シンとトニーのムーンサルトレター 第141信
- 2017.02.11
- ムーンサルトレター
第141信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、先日は小倉でお会いできて嬉しかったです。1月28日(土)、サンレー]創立50周年記念の「サンレー文化アカデミー」のクライマックスとなる舞台「古事記〜天と地といのちの架け橋〜」がリバーウォーク北九州の北九州芸術劇場で上演されました。 劇団「東京ノーヴィレパートリーシアター」による舞台で、ロシア功労芸術家であるレオニード・アニシモフ氏が芸術監督を務めます。株式会社サンレーの主催、朝日新聞社、西日本新聞社、毎日新聞社、読売新聞西部本社の後援によるイベントです。原作は、Tonyさんが書かれた『超訳 古事記』(ミシマ社)本です。おかげさまで座席はすべて完売し、満員御礼となりました。
上演に先立って、北九州芸術劇場のステージでは神事を執り行いました。この舞台に八百万の神々が降りられるわけですから、念入りに「降神の儀」を行わなければなりません。もちろん、舞台の安全祈願、成功祈願もしました。日本の儀式に多大な関心を抱いておられているアニシモフ監督と一緒に、わたしも玉串奉奠をさせていただきました。神事を司ったのは、皇産霊神社の瀬津隆彦神職でした。國學院の神道文化学部出身の瀬津神職にとっては一世一代の晴れ舞台です。ちなみに、この日は100人を超す神社の宮司さんたちも各地から集まっていました。顔を白く塗って神々に扮した劇団員の方々が神事に参列し、低頭している様子は非常に感動的でした。後で、多くの劇団員のみなさんから「大変貴重な経験をありがとうございました」と感謝の言葉を頂戴しました。
「古事記」上演前の神事のようす
神々が参列する神事!
わたしたちは、どこから来て、何をめざすのか? 日本人の心のルーツである物語・古事記。「古事記〜天と地といのちの架け橋〜」は、その太古から口づてに伝承された神話をいま、生きた感情で、現代の「儀式」としてよみがえらせてくれました。『古事記』上巻より「天地のはじめ」「国生み」「神生み」「黄泉の国」「天の岩屋戸」を描いています。
昨年9月、東京ノーヴィレパートリーシアターはロシア公演を行い、「古事記〜天と地といのちの架け橋〜」を上演。「言語や民族を超えた普遍性がある」と超満員の大観衆から絶賛を受けました。わたしは二度目の鑑賞でしたが、新たな感動を覚えました。
それにしても、1時間近くも胡坐をかいた後に垂直にスクッと立ち上がる役者さんたちの脚力には感嘆しました。足を負った経験のあるわたしには逆立ちしても真似できません。わたしの後ろの席に座っていた年配のご婦人が「あの姿勢では疲れるでしょうね。ヒザ曲げてるし・・・」と言われていましたが、同感です。固い舞台の上で胡坐をかいていて、よく足が痺れないものです。日頃の鍛錬の賜物でしょうが、やはりプロの役者さんは凄い!
公演後には、アフタートークが行われました。出演者はTonyさん、アニシモフ監督、わたしの3人です。コーディネーターは、出版プロデューサーの内海準二さんでした。冒頭、MCより出演者3人の紹介があり、コーディネーターの内海さんへ進行がチェンジされました。そして、出演者3人に対する質問がありました。
舞台「古事記」のクライマックス
公演は大成功でした
まず、Tonyさんに「原作者として、うれしかったこと・満足したこと・新鮮だったこと」が質問されました。次に、アニシモフ芸術監督に「演出で気をつけたこと。舞台を通して一番伝えたかったこと」が質問されました。お二人は、それぞれ自分の考えを答えられていました。
続いて、わたしに「『古事記』についてどう思うか」との質問がありました。わたしはまず、「結婚式は結婚よりも先にあったことを再確認した」と述べました。一般に、多くの人は、結婚をするカップルが先にあって、それから結婚式をするのだと思っているのではないでしょうか。でも、そうではないのです。『古事記』では、イザナギとイザナミはまず結婚式をしてから夫婦になっています。つまり、結婚よりも結婚式のほうが優先しているのです。他の民族の神話を見ても、そうです。すべて、結婚式があって、その後に最初の夫婦が誕生しているのです。つまり、結婚式の存在が結婚という社会制度を誕生させ、結果として夫婦を生んできたのです。ですから、結婚式をしていないカップルは夫婦にはなれないのです。
結婚式ならびに葬儀に表れたわが国の儀式の源は、小笠原流礼法に代表される武家礼法に基づきますが、その武家礼法の源は『古事記』に代表される日本的よりどころです。すなわち、『古事記』に描かれた伊邪那岐命と伊邪那美命のめぐり会いに代表される陰陽両儀式のパターンこそ、室町時代以降、今日の日本的儀式の基調となって継承されてきました。この舞台では、多くの神々が「われは○○の神」と言って立ち上がりながら名乗りを挙げますが、まさにこの舞台そのものが1つの儀式となっていました。
