シンとトニーのムーンサルトレター 第160信
- 2018.08.26
- ムーンサルトレター
第160信
鎌田東二ことTonyさんへ
Tonyさん、お元気ですか? このムーンサルトレターも160信目になりましたよ。早いですね。お互いに健康でWEB往復書簡を続けられること、ありがたいです。
さて、わがサンレーでは、有縁社会を再生するためにセレモニーホールのコミュニティセンター化を図っていますが、4日の夜に八幡のサンレーグランドホテルの中庭で「盆踊り大会」を開催しました。地元の方々を中心に数百人もの方々が集まって、大いに盛り上がりました。わたしは浴衣を着て、櫓の上で主催者挨拶をしました。
「サンレー盆踊り大会」のようす
盆踊りの櫓上で主催者挨拶
8月の後半は1週間近く東京にいました。20日の一般社団法人・全日本冠婚葬祭互助協会(全互協)の儀式継創委員会の会議に始まり、21日には一般財団法人・冠婚葬祭文化振興財団の評議員会、さまざまな全互協の創立45周年行事に参加。22日には全互協の第9回総会が開催され、わたしは副会長に就任しました。23日には互助会保証株主総会に監査役として参加しました。
そして、24日には東京ビッグサイトで開催された「エンディング産業展」で講演しました。演題は、「人生の修め方〜『終活』の新しいかたち〜」です。開場前から講演会場前には長蛇の列ができて、おかげさまで会場は超満員となりました。中に入れない方もいたほどでした。「終活」に対する世の中の関心の大きさを痛感しました。
エンディング産業展を視察
エンディング産業展で講演
いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。多くの犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず、「生が永遠ではないこと」そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされます。多くの高齢者の方々が、生前から葬儀や墓の準備をされています。「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただきました。さまざまな雑誌も「終活」を特集しています。
このようなブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。講演では、そんな話をしました。
さて、Tonyさんから御恵贈いただいた『天河大辨財天社の宇宙』(春秋社)を読ませていただきました。Tonyさんと柿坂神酒之祐(大峯本宮天河大辨財天社第六十五代宮司)氏の共著ですが、大変興味深い内容でした。
『天河大辨財天社の宇宙』(春秋社)
わたしが柿坂宮司に最初にお会いした場所は神社ではなく、奈良の近鉄・八木駅でした。1990年の12月18日、わたしはTonyさんを八木駅でお待ちしていました。天河大辨財天社を一緒に訪れるためです。その前日、わたしは伊勢市で講演をしました。当時、プランナーとして翌年に伊勢市で開催される「世界祝祭博覧会」のイベント企画の仕事をしていました。拙著『遊びの神話』(東急エージェンシー、PHP文庫)を読まれた伊勢市市議会議長(後に伊勢市長)の中山一幸氏のお声がけによるものでした。その流れで講演の依頼も受けたわけです。同じ日に、Tonyさんも京都の国際日本文化研究センターで「日本神話における他界観の形成」というテーマで研究発表をされることになっていました。そこで互いに、それぞれ伊勢と京都での所用をすませて、どちらから来るのにも都合がよく、また天河への経由地に当たる八木駅で落ち合うことになったのです。
八木駅で待っていたら、Tonyさんがもう1人の連れの方と現れました。わたしが「誰だろう?」と思っていたら、なんと、その方が柿坂宮司だったのです。聞くと、京都駅でTonyさんと偶然出会い、そのまま2人で来られたとのこと。柿坂宮司は、長らく天河にいるけれども、こういう奇遇はないと驚かれていました。わたしたちは、なんだか「未知との遭遇」に直面しているような不思議な浮き立つような気分のまま八木駅前からタクシーに乗り込みました。大きな峠を2つ越えて、途中で丹生川上神社に立ち寄って参拝し、1時間あまりで目的の天河大辨財天社に着きました。
その夜、しんしんと降る雪をながめながら、3人で夜中の3時過ぎまで酒を飲み、語り合いました。Tonyさんは今ではお酒をまったく飲まれません。しかし、その当時は想像を絶するほどの大酒飲みでした。Tonyさんと柿坂宮司の会話は、本当は人間が空を飛べるとか、満月の夜は気が満ちすぎていて滝に打たれると怪我をするとか、とにかく大変刺激的な内容でした。わたしは当時26歳で、今から考えると若造でした。しかし、わたしは自分のやっているリゾート開発の話題に触れ、「乱開発はよくない、特に木を切ることはよくない、日本人の心である『国体』というソフトを守るためには、まず『国土』というハードを守る必要があるのではないか」といったようなことを述べた記憶があります。
『天河大辨財天社の宇宙』の「はじめに」の冒頭を、Tonyさんは以下のように書き出しています。「今から34年前のこと。1984年4月4日、清明の日にわたしは初めて天河を訪れた。以後34年、間断なく、300回近くも天河に通うことになるとは思いもかけなかった。大げさに言えば、この日、わたしは運命の曲がり角を曲がったのだった。天河縁を結び固めることになる・・・・・・」
また、Tonyさんは「高野山や熊野にも山深く通じる、この日本のシークレット・ゾーンの要に当たる天河に来たのはほかでもない。天河大辨財天社の参拝はもちろんのことであったが、それ以上に、三島由紀夫の『霊界通信』をどう『審神(さにわ)』るのかを確かめたかった。このとき、わたしを天河に向かわせたのは三島由紀夫の『霊』だったのだ」とも書いています。
