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シンとトニーのムーンサルトレター 第131信

 

 

 第131信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、ご新著『世阿弥』(青土社)をご恵送下さり、ありがとうございました。早速、拝読いたしました。『世直しの思想』(春秋社)と並んで、Tonyさんの集大成的な作品であると思いました。とても面白く、340ページ以上を一晩で一気に読みました。そして、気分が異様にハイになりました。本を読んでトリップする経験は時々ありますが、「身心変容技法の思想」というサブタイトルのこの本そのものが「身心変容」の書なのかもしれませんね。

 わたしは「祭り」や「儀式」の発生について関心があるのですが、Tonyさんは同書で次のように述べています。「『神楽』という芸能的要素を交えて神々の御霊を慰め、怒りや崇りを鎮める所作、それが祭祀の原型であり、それが『天岩戸』という洞窟の前で行なわれた神々の祭り・儀式なのである。このような日本神話の記述からすれば、『天岩戸』という洞窟空間は死と再生という両極のはたらきと運動をもたらす両義的空間であり、墓場にして産屋、死と生の融合不可分の原初空間と言えるであろう」

 また、Tonyさんは「面白・楽し」という言葉について言及していますね。『風姿花伝』第四神儀篇の冒頭では「申楽」を「神代の始まり」の中に見て、世阿弥が「神楽」の始まりが「(天照)大神の御心をとらん」とすることであったと記しています。そのために「神楽」や「細男」などの芸能が始まったと主張しているのですが、それらの芸能の根幹には天照大神の光に照らされて「神たちの御面、白」くなったことが明確に記されています。「面白」とは、再生初源の開放時に、神の神聖な光が射してきて、それに照らされて、顔の面が白くなることを意味したのですね。そして、「楽し」とは、光を受けて体が自然に踊りスイングすることを意味したのですね。

 Tonyさんは、さらに「面白・楽し」について述べます。「このような『面白・楽し』の開放状態を実現するのが『祭り』であり『神楽』であり『芸能』である。したがって、『神楽』とは、神々と共に、草木までが一緒になって震え歓ぶ歓喜の時間である。そういう行為と状態を、古語で『タマフリ(鎮魂)』とも『ワザヲギ』とも言った。『タマフリ』とは魂を奮い立たせると同時に、魂を鎮めること。『ワザヲギ』とはその魂を招き寄せ、エンパワーメントしていくことである。こうして、『祭り』のワザが発現し、それが芸能の起源となったのである」

 能=申楽には、憑霊現象という「身心変容」や「身心変容技法」が演劇・舞踊的な様式の中で表現されている。これがTonyさんの主張で、以下のように述べています。「世阿弥が大成した能=申楽は、このような『身心変容』を重要な主題とした芸能であると言えるが、その本質は先に述べたように、『神楽』の精神を引き継いだ芸能であるというところにある。そしてその特徴としては、『面』を用いることと、舞台空間に『橋掛り』という、舞台と『鏡の間』をつなぐ通路が構造化された点が挙げられる。演技者はその『鏡の間』で、日常空間から舞台という非日常的な変身空間へと『身心変容』する。とすれば、演劇的に『身心変容』を構造化した空間が『鏡の間』となる。そこは、『身心変容』が生起する洞窟であり、『天岩戸』である。演者は、この洞窟=天岩戸のメタファーとなる『鏡の間』で、人の面や神の面を着けて(憑けて)、人とも成り、神とも成るのである」

 能における「鏡の間」の正体が洞窟であったとは! まさに度肝を抜かれた思いですが、『世阿弥』では洞窟がさらにさまざまな場面で重要な役割を果たしてきたことが述べられています。ブッダも空海も洞窟で修行しました。宗教的修行の重要な舞台となった洞窟について、Tonyさんは以下のように述べます。「洞窟は、カトリックにおける『ルルドの泉』を持ち出すまでもなく、世界各地で聖地霊場となるところが多いが、このような霊験譚が加わることによって今日まで霊験新たかな空間として連綿と保持されてきたところが少なくない。国土の75%近くを山林が占め、四方を海に囲まれた日本はどこに行っても洞窟がある。その洞窟が神話伝承の神聖空間となり、さまざまな儀礼や修行が行なわれる場所になることには必然がある」

 その日本における洞窟について、Tonyさんは「イザナミが赴いた黄泉国がある種の洞窟的な空間として描かれているようにも見えるのだが、それはまた古墳の玄室など、墓地の内部空間のイメージともつながっている。そして、そうした洞窟は死を孕みながら絶えることのない生の源泉ないし供給源としても思念された。そのことは、熊野(三重県熊野市)にある『花の窟』からもうかがい知れる」と述べています。

 そして、日本の洞窟といえば、なんといっても沖縄のガマが思い浮かびます。沖縄には琉球王国より特別な扱いを受けた「琉球八社」があります。波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・安里八幡宮・天久宮・金武宮の八社ですが、いずれも真言密教の影響が強いとされています。安里八幡宮のみ八幡神が祀られ、それ以外は熊野神が祀られています。

 この琉球八社のほとんどに「ガマ」と呼ばれる洞窟があります。
 たとえば、普天間飛行場のすぐそばにある普天間宮の奥宮が祀られている洞窟には、3000年前の土器が出土し、2万年前のシカの骨が出ています。普天間宮には、現在、熊野権現と琉球古神(日の神・龍宮神=ニライカナイ神・普天間女神=グジー神、天神・地神・海神)が祀られています。尚金福王から尚泰久王の時代(1450〜1460年頃)に熊野権現が祀られたといいます。エイサー踊りをもたらしたと言われる袋中上人の書いた『琉球神道記』(1605年)には、「当国大社七社アリ六処ハ倭ノ熊野権現ナリ一処ハ八幡大菩薩也」と出てきます。

 わたしは4月11日に普天間宮を訪れ、ガマの中にも入ってみました。いやもう、言葉にできないほどの感動をおぼえました。「儀式も神話も哲学も芸術も宗教も、すべては洞窟の中から始まった!」という直観を得ました。次回作の『儀式論』(弘文堂)では「空間と儀式」という一章を設け、洞窟における儀式の発生について述べたいと思います。



普天間洞穴にて

普天間宮の新垣宮司と
 さて、4月14日の夜、わたしはホテル・ニューオータニのインターナショナルレストラン「トレーダー・ヴィックス」に向かいました。この4月からTonyさんが上智大学グリーフケア研究所の特任教授に就任され、そのお祝い会が開かれたのです。同研究所の所長である島薗進先生も御一緒でした。島薗先生とわたしは生ビール、お酒を飲まない鎌田先生はペリエで乾杯しました。わたしたちは食事をしながら、大いに語り合いました。少し前まで島薗先生は東京大学教授、Tonyさんