神意に適っているかを「験競べ」することが修行と祭りの中心となり、それを手向集落の若手修験者が補佐します。

 大晦日から元旦早朝にかけて、「松例祭」はほぼ12時間かけて行われます。年末年始の年明けの神事と行で、羽黒山の祭事と行のうちで最重要とされるものです。「松例祭」はまた、「歳夜祭」とも、「作祭り」とも呼ばれていて、新年行事であると同時に、農耕儀礼であることが見て取れます。

 明治以降は「つつが虫」と呼ばれる大松明を1333束の草と綱で作り、祈願し、魔よけの霊力を持つとされる綱を切ってそれを撒くと、それを待ち受けていた崇敬者がこれを競って激しく奪い合い、時には相撲を取って持ち主を決める「網まき」行事も行なわれるようになりました。綱は、最後に、手向の各家々に運ばれ納められ、あらたまの新年を迎えることとなります。

 現在、松例祭の行事は次のような次第で行われています。

   12月31日

   午後3時    綱まき 庭上
   午後3時    大祓式 本殿
   午後4時    除夜祭 本殿
   午後5時    神拝  補屋
   午後5時30分 若者腹ごしらえ賜酒 補屋
   午後6時    松例祭  本殿祭 引続き 蜂子神社祭
   午後6時    大松明まるき直し 庭上
   午後7時〜8時頃迄 各町若者綱さばき 補屋
   午後8時30分  綱延綱付若者、神前にて砂はき渡し祝い酒 補屋
   午後9時     験縄行事 引き続き 砂はき行事 庭上
   午後10時45分 験競 本殿
   午後11時頃   五番法螺と同時に大松明引 庭上
   1月1日
   午前0時     国分神事 庭上
   引続き 火の打替神事 庭上
   引続き 昇神再  補屋
   終りて にしの寿し 斎館
   午前3時     歳旦祭  本殿

 「松例祭」神事は、出羽三山合祭殿(羽黒神社本殿)内と鏡池の前の広場の庭上や補屋と呼ばれる小屋を祭場として行なわれます。「松例祭」は、出羽三山の開祖とされる蜂子皇子が民衆を苦しめていた「つつが虫」を火で退治したという故事にちなんだ祭礼と説明されています。

 18時には、合祭殿本殿で本殿祭と蜂子神社祭が行なわれ、同時に、上四町から出た位上方と下四町から出た先途方の両補屋で若者頭たちが大松明に懸けて引く4本の引き綱の中で自分の町内により良いものを得ようと互いに願い合い論争する「綱さばき」が行なわれます。

 そして、22時45分頃、本殿で「験競べ」が行なわれます。宮司以下、神前において左右に対面した位上方と先途方の各六人ずつの修験者が一人ずつ「烏飛び」を行なって、その験力を競い合うのです。それがすむと、月山大神の神使である真っ白の兎が登場して小机の前に座って、位上方と先途方の修験者が順番に出て兎の両脇で扇子で小机をたたく音に兎が応じる所作が行なわれます。この兎の反応の仕方で両者の験力の優劣強弱が決まるとされています。

 「験較べ」の最中に、「松聖」直属の「小聖」が務める5番目の時、1人の修験者が合祭殿出口に走り出て、中から庭上で待ち受けている若衆たちに向かって法螺貝を吹き鳴らすと、これを合図に位上方と先途方の大松明が若衆たちにより榊の下まで猛スピードで引かれていって榊に燃え移されます。この時、位上方と先途方のどちらの大松明が早く燃え移るかその速さと燃え方で優劣が判断され、「位上方が勝つと豊作」に、「先途方が勝つと大漁」になるとされています。

 そして、除夜の鐘とともに正月が明け、1月1日午前零時に、「国分神事」と「火の打替神事」が行われます。「国分神事」は、全国66ヶ国の内、羽黒修験が治めるのが33ヶ国、熊野修験が治めるのが24ヶ国、九州の英彦山修験が治める国が9ヶ国と国分検地をする神事です。この時、各国修験者が大地の精霊を鎮める呪術的歩行である反閇(禹歩法)を行ないながら国分を決めていきます。

 続いて、「火の打替神事」が行われます。位上方と先途方から各1人ずつ松打が出て、新しい火を鑽り出す競争をします。鏡松明の周りを3回回って火を受けるかど持のところに走り行き、どちらが早く点火できるか競い合い、早く点火できた方を勝とします。この松打は松聖の女房役です。

 これらの一連の神事が終わると、修験者諸役は補屋に戻って昇神祭を行ない、斎館で精進落としの直会にしの寿しが行なわれ、100日間に及んだ羽黒修験最大の行事である「冬の峰入り」および「松例祭」が終了するのです。