いきなり三島由紀夫の「霊界通信」という言葉が登場して当惑する読者もいるでしょうが、Tonyさんは「1983年の年の暮れに、わたしは心霊研究家の畏友梅原伸太郎氏から数冊の和綴の本を見せられた。それは、横浜に住む30代の主婦に『霊界』から三島由紀夫が送ってきたという通信を記したものだった。自動書記で書かされたというその和書は書き直しなどまったくない端然とした書体で、日本を『真のまほろば』にせよというメッセージが記されていた」と説明します。
「まほろば」とは、『古事記』の中で、ヤマトタケルノミコトの詠った国偲びの歌に出てくる古語で「うるわしい土地・場所」を意味します。ヤマトタケルは、三重県鈴鹿郡能煩野の地に至り、亡くなる前に故郷の大和を望郷して、「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し うるはし」と詠ったのでした。「わがふるさと大和は、この国の中でも本当に一番すばらしいところだ。周囲が何層もの山々で囲まれ、とても心休まる落ち着いたところ。その美しい大和が懐かしく想い出される」という意味ですが、Tonyさんは「ヤマトタケルノミコトの辞世の歌とも言えるこの歌のキーワードが『まほろば』である。『真秀呂場』。美しく素晴らしい優れた処。そんな処に日本を造り変えよ、というのが三島由紀夫の『霊界』からのメッセージなのだった。以来、35年、この『日本まほろば化』プロジェクトはわたしの中で燠火のように燃え続けている」と述べます。
横浜に住む30代の主婦とは太田千寿氏であり、彼女が三島由紀夫から受けとったという霊言は、『三島由紀夫の霊界からの大予言』(日本文芸社)という本にまとめられました。同書を一読したわたしも大いに感ずるところがあり、「日本まほろば化」プロジェクトに身を投じました。わたしは勤務していた広告代理店を退職し、自ら「ハートピア計画」という企画会社を起業しました。そして、『リゾートの思想』(河出書房新社)を上梓し、自分なりの「理想土」=「まほろば」のビジョンを描きました。続く『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)では、『三島由紀夫の霊界からの大予言』の内容からも引用しています。
1994年7月に『天河曼荼羅〜超宗教への水路』という本が春秋社から刊行されました。天河に縁を受けた人々が、天河の危機に立ち上り、それぞれの天河体験を語りつつ、「宗教」の形をとらない精神・霊性の道を探るシンポジウム記録集で、Tonyさんと津村喬氏が編者でした。同書には、わたしも「心のリゾートとしての『まほろば』」という文章を寄稿しました。
『天河大辨財天社の宇宙』の最後に、Tonyさんは仏教の閉塞状況を突破していく試みとして、最近、仏教サイドから仏教の未来展望について新しい問題提起がなされているとして、以下の「仏教3.0」の議論を紹介します。
(1)仏教1.0(檀家制度に支えられた葬式仏教・コミュニティ仏教として形骸化していった日本の大乗仏教)
(2)仏教2.0(瞑想修行の実践的プログラムと実修を具体的に提示したテーラワーダ仏教)
(3)仏教3.0(テーラワーダ仏教による批判的吟味を踏まえて仏教本来の瞑想修行を取り戻した大乗仏教)
そして、Tonyさんはなんとこの論法で神道を読み解き、次のような三種神道を示すのです。
(1)神道1.0(天皇制を頂点とした律令体制以降の神社神道や近代のいわゆる国家神道)
(2)神道2.0(天皇制以前から存在してきた神祇信仰や自然崇拝を中核とした自然神道や古神道)
(3)神道3.0(自然神道を核とし国家神道を内在的に批判突破した神神習合や神仏習合や修験道をも内包する生態智神道)
これを読んで、わたしは唸りました。つねづね、わたしはTonyさんのことを「超一流のコンセプター」であると思っているのですが、まさに、その面目躍如であります。しかも、それにとどまらず、Tonyさんはこう述べるのでした。「さらに大風呂敷を広げておけば、天河大辨財天社は、真言密教の『即身成仏』思想や『草木国土悉皆成仏』を謳った天台本学思想を止揚した四次元仏教の確立と実践を『仏教4.0』として展開しているともいえるし、また『生態智神道』を止揚した『惑星神道(地球神道、Planetary Shinto)』を『神道4.0』として未来創造している、その生成の最中にあるともいえる。南方熊楠の神社合祀反対運動や宮沢賢治の羅須地人協会の活動とも共鳴する思想と実践が1980年代以降の天河大辨財天社にはある」
天河大辨財天社とは、「神道4.0」はおろか「仏教4.0」までを内包した無限の可能性を持った聖地であるというのです。わたしは「仏教3.0」や「神道4.0」だけでなく「冠婚葬祭3.0」についても考えるべき時期が来ていると思います。とりあえず、次のように考えてみました。
(1)冠婚葬祭1.0(戦前の村落共同体に代表される旧・有縁社会の冠婚葬祭)
(2)冠婚葬祭2.0(戦後の経済成長を背景とした互助会の発展期における華美な冠婚葬祭)
(3)冠婚葬祭3.0(無縁社会を乗り越えた新・有縁社会の冠婚葬祭)
いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ています。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる儀式としての機能を果たしていない部分もあります。いま、儀式文化の初期設定に戻りつつ、アップデートの実現が求められています。「冠婚葬祭3.0」、さらには「冠婚葬祭4.0」の誕生が待たれているのです。Tonyさん、これからもどうぞ御指導下さい!
2018年8月26日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
Shinさん、満月の夜のムーンサルトレター、お送りくださり、まことにありがとうございます。満月の夜に、お月様から届くこの「異界よりのプレゼント」が、もう「160回」にもなったのですね。凄いことですね。世界最長の定期的な「文通」ではないでしょうか? 「13年近く」も続いているのですから。
振り返ってみると、「第1信」は「2005年10月20日」でした。ほぼ毎月1回ですが、お月様は「28日周期」で満月になるので、「満13年」を2ヶ月前にして「160信」の快挙を成し遂げました。わたしは今67歳ですから、54歳の時からShinさんと満月の夜に「異言・威信」を通い合わせたということですね。この2人の「かぐや姫」ならぬ「かぐや彦〜月彦」は、結構ルナティックな憑かれ人だと思います。
昨日、わたしは東大寺にいました。夜8時頃、東大寺南大門すぐそばの「東大寺総合文化センター」で行なわれた「日本看護・ビハーラ学会第14回年次大会」に招かれて講演をしたのです。昨日のプログラムは以下の通りでした。
10:00〜10:10開会のあいさつ (金鐘ホール)
10:10〜10:50基調講演「奈良時代の医療行政と介護」森本公誠氏 華厳宗大本山東大寺長老
10:50〜11:50特別講演「看護に活かせる日本人の死生観〜いにしえからの継承〜」カール・ベッカー 名誉大会長
11:50〜13:00 昼食休憩
13:00〜13:30ポスター発表① (小ホール)
10分休憩
13:40〜16:10シンポジウム「地域の支え合いから考える仏教看護の可能性」
ファシリテーター:野田隆生大会長
シンポジスト: 宗教 森本公穣氏 華厳宗庶務部長・東大寺庶務執事、芸術・仏教 若麻績敏隆氏学会長、在宅看護 森田愛子氏 牧岡在宅緩和ケア研究会幹事、看護・現象学 金谷光子氏 新潟医療福祉大学教授
15:20〜15:40 20分休憩&会場アンケート集計
15:40〜16:10 フロアとのディスカッション
16:10〜16:20 10分休憩
16:20〜17:20総括講演「日本人の宗教文化と死生観〜神仏習合文化と民間信仰との間」鎌田東二
わたしは、「日本人の宗教文化と死生観〜神仏習合文化と民間信仰との間」という話をしましたが、話の流れは大体次のようなものでした。
1.災害多発時代と多死時代の問題点
2.災害多発の風土的基盤と日本の宗教文化
3.日本の宗教文化の底流としての民間信仰と神仏習合文化と死生観
4.本居宣長と平田篤胤の死生観比較
5.神仏習合文化の典型事例としての天河大辨財天社と天河護摩壇野焼き講の活動
6.東京国立博物館開催「縄文〜1万年の美の鼓動展」と縄文ブームの根底にある死生観的希求
学会年次大会の「予稿集」には、次のような文章を載せました。
日本の宗教文化は曖昧にして複雑多様である。その淵源は、日本列島の複雑多様さにある。その複雑多様さがやがて神道の「八百万の神」という言い方や概念にもなってくる。神道も日本の仏教もともに、日本の風土と習慣(民俗倫理)を抜きにしては成り立たない。
この日本の宗教文化の特質を「習合」と「重層」という観点から捉えることができるが、それをさらに、地質学的観点、海洋学的観点、植物生態学的観点、文化・文明学的観点などから捉えることができる。
日本は四方を海に囲まれた島嶼列島であるが、約1万2000年程前に現在のような列島となり、土器文化を持つ縄文時代が始まり、列島独自の風土に基づく文化形成が始まった。
この日本列島の風土の特徴は、第1に、四方を海に囲まれた島々、つまり島国であること。第2に、その島々は激しい噴火活動をする火山列島であったこと。太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリッピン海プレートという4つのプレートがぶつかる地質学的にも珍しい地帯にある日本列島は、110もの活火山があり、噴火活動が活発で地震も多く、日本列島自体が揺らぎの中にある一種の「漂流列島」である。そんな日本を『古事記』は実に的確に「くらげなす漂へる国(クラゲのように漂っている島国)」と言っている。第3に、火山活動やプレートのぶつかり合いによる褶曲運動のため、急峻な山々が多く、山岳や森林が国土の約70%を占めるために清流の流れる河川や沢や沼地が多く、それによって、日本列島は海の水と川の水の両方の豊富な水に取り囲まれた水の列島となったこと。
そこで、大陸から大陸から農耕文明がもたらされた時、日本の名称を「豊葦原の瑞穂 (水穂)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国という意味)と称えて呼ぶようになった。『古事記』には、「くらげなす漂へる国」以外の日本列島の呼び名として、「大八島国」(大きな八つの島のある国)とこの「豊葦原の瑞穂の国」(また「葦原中国」)という呼び名が出てくる。
地質学や地理学や風土論から見ると、プレートや海流の十字路であり、火山国(火の国)であり、水量の豊富な水の国でもある。その火と水の豊かな島国(島嶼列島)に、「神道」と呼ばれる独自の宗教文化が形成され、伝来の儒教や道教や仏教はそれとの相関・習合・緊張関係を形作り、その中で「神仏習合」という宗教文化が定着した。その元には、実は「神神習合」という長い歴史と堆積があったというのが私の仮説である。
「神道」とは、旧石器時代からのさまざまな神観念や精霊観念や霊魂観念を受け継ぎながら、1万年以上にわたる日本列島の風土の中で練成されてきた神話と儀礼と神社を伝承の核とした世界観と信仰と儀礼の体系であり生活の流儀であるが、それは世界宗教と言われる仏教やキリスト教のような教えの宗教(教義型宗教)ではない。神道には明確な教義はなく、教祖も教団もない(神社は教団ではなく、共同体の祭祀場ないし祭祀機関であり、神社本庁はその包括団体である)。教義型宗教である仏教が「悟りと慈悲の宗教」であり、またキリスト教が「愛と赦しの宗教」であるとするなら、伝承型宗教文化である神道は「畏怖と祭りの宗教文化(生活)」であると言える。
こうして、「神道」には確かに明確な教義はないが、いろいろな「かたち」に表れている。その「あらはれ(表現)としての神道」を、「場・道・美・祭・技・詩・生態智」の7つの潜在教義として捉える視点と仮説を私は提示してきた。「生態智」とは、「自然に対する深く慎ましい畏怖・畏敬の念に基づく、暮らしの中での鋭敏な観察と経験によって練り上げられた、自然と人工との持続可能な創造的バランス維持システムの知恵」であり、さまざまな「民間信仰」もそのような経験と観察を下敷きにしたものが多い。
日本の「宗教文化」の特質をこのような曖昧さや複雑多様性に見るとするなら、死生観も他界観も同様に曖昧であり複雑多様と言えるだろう。古来の他界信仰を見ても、常世の国・妣の国・根の国底の国・ニライカナイ(根来儀来)・黄泉の国、南方補陀落浄土・西方極楽浄土・東方瑠璃光浄土・寂光浄土などなど、いわゆる海上他界観も山上他界観もあることは古典文献からも民俗学的伝承からも知られる。
本学会が行なわれる本県(奈良県)は、大和国(山処国)と呼ばれたが、その実態は海のある摂津国と伊勢国との海山の間にあり、その山並みは春日山(三笠山)や三輪山はもちろん、吉野から熊野に跨る近畿の山脈を内包している。その吉野と熊野のちょうど中間地帯の奈良県吉野郡天川村坪ノ内に鎮座する神仏習合の神社が「弥山」(1895m)を奥山・奥宮として持つ「天河大辨財天社」である。中世には「吉野熊野中宮・金胎不二/男女冥会の妙地・霊地」と呼ばれた神仏習合文化の拠点天河大辨財天社や、熊野三山(本宮大社=素戔嗚尊=阿弥陀如来、新宮速玉大社・伊弉諾尊=薬師如来、那智大社=伊弉冉尊=観音菩薩)の信仰と他界観と自然風土を取り上げながら、本講演では、日本列島の風土の特質に根差した神道と仏教との関係と死生観について考えてみたい。
Shinさんは、昨今の「終活ブーム」に対して、「人生を修める」という意味の「修生」という在り様を提唱されていますが、わたしたち「天河護摩壇野焼き講」とそこでの「解器(ほどき)」作りなどは、まさしくそうした「修生」的活動の一つだと思っています。
天河護摩壇野焼き講の特色と二大提言
ホドキ(解器)制作は、現代の死生学実践である。
「世界一美しい」天河火間(窯)の造営
近畿地方における空間の「強弱」
火・水(KAMI)—新しい死生学への挑戦(著者:鎌田東二、近藤高弘)
天河護摩壇野焼き講
天河護摩壇野焼き講の窯出し
わたしは、この「ホドキ」ワークは、現代の死生学的実践であると思っています。この2年は、講の参拝は続けていますが、「護摩壇野焼き」の方は行なっていないので、来年からまた再開したいと思っています。一度機会がありましたら、ぜひご参加ください。毎年、2月2日の鬼の宿、3日の節分祭、4日の立春祭に参列して、3日の夕方に「護摩壇野焼き」を修めています。
ところで、一昨日の金曜日に、日比谷公園の日比谷図書文化館で、「言葉を求め、言葉を超える言霊の探究の旅〜私の修業時代」と題する講演をしましたが、その前に、上野で「縄文〜1万年の美の鼓動」展を見てきました。9月2日(日)までですから、ぜひ観てみてください。
いやあ〜。凄かった。縄文美。縄文芸術衝動。その造形力。デザイン力。発想力。多様性。実に見事です。この縄文の生命エネルギー、縄文の奔放、縄文の多様、縄文の過剰、縄文の根源、縄文の祈り・祭り・呪術、縄文が発信する超時間的未来、そのすべてが、わたしたちの想像力と野生力を刺激しますね。大変刺激されまくりました。
その刺激の眩暈の中で、「言葉を求め、言葉を超える言霊の探究の旅〜私の修業時代」という講演をしたのですが、わたしはまず、自分が専攻している2つの学問の特性からh話を始めました。
宗教哲学と民俗学という2つの学問は、対極的な「鳥の学問と蟻の学問」である。一方は空を飛ぶ学問、もう一方は地を這いずる学問。鳥瞰図と虫瞰図。形而上学と形而下学。超越と内在。越境と参入。飛び出ることと飛び込むこと。反対物の一致(Coincidentia oppositorum)、その2つがわたしにとって重要でした。
10歳まで、わたしは、民間信仰的な「オニ(鬼)」という言葉に呪縛され、可視と不可視、世界と視への違和感を感じつづけましたが、10歳、1961年=昭和36年に日本神話、『古事記』と出会い、神話の言葉に救われ、オニ(鬼)とカミ(神)との接続を見出すことができあ㎡した。そして、17歳、1968年=昭和43年3月に、四国横断・九州一周の旅をしてそこで、神話の言葉と青島及び青島神社とという場所が結びついていることを知り、詩の言葉が火山の爆発のように噴出してくる体験を持ちました。その後、1970年5月から6月にかけて1ヶ月間、大阪心斎橋のエルマタドールというクラブの2階で、「みなさん、天気は死にました」という狂言回しの不気味な開幕戦源から始まる「ロックンロール神話考」と題するアングラ芝居を上演しました。それは、イザナギ・イザナミの子探しの旅と少年少女探偵団の親探しの旅が交錯しながら、番場の忠太郎、デロリンマンなど、面白き人物・怪人たちと出会っていく奇想天外な物語ミュージカルでした。20代の探究室つづけた詩の言葉は『水神傳説』(泰流社、1984年1月)にまとまり、音楽・龍笛演奏の旅は今日のわが三種の神器(石笛・横笛・法螺貝)の奉奏まで続き、ようやっと昨年、博士論文『言霊の思想』(青土社、2017年7月刊)を出し、そして、今年、その言霊研究の実践編・実作編と言える第一詩集『常世の時軸』(思潮社、2018年7月17日刊)を出すことで、わが修業時代は一つの区切りを持ったというような話をしたのでした。
これ以降の、20代〜30代前半〜夢の言葉(ギリシャ・デルフォイでの霊夢体験)と学問の言葉(宗教言語の研究、詩的言語の研究)と天河神社宮司の言葉。33歳、天河との出会い。1984年4月4日、天河大辨財天社初参拝「ふとまにかがみ」、30代後半の宗教の言葉、1987年2月3日「魔」の体験と脳内爆発と「神主」修業と七面山からの春分の日の朝日体験。『スッタニパータ』を座右の書とする「この世とかの世とともに超える、ありのままに見つめる」こと。40代前半〜言葉の喪失〜1995年3月20日 44歳の誕生日の朝地下鉄サリン事件が起こる。オウム真理教事件の衝撃。ダブリン大学派遣(国際交流基金)『宗教と霊性』角川選書、1995年9月「魔の体験」の問題、そして罪責感。1992年、「天河曼陀羅」を始める。→『天河曼陀羅—超宗教への水路』(春秋社、1994年)。40代後半〜歌の言葉〜1997年5月〜6月「酒鬼薔薇聖斗(少年A)事件」と埼玉県大宮市大成中学校PTA会長、猿田彦神社巡行祭&おひらきまつり→1998年8月8日「神戸からの祈り」(メリケンパーク)、平成10年10月10日「東京おひらきまつり」(鎌倉大仏・高徳院)、東京自由大学設立趣意書1998年11月25日、1999年スタート。1998年12月12月「神道ソングライター」として初ステージ(浦和教育会館3曲「日本人の精神の行方」「探すために生きてきた」「エクソダス」)その後300曲以上を作詞作曲して歌う。50代へ〜夢の言葉〜2000年1月6日に1年後に死ぬという夢を見る。大宮に来ていた母にその話をし、死の準備をする。東京自由大学の基礎固め。