また、わたしは、「『古事記』はグリーフケアの物語であることを発見した」と言いました。第2部では、最愛の妻を失ったイザナギが嘆き悲しむ場面から始まります。Tonyさんのご著書である『古事記ワンダーランド』(角川選書)でも指摘されているように、『古事記』とは「グリーフケア」の書です。Tonyさんによれば、『古事記』には「女あるいは母の嘆きと哀切」があります。悲嘆する女あるいは母といえば、3人の女神の名前が浮かびます。第1に、イザナミノミコト。第2に、コノハナノサクヤビメ。そして第3に、トヨタマビメ。『古事記』は、物語ることによって、これらの女神たちの痛みと悲しみを癒す「鎮魂譜」や「グリーフケア」となっているというのです。最もグリーフケアの力を発揮するものこそ、歌です。歌は、自分の心を浄化し、鎮めるばかりでなく、相手の心をも揺り動かします。歌によって心が開き、身体も開き、そして「むすび」が訪れます。
それから、内海さんは、出演者に2クール目の質問をしました。Tonyさんには「『古事記』の意義・世界観」についての質問がされ、次にアニシモフ芸術監督に対して「演劇と儀式について」「なぜロシアで日本の『古事記』に注目したのか」が質問されました。それぞれ大変興味深いコメントを述べられていましたね。
そして、わたしには「サンレーさんは、神道の概念である『むすび』という言葉を大切にしているそうですが?」と聞かれました。わたしは、以下のように述べました。「むすび」という語の初出は日本最古の文献『古事記』においてです。冒頭の天地開闢神話には二柱の「むすび」の神々が登場します。八百万の神々の中でも、まず最初に天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三柱の神が登場しますが、そのうちの二柱が「むすび」の神です。『古事記』は「むすび」の神をきわめて重要視しているのです。大著『古事記伝』を著わした国学者の本居宣長は、「むすび」を「物の成出る」さまを言うと考えていました。「産霊」は「物を生成することの霊異なる神霊」を指します。つまるところ、「産霊」とは自然の生成力をいうのです。
『古事記』には、あまりにも有名な「むすび」の場面があります。天の岩屋戸に隠れていた太陽神アマテラスが岩屋戸を開く場面です。アメノウズメのストリップ・ダンスによって、神々の大きな笑いが起こり、洞窟の中に閉じ籠っていたアマテラスは「わたしがいないのに、どうしてみんなはこんなに楽しそうに笑っているのか?」と疑問に思い、ついに岩屋戸を開くのでした。『古事記』は、その神々の「笑い」を「咲ひ」と表記しています。この舞台「古事記」の第2部のラストシーンは、まさに神々が大笑いして岩戸屋が開き、世界に再び光が戻る感動的な場面でした。ラストシーンでは神々が手に鏡を持ち、アマテラスが放つ光をそれぞれが反射している場面も印象的でした。この世に住むわたしたちも、各自が小さな太陽として光り輝きたいものです。
その後、Tonyさんが石笛と法螺貝を奏上してくれました。初めて聴く観客のみなさんは、さぞ度肝を抜かれたのではないかと思います。わたしも久々にTonyさんの法螺貝を聴けて、なんだか嬉しかったです。
アフタートークで法螺貝を吹く
アフタートーク後の主催者挨拶
最後に内海さんから「最後に、今日の公演の主催者として一言お願いします」と言われ、わたしは以下のように述べました。
「本日は、多くの方々にお越しいただき、本当にありがとうございました。おかげさまで、わが社は創立50周年を迎えることができました。わが社の社名は『サンレー』といいます。これには、『SUN−RAY(太陽の光)』そして『産霊(むすび)』の意味がともにあります。最近、わが社は葬儀後の遺族の方々の悲しみを軽くするグリーフケアのサポートに力を注いでいるのですが、今日の舞台を観て、それが必然であることに気づきました。なぜなら、グリーフケアとは、闇に光を射すことです。洞窟に閉じ籠っている人を明るい世界へ戻すことです。そして、それが「むすび」につながるのです。わたしは、『SUN−RAY(太陽の光)』と『産霊(むすび)』がグリーフケアを介することによって見事につながることに非常に驚くとともに安心しました。これからも、儀式によって多くの方々を幸せにするお手伝いがしたいと願っています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。今日は、本当にありがとうございました!」
すると、満員の会場から割れるような盛大な拍手が起きて感激いたしました。Tonyさん、アニシモフ芸術監督、「東京ノーヴィレパートリーシアター」のみなさん、コーディネーターを務めて下さった内海さん、そして何よりもご来場下さったお客様に心より感謝を申し上げます。アフタートークの後は、松柏園ホテルに移動して、打ち上げ会を開きました。冒頭、儀式そのものである舞台「古事記〜天と地といのちの架け橋〜」を演出して下さったことに感謝と敬意を込めて、拙著『儀式論』をアニシモフ監督に贈呈させていただきました。その後、Tonyさんの発声によって乾杯しました。わたしたちはビールでしたが、Tonyさんはペリエで乾杯しました。乾杯後は、松柏園の料理を食べながら会話が盛り上がりました。話題は、演劇や映画に関することが多かったです。「演劇と映画はどちらが芸術として優れているか」という議論は面白かったですね!
打ち上げの食事会で乾杯!
カラオケ大会のようす
食事の後は有志でカラオケボックスへ。わたしが北島三郎や矢沢永吉を歌い、Tonyさんはブルーハーツや布施明などを熱唱。もちろん、この1月、全国各地で歌ってきたサブちゃんの「まつり」も熱唱しました。わたしたちは全身全霊で1人10曲ぐらいづつ、カラオケを歌いました♪ 歌った後は、腹が減ったので、とんこつラーメンを食べてから帰りました。翌朝も一緒に遅めの昼食を取りながら、いろいろな話をさせていただきました。2日にわたって、とても楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。また、ぜひ、カラオケ&ラーメンに行きましょう!
2017年2月11日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
1月28日北九州芸術劇場でのサンレー創立50周年記念サンレー文化アカデミー記念公演「古事記〜天と地といのちの架け橋」はすばらしいものでした。サンレーの50周年記念上演としても、東京ノーヴィレパートリーシアターの5回目の公演としても。アニシモフ氏演出の「古事記」公演は大成功でした。700名のチケットも完売、ありがたいことです。アニシモフの演出の冴えも役者のみなさんの入魂の演技も、心にしみました。主催者としての企画上演の総指揮、まことにありがとうございました。心より感謝申し上げます。
日本では、初演の両国のシアターΧでの公演の他、2回の梅若能楽学院会館での公演の3回が行なわれましたが、東京以外では初めての試みでした。それが、北九州の小倉でのサンレー創立50周年記念上演となったわけです。ありがたくも、縁深いものを感じます。これから先、いろいろなところでやってほしいと思っていますが、その走りの試みとなったと思います。
アニシモフさんの演出は、そもそも2時間余りの公演をすべて歌い通すという実験的試みで、それ自体が画期的な演出です。わたしはこれまで、『古事記』を「歌物語」の「一大叙事詩」であり、出雲鎮魂、グリーフケア・スピリチュアルケアの書だと主張してきましたが、その主張が完全に活かされる形で上演されています。
といっても、上演内容は、国生み神話と黄泉国訪問神話とその後に続く天の岩戸神話が中心で、そこで生と死と再生の物語が大変象徴的かつダイナミックに展開されます。母神イザナミによる国生み、しかし、その原初母神の死、死による別れと悲嘆と痛み、ねじれたまま和解することのない元夫と元妻。最初の夫婦神は最初の離婚者でもあったのですが、その別離は大変苦く、悲しく、痛いものでした。その原母イザナミの悲しみを全身全霊で受け止めてしまったのが、稀代の暴れん坊のスサノヲです。そのあたりは、拙著『古事記ワンダーランド』(角川選書、2012年)や『歌と宗教』(ポプラ新書、2014年)に書いたので省きますが、とにかく、アニシモフ演出は、その生と死のダイナミズムを目いっぱい歌い上げるものでした。そして、全役者が満面の笑みを湛えて。
ともかくも、「サンレー」(産霊・讃礼・Sun-Rayサンレイ=太陽光線)という会社の3つの意味そのものを表現した舞台となり、お互いに深く納得し合うものがありましたね。出会うべくして出会い、結ばれるべくして結ばれて、この日の上演になったと感慨深いものがありました。
その日の夜は、例によって、みなさんと「大カラオケ大会」。Shinさん、歌唱がますますいっそう力強く熱烈になってきますね。矢沢永吉シリーズも似合ってましたが、北島三郎シリーズもはまってますねえ、実に。矢沢永吉も意外に思いましたが、北島三郎も意外ではありました。Shinさんがそれほどハマルとは。しかし、これにも深い象徴的な意味があるのでしょう。新たな「祭り」文化創出に向かう。
さてさて、そのような一日を過ごして、翌朝、Shinさんたちと一緒に朝食を摂りながら、演劇・映画談議をしましたね。そこで、わたしは演劇よりも映画の方が好きな理由を次のように述べました。