「松例祭」は、大きく、
① 網まき・網さばき・大松明引き
② 験競べの行
③ 国分け神事
 の3つに分けられます。とりわけ、「験競べ」は次の1年間の吉凶禍福を占うものとなり、大変重要な予兆・予祝的な修行と儀礼となります。

 わたしは、前掲拙著『世阿弥』で、「能(申楽)」を「平時の修験道」と説明しましたが、その発想はこの羽黒の「松例祭」を見ている時に浮かんできました。特に、「烏飛び」と能の式三番の「三番叟」の揉みの段の三段飛びは「験較べ」として共通していると考えています。

 ところで、正月以来、わたしは寺山修司監督『田園に死す』と『草迷宮』と三島由紀夫監督の『憂国』、斎藤耕一監督の『旅の重さ』、熊井啓監督の『深い河』などをDVDで立て続けに観ていて、寺山修司は凄いなと思うと同時に、三島由紀夫の『憂国』にはいかにも三島由紀夫らしく、三島にしかできない独創性と美学に貫かれていて、大変優れたものだと思いました。

 「憂国」は、2・26事件に参画できなかった青年将校夫婦の自決を描いています。昭和11年2月28日、2・26事件の2日後に決起をした同志たちを勅命により反乱軍として鎮討せざるをえない立場に立った近衛歩兵一連隊の30歳の武山信二中尉は、結婚して間もない23歳の新妻麗子と最後の交わりを交わした後に割腹自死します。

 この2人の住まいは四谷区青葉町6番地であったが、三島由紀夫は東京府東京市四谷区永住町2番地で生まれたので、その近くであったはずです。また、三島が割腹自決した陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地は、この四ッ谷のすぐ隣ですから、三島由紀夫は半径1〜2キロ内で生まれ死んだことになります。三島由紀夫は1970年11月25日その市ヶ谷駐屯地で東部方面総監の益田兼利を人質にして盾の会の面々と立て籠もり、バルコニーの上から檄文を播いて決起を促す演説をし、自衛隊員の怒号の飛び交う状況の中、総監室に戻って割腹自決したのでした。その日の報道のことはよく覚えています。

 その演説の最後は次のようなものでした。

 「諸君は、去年の10・21からあとだ、もはや憲法を守る軍隊になってしまったんだよ。自衛隊が20年間、血と涙で待った憲法改正ってものの機会はないんだ。もうそれは政治的プログラムからはずされたんだ。ついにはずされたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
 去年の10・21から1年間、俺は自衛隊が怒るのを待ってた。もうこれで憲法改正のチャンスはない!自衛隊が国軍になる日はない!建軍の本義はない!それを私は最もなげいていたんだ。自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとはなんだ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞けぇ、聞けぇ!静かにせい、静かにせい!話を聞けっ!男一匹が、命をかけて諸君に訴えてるんだぞ。いいか。いいか。
 それがだ、いま日本人がだ、ここでもってたちあがらなければ、自衛隊がたちあがらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだねえ、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本の……アメリカからしかこないんだ。
シビリアン・コントロール、シビリアン・コントロールに毒されてんだ。シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法下でこらえるのが、シビリアン・コントロールじゃないぞ。
 そこでだ、俺は4年待ったんだよ。俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を。そうした自衛隊の最後の30分に、最後の30分に待ってるんだよ。
 諸君は武士だろう。諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。どうして自分の否定する憲法のため、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。これがある限り、諸君てものは永久に救われんのだぞ。
 諸君は永久にだね、今の憲法は政治的謀略に、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊になったのだということに、どうして気がつかんのだ!俺は諸君がそれを断つ日を、待ちに待ってたんだ。諸君はその中でも、ただ小さい根性ばっかりにまどわされて、本当に日本のためにたちあがるときはないんだ。
 (野次:そのために、われわれの総監を傷つけたのはどういうわけだ)
 抵抗したからだ。憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従ってきた、という、ことを知らないのか。諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか。
 一人もいないんだな。よし!武というものはだ、刀というものはなんだ。自分の使命。
 (野次:それでも武士かぁ!それでも武士かぁ!)
 まだ諸君は憲法改正のために立ちあがらないと、見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ。それではここで、俺は、天皇陛下万歳を叫ぶ。
 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳! 天皇陛下万歳!」

 この言葉を昭和天皇はどのように聴いたのでしょうか? また、時の総理大臣佐藤栄作と防衛庁長官中曽根康弘はどのように理解したのでしょうか? 佐藤栄作首相は「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」と言い、中曽根康弘防衛庁長官は「民主的秩序を破壊する」迷惑千万の行動と遺憾の意を表しました。当時の大方の日本人も海外の人もそう思ったことでしょう。

 わたしは三島由紀夫の小説も三島由紀夫のパーソナリティも好きではありませんが、また思想的にも対極だと思っていますが、しかし三島由紀夫が命懸けで問いかけたものは実に深刻な問題であると思ってきました。