博士論文執筆と提出(『記号と言霊』青弓社、1990年を元に修正加筆「言霊思想の比較宗教学的研究」して2000年11月に筑波大学に提出、2001年1月か2月公聴会→2017年に『言霊の思想』青土社として出版)2001年2月19日死ななかったこと。50代〜芸術の言葉〜2003年4月、武蔵丘短期大学から京都造形芸術大学へ転任。京都に拠点を移す。2006年10月、東山修験道を始める。以来約500回、比叡山に登拝。50代後半〜学問の言葉〜2008年4月、京都大学こころの未来研究センターに転任。元天台座主の河合隼雄さんに「京大に行っておもろい風を吹かせて」と唆される。60代前半〜言葉の喪失、東日本大震災後の2011年5月初東北被災地訪問。60代後半〜ケアの言葉〜2016年4月、上智大学グリーフケア研究所に転任。2017年7月、学位請求論文を『言霊の思想』(青土社)と題して上梓。1年後の2018年7月17日、人生の節目として2冊の本、第一詩集『常世の時軸』(思潮社)と柿坂神酒之祐天河大辨財天社宮司との共著『天河大辨財天社の宇宙〜神道の未来へ』(春秋社)を出し今なお修業中。
このその後の「修業」については藩士が出来ませんでした。わたしの人生は、このように、「犬も歩けば棒に当たる」人生=「犬棒人生」、「捕らぬ狸の皮算用」人生=トラタヌ人生「捨てる神あれば拾う神あり」人生=捨拾人生、だったと思います。本当に。
ところで、長くなりますが、13年前、2005年の「ムーンサルトレター第1信」に次のようにわたしは書いています。
(Shinさんの)近著には、愛の秘密や男と女の謎に迫る『結魂論——なぜ人は結婚するのか』、老いの理想と愉快な老後を考える『老福論——人は老いるほど豊かになる』(ともに、成甲書房)や、『ハートフル・ソサエティ——人は、かならず「心」に向かう』(三五館、2005年9月刊)があります。現在はサンレーの代表取締役社長として、全国のグループ拠点を忙しく飛び回る日々が続いています。
さて、一条真也=佐久間庸和さんの主張では、
① ハート化社会
② ハートビジネス
③ ハートフル
④ ハートピア
の4点が重要です。
①の「ハート化社会」は最新著『ハートフル・ソサエティ』でも展開されていますが、一条さんは、人類史における農業革命、産業革命、情報革命の三大革命の次に、社会は「情報化」から「ソフト化」へ、さらには「ハート化」へと移行すると考えます。「ハート化社会」とは、「人間の心というものが最大の価値を持ち、人々が私的幸福である『ハートフル』になろうとし、公的幸福である『ハートピア』の創造を目指す社会」で、現代社会は情報社会がさらに高度な心の社会に変化しつつある「ハート化社会」に向かっていると考え、そのビジネス展開を構想し積極的に事業展開しています。
それが、②の「ハートビジネス」です。ハートビジネスとは、「人を幸福にするビジネス」で、冠婚葬祭、ホテル、イベント、テーマパーク、リゾート、レジャー、エンターテインメント、アート、スポーツ、レストラン、ナイトスポットなどです。ハートビジネスは、人の心に働きかけ、感動を与え、病んだ心を癒します。つまり、「感動」と「癒し」のビジネス。この「ハートビジネス」が「ハート化社会」の産業の主流となってゆくと一条さんは主張するのです。
彼はまた、現在の産業を「7次産業」の観点から分類しています。第1次と第2次は農業、漁業、林業、工業などの生産産業。第3次は手や足などによる「筋肉サービス」で、代表的な業種は洗濯業、宅配業、運送業。第4次は装置産業。知恵によって開発して筋肉によって保守などをする「複合サービス」で、金融機関、私鉄、貸しビル、不動産業。第5次は知恵のサービス。教師、コンサルタント、システム、エンジニア、マスコミ、シンクタンク。第6次は情報サービス。レジャー施設業、映画会社、劇団、芸術家。そして第7次が宗教サービス。冠婚葬祭業、神社、寺院、教会。高次の産業になればなるほど付加価値が高くなるといいます。「ハートビジネス」は主に第6次と第7次の産業に集中すると言い、一条さんは予言します。「ハートビジネスとは人をハートフルにし、ハートピアを想起させる心のビジネスです。21世紀はハートビジネスの時代になるでしょう」と。
それでは、③の「ハートフル」とは何でしょう? 「ハートフル」とは、簡単に言えば、感動する心です。宗教、食事、芸術、娯楽、観光などは、人を「ハートフル」にする手法といえます。冠婚葬祭などの儀式もまた「ハートフル」の手法や機会となります。
一条さんの言葉を借りれば、「ハートフル」とは「心の満月」です。感動やこの上ない幸福感に包まれる時、「心の満月が突然現れ、人は自分の内側にある生命の源と触れ合っていると感じ」る。この心の満月が「ハートフル」で、それは心理学者エイブラハム・マズローが唱えた究極の幸福感である「至高体験」や、ロマン主義文学者や宗教家たちの説く「神秘体験」、また宇宙飛行士たちが遭遇した「宇宙体験」、そして死にゆく人々を強い幸福感で包むという「臨死体験」などとも深く関係します。「すべての人間はハートフルという幸福感のビックウェイブを持つサーファー」だ、と一条さんは言います。
その「ハートフル」な状態でいっぱいの心の理想郷が、「ハートピア」です。これには、天国や極楽などの「あの世の理想郷=ハートピア・ゼア」と、「この世における愛と平和の波動に包まれた心の共同体=ハートピア・ヒア」の二種があるとのことです。「ハートピア・ヒア」は、「幸福な人々がつながった心のネットワーク」で、「真の心の理想郷は、私的幸福である『ハートフル』と公的幸福である『ハートピア』が調和したときに初めて生まれ」るといいます。宮沢賢治が『農民芸術概要綱論』の序論で、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言うのも、「ハートピア・ヒア」の希求であるというわけです。
うーん、とすれば、一条さんは、現代の「白樺派」やね。わたしも最近、柳宗悦を読み直し、柳の仕事と白樺派を高く高く評価するようになりました。わたしのモットーは、「おもしろたのしのWay of Life」と「最大のピンチこそ、最大のチャンス!」です。
さて、わたしは、この10月15日・16日と伊勢の猿田彦神社で行なわれた「おひらきまつり」に例年と同じくコーディネーター役で参加しました(詳しくは、http://www2.convention.co.jp/sarutahiko/topics.htm)。10年近くこの「おひらきまつり」をして来て、学んだことも、楽しかったことも、いっぱいです。今年は、高良勉さんと高嶺久枝さん&琉舞かなの会のみなさんによる「龍宮からサルタヒコへ」の創作舞踊詩劇が奉納上演され、まさ「クムフラ」という最高位のフラマスターに成ったサンディさんの里帰り奉納公演が行なわれ、本当に本当に、深く深く感動しました。何度も何度も胸がジーンとなり、目頭が熱くなりました。まさに、「ハートフル・ハートピア・ハート化社会」の到来でした!
わたしは、そのおひらきまつりの初日の「野焼き祭り」の時に、次のような口上を奏上しました。
<野焼き祭り口上
猿田彦大神、天宇受売大神、太田命をはじめ、天つ神、国つ神、八百万の神々の大前に、謹んで口上を申し上げます。
平成17年、西暦2005年10月15日、深まりゆく秋の夕暮れ時に、節目の年の「おひらきまつり」の一環として野焼きまつりがかくもにぎにぎしくしめやかに斎行できますことを心より感謝申し上げます。
昨年来、台風、地震、洪水、津波、ハリケーンなど、自然の猛威が世界中に吹き荒れています。同時に、テロも戦争も止む気配はありません。自然界も人間界もともに、この時代の動乱を映し出しているように思います。それはまるで、鎌倉時代に、「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」とか、「朝に死し、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける」と鴨長明が無常感をもって『方丈記』に記したような、自然の災害と人間世界の災害が同時に起ってきていると感じずにはいられません。
そのような中で、わたしたちにできることは「まつり」の心と行為をこの時代の中で掘り起こし新たに編成することではないかと考え、猿田彦大神フォーラムとおひらきまつりの活動をかれこれ10年近く行なってまいりました。けれども、この10年で世界はよくなるどころか、自然環境面でも社会環境面でも動乱の相を露わにするばかりです。
しかし、そうであればあるほど、わたしたちは新しい希望の時代の到来を夢見、待ち、日々の行いの中で粘り強く実践していることを忘れてはならないと考えます。
「おひらきまつり」は、「開かれる未来神話」を旗印にして進めてまいりました。ネイティブ・アメリカンの人々が語る、「七世代先のことを考えて行動する」ことを目指し、未来の風を感じながら進めてまいりました。宮沢賢治は花巻農学校の「生徒諸君に寄せる」という詩の中に次のように書いています。
「未来圏から吹いて来る/透明な清潔な風を感じないのか/それは一つの送られた光線であり/決せられた南の風である」、「新たな詩人よ/雲から光から嵐から/新たな透明なエネルギーを得て/人と地球にとるべき形を暗示せよ」と。
わたしたちは、時代が暗く混乱していればいるほど、このような「未来の風」を待ち受け、感じ取る必要があるのではないでしょうか。
猿田彦大神フォーラムではこれまで8年にわたり研究助成事業を行なってまいりした。その研究助成を受け、その後も研究を重ねた方々は大きく羽ばたきさらに力強く活動を続けています。その方々が本年は一同に会し、旧交を温め、新たな飛翔を心に期しています。今年は、研究助成者の中から、沖縄の民俗舞踊と詩をコラボレイトした高良勉さんと高嶺久枝さんたちの創作舞踊詩劇がこの後、奉納されます。
またサンディさんは、6年前の1999年、おひらきまつりで奉納演奏し、その後「クムフラ」のマスターの修行に入る決意をされ、このたびめでたくそのマスターの資格を得て、このおひらきまつりに戻ってきて奉納演奏してくれます。関係者一同にとってこれほどうれしいことはありません。
「クムフラ」の「クム」とは「Source(源)」という意味だと言います。源に立ち帰り、大自然の恵みと育みを謙虚にそして素直に受け止め、そこから得た自然の叡智を未来に伝えていくこと。それは、まつりの精神と行為を未来に伝えていくこととまったく同じだといえるのではないでしょうか。
外なる世界が激しく動けば動くほど、内なる世界で静かに深く祈り、心を定めて生きていくことが求められます。その探求と誓いの場としておひらきまつりが実施できればこれに過ぎる喜びはありません。みなさん、これからも各地で祈りと祭りを通して、この荒ぶる戦乱の世に美しいいのちの輝きを刻印していこうではありませんか。
平成17年10月15日 猿田彦大神フォーラム世話人代表 鎌田東二>
戦乱の世にどのように「楽しい世直し」ができるか、それがわたしの課題です。ところで、この「野焼き祭り」では、音楽を大阪在住の音楽家・岡野弘幹さんが、陶芸野焼き先達を京都山科在住の陶芸作家近藤高弘さんがずっと務めてくれました。そこで、近藤高弘さんの紹介をしたいと思います。ぜひ一度一条さんに引き合わせたいな。
近藤高弘さんは、1958年、染付の伝統を現代に伝える京都の近藤家(祖父は染付の重要無形文化財保持者・悠三、父・濶)に生まれました。祖父の近藤悠三さんは人間国宝で、京都市立芸術大学の学長をも務められた方です。清水寺のすぐ下に、近藤悠三記念館が建っていますので、ぜひ一度訪れてみてください。
近藤さんは、とても鋭く繊細な銀河的な感覚を持っていて、伝統的な陶芸の枠を超えて、新たな芸術創造への挑戦を続けている現代アーティストです。彼はこの20年、「染付の青」の世界が象徴する「水」の持つ深い精神性や万象の表現を基本コンセプトに創作をしています。
万物が生まれ出る根源である火、水、風、土、という「四大元素」の思想に基づき、「土を媒介とし、火から水を創造する」という発想で仕事をしているのです。祖父、父から受け継いだ日本の伝統美を象徴する「染付」を学び、染付の青の世界を軸に、抽象・幾何学文様的に表現した『時空壺』、『次元陶筥』などの製作や、銀色の水滴が青の器体に降り注いだかのような銀とプラチナと金の合金を主成分とするオリジナル技法である「銀滴彩」の独自の表現世界を切り拓き、幻想的な『銀河』宇宙を創造してきました。
そして2002年9月から約1年間、文化庁派遣芸術家在外研修員としてスコットランドのエジンバラ国立美術大学大学院に在籍し、主にガラスとジュエリーについて学んだ後、日本独自の伝統である「接(つ)ぎ」の文化に根ざした磁器とガラスとの融合に挑み、新たな表現手段を試みています。近藤高弘さんはこのエジンバラ国立美術大学大学院修士課程を首席で修了し、修士号を取得しました。ほんとうにめでたいことです。
来月、「近藤高弘—陶からの道程—」と題した個展が銀座和光ホールで11月22日から30日まで開催されます。内容は近藤高弘さんのこの20年の芸術活動を回顧し、加えて新作を展覧するものです。旧作、新作を含め、80余点の展観となります。
たまには、昔書いたものを読み返して、今を脚下照顧することも必要ですね。天河との出会いを含め、Shinさんとの出遭いや、近藤高弘さんとの出逢いに、心より有難く思っています。
2018年8月26日 鎌田東二拝
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