① 演劇は、場所が固定されているが、映画は場所を自由自在に設定できる(ロケによって)。
② 演劇は声を張り上げないとよく聞こえないが、映画はつぶやきでもささやきでもよく聞こえる。
③ そしてこれが決定的だが、演劇は自然描写できないが、映画は自然描写ができる。とりわけ、映画は自然のダイナミズムを表現できる。
④ 結論として、演劇はヒューマンであるが、映画はコズミックである。その映画の宇宙性に魅せられるのである。
映画は洞窟的であり、胎児的であり、天の岩屋戸的であり、宇宙的です。コズミックと言えば、最近観た映画『沈黙〜サイレンス』もコズミックでした。異様なコズミック。特に、海、海岸、波、岬の洞窟のコズミック。そして、雲仙の熱泉を舞台に撮影したような切支丹処刑場の異様コズミック。
Shinさんもブログで書いているように、鳴り物入りで封切された遠藤周作原作・マーティン・スコテッシ監督の『沈黙』(2017年1月21日封切。配給KADOKAWA)は、しかし、日本人には分かりにくいかもしれません。この国の「沼地」のようなところが、キリスト教を根づかせないということが2〜3回語られていましたが、残念ながら、そのところ、キモのところが観念論のようにしか聞こえませんでした。
ということは、遠藤周作原作の映画化としては失敗だったと思います。しかし、にもかかわらず、この映画は宗教の宇宙というものをかなり抉り描いているとわたしは思いました。映画として優れていると。
最初の問いは、フェレイラ神父はなぜ「棄教」したか? その真相を突き止める、というものでした。その「棄教」したと伝えられる師フェレイラ神父を追って、強力にキリシタン弾圧を進める日本に渡った理想に燃える若きイエズス会士のロドリゴ神父とガルベ神父。単身敵地に乗り込んでいくような無謀な冒険というより殉教的な献身。
しかし、その神父2人が日本で見たものは何であったか?
ロドリゴ神父とガルベ神父は、マカオで会った日本人漁師のキチジローの手引きで隠れキリシタンの寒村トモギ村に密入国します。そこでは、「じいさま」と呼ばれる村長イチゾウを始め、信仰の篤い切支丹が司祭を待ち望んでいたのでした。ロドリゴ神父たちは、そこの寒村集落で隠れ住みながら、隠れキリシタンの信仰を導くことになります。
しかし、切支丹探索と弾圧を執拗に推進する長崎奉行の井上筑後守に見破られ、村長のイチゾウとモキチとキチジローたち4人が捕まります。そこで、どうしようもないトリックスターのような役割を果たすのがキチジローで、その救いがたい弱きキチジローを窪塚洋介が熱演しています。彼の『GO』だったかは、名作・名演ですが、このキチジローも名演だと思いました。
この執拗な切支丹チェックに、キチジローだけが生き延び、生き残ります。キチジローは踏絵に加え、キリスト像に唾を吐きかけてまで「棄教」の意を示して解放されますが、後の3人は踏絵はできても、唾を吐きかけることはできませんでした。そして、彼ら3人は、海の中で十字架に括りつけられ、処刑されるのでした。その海の仮借ない宇宙性。「惑星ソラリス」を想い出しました。
そして、終にロドリゴ神父が捕まる日がやって来ます。キチジローに売られたのです。密告したキチジローはしかし、その後もストーカーのようにロドリゴ神父に付き纏い、告解と懺悔を切望します。このキチジローに絶望し、神の「沈黙」に反問しながら、ロドリゴ神父の信仰は揺れ動きます。殉教することと棄教することの間を。
そして、最終的に、ガルベ神父は「殉教」し、ロドリゴ神父は「棄教」することになります。師フェレイラ神父同様、背教者となってしまったロドリゴ神父。そしてその後、「転びバテレン」の日本人岡田三右衛門として生きるロドリゴ。
しかし、ロドリゴは本当にキリスト教を「棄教」したのでしょうか? わたしにはそうは思えませんでした。切支丹の信仰を持った人たちは苦悩します。2人の神父も苦悩します。2人の師のフェレイラ神父も苦悩します。殉教するか、棄教するか。殉教することが、真に救いをもたらすことになるのか、苦悩します。そして、「棄教」した「ふり」をして「隠れ切支丹」として生きるという道を選んだように見えます。少なくともロドリゴ神父については。
そのロドリゴ神父の心の揺れを極限にまでデフォルメしたのが、何度も「踏絵」をし、キリスト像にも唾を吐きかけて、「棄教」の態度を示しても、本当に「棄教」しきれないキチジローなのでしょう。キチジローは本当の「切支丹」なのでしょう。どうしようもない弱さを抱えて生きる「隠れ切支丹」の最弱者を、最高最弱者のイエス・キリストが見つめ、愛を注ぐ。
キリスト教という宗教は世にも不思議な宗教ですね。本当に神秘的な宗教、奇蹟の宗教だと思います。世界の宗教の中で、キリスト教ほど不思議で神秘的な宗教はないと思います。
キチジローの弱さと、泥沼のような信仰の矛盾と混沌を見つめる遠藤周作とスコテッシ監督。その彼らのまなざしに撃たれます。その宇宙性に刺し貫かれます。どうしようもなさにまなざす彼らの目の熱量に。
いったい、「沈黙」とは何なのでしょうか?
約2時間半の大作の映画は、真っ暗の画面の夏の蝉の鳴き声から始まり、最後も真っ暗の中での蝉の鳴き声で終わります。そこには、しかし、「沈黙」は、ありません。しかし、「沈黙」が、あるのです。遠藤周作の小説も実に重いですが、スコテッシ監督の映画も実に重いですね。そして、悲しいほどに、うつくしい。映像が。海が。波が。岬が。
そこには、「宇宙」があります。深遠が、深淵があります。どうしようもない、シンエンが。
もう1つ。話題作の『この世界の片隅に』も観ました。同じ日に。通りを隔てた違う映画館で。続けざまに。
しかしながら、あまりに重い映像から、軽いタッチで始まる『この世界の片隅に』のギャップがありすぎました。
次第に戦争の悲惨さが浮き彫りになっていくので、状況は暗く重いのですが、『沈黙』を観た直後なので、その重さはアニメーションの軽みの中で相対化されました。さりげなく、なにげなく、日々の積み重ねの日常の愛おしさとかけがえのなさが浮き彫りになってきます。この小さいけれども、愛おしい者たちの声がつぶれていくような戦争とは何なのか? 静かに、悲しく、怒り、憤り、反戦が語られ描かれます。どこにも声高なところはなく。淡々と。ささやくように。つぶやくように。
『沈黙—サイレンス』にも『この世界の片隅に』にも、どちらにも、歴史と状況に翻弄される人間の苦しみと哀しみが描かれていました。前者には、信仰する者の苦しみと、それを裏切らざるを得ない悲しみが、引き裂かれるように描かれていました。そして後者には、当たり前のように平穏に過ぎていた日常がどんどん壊れていき、戦火の中で姉の子と右手を喪って苦悩する主人公すずの痛みと悲しみと家族の慈しみが描かれていました。そこにはどのような声高な宗教性もありませんが、静かな祈りと悔いと平和への希求がありました。
そのどちらがどうだと比較することはできません。どちらにも、癒しがたい、「スピリチュアル・ペイン」があると感じました。この痛み。悲しみ。消えることのない。生涯抱えて生きるほかない。その痛みと悲しみ。そのような痛みと悲しみに救いや癒しや悟りは訪れるのか? 「神」は「沈黙」したままなのか? 「自然」は「沈黙」したままなのか?
確かに、そこでは、「神」は「沈黙」しているように見えます。しかし、そこにおいても、「神」は本当に「沈黙」しているのでしょうか?
それに対して、「自然」は「雄弁」に見えます。「自然」はいつも自分自身を全開し、すべてを曝け出しているように見えます。海は広いな、大きいな。
海は雄弁である。空は雄弁である。雲も風も雄弁である。そして、美しすぎる。
「沈黙」に答えはない。「答え」はないが、生きていかねばならぬ。ロドリゴもフェレイラもキチジローも、すずも、すずの義姉も。痛みと悲しみを背負って。それぞれの十字架を背負って。
2本の映画を観ながら、そんなことを考えていました。
2017年2月15日 鎌田東二拝
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