 『憂国』はタナトスによって浮き彫りにされたエロスの極みを描いています。このような世界はおそらく三島由紀夫を措いて他に誰も描くことはできないでしょう。その意味では三島由紀夫の独壇場の世界が描かれていて、凄みと美と極端な偏りがあります。

 23歳の若夫人麗子が自死する場面が「憂国」の最後の文章になるのですが、それは次のようなものでした。

 「麗子は咽喉元へ刃先をあてた。一つ突いた。浅かった。頭がひどく熱してきて、手がめちゃくちゃに動いた。刃を横に強く引く。口のなかに温かいものが迸り、目先は吹き上げる血の幻で真赤になった。彼女は力を得て、刃先を強く咽喉の奥へ刺し通した。」

 これを読むと連鎖反応的に、『豊饒の海』第二巻『奔馬』の主人公で、國學院大學予科の20になったばかりのウルトラ右翼学生の飯沼功が割腹自決するラストシーンが浮かんできます。

 「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」

 この1年間、わたしは上智大学の授業の一コマとして「日本の宗教と文学」を講義してきましたが、つい先だって、「現代小説〜あなたは安部公房と三島由紀夫のどちらの小説に心魅かれますか?」という授業を行ないました。

 2人と比較して言えばこうなります。

 安部公房の世界は「日常の中の非日常」。ありえないことがさもありえるかのごとく自然に生起して知らず知らず不測の事態に立ち至る。誰にでも起こりそうな非常事態の襲来。それが安部公房の世界。

 対して、三島由紀夫の世界は「非日常の中の非日常」。ありえないことがありえないように不自然に生起していかにもドラマティックに展開する。出生時の記憶を持つ主人公を描いた『仮面の告白』、然り。2・26事件の青年将校や特攻隊員の霊の声を描いた『英霊の聲』、然り。20歳で死んで輪廻転生し続ける主人公を描いた『豊饒の海』4部作、然り。普通ならありえないことが次々と生起してくるその非日常世界の非日常性。

 安部公房は、1924年(大正13)3月7日に東京府北豊島郡滝野川町(現在・東京都北区西ヶ原)で生まれ、翌1925年(大正14)、満州国奉天市(現在・中華人民共和国瀋陽市)で幼少期を過ごし、1993年(平成5)1月22日、68歳で死去します。

 対して、三島由紀夫は、1925年(大正14)1月14日に東京市四谷区永住町(現在・東京都新宿区四谷4丁目)で生まれ、生涯を東京都区内で過ごし、1970年(昭和45)11月25日、新宿区市ヶ谷駐屯地で割腹自決します。

 この2人は、戦後、大岡昇平、島尾敏雄、堀田善衛、井上光晴らとともに「第二次戦後派作家」と呼ばれましたが、中でも、安部公房と三島由紀夫はもっとも観念的で思想的な小説作法と小説世界を展開した作家で、近現代の小説世界の枠を大きく広げた思想家でもありました。また2人はともに劇作をものし、まったく対照的でそれぞれに独自な演劇世界を披歴します。

 その安部公房が、三島由紀夫の『憂国』の映画を次のように評しているのははなはだ興味深く思います。

 「その不安定さは、もしかすると、作者が映画を完全には信じていないところからくるものだったかもしれない。信じていないからこそ作者があれほど前面に押し出されて来てしまったのだろう。作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかもしれない。むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。(「“三島美学”の傲慢な挑戦—映画『憂國』のはらむ問題は何か」(週刊読書人1966年5月2日号)

 安部公房は三島由紀夫原作・製作・監督・脚色・美術の映画『憂国』のどこに「羨望に近い共感」を感じたのでしょうか? そして、三島由紀夫の「作家姿勢」のどこに「脱帽」したのでしょうか? 言葉と行為と美学の一致にでしょうか?

 この2人のアナーキストは、時流に逆らって、とてつもなく「傲慢」で「逆説的な挑戦」を繰り広げた2卵生双生児のような関係だったのかもしれません。対極にありながら、よく似た魂、とでもいうか。寺山修司と三島由紀夫の2人の映画はどちらも凄いと思いますが、寺山と三島は水と油のように混じり合うことはありません。しかし、安部公房と三島由紀夫は不思議な緊張関係で親和していると思います。もう少し、この3人(安部公房と三島由紀夫と寺山修司)の問いを掘り下げてみたいと思っています。

 さて、まもなく、1月28日(土)に北九州芸術劇場で上演される、アニシモフ演出、東京ノーヴィー・レパートリー・シアターの「古事記〜天と地といのちの架け橋」でお会いできることを大変楽しみにしています。

 2017年1月15日 鎌田東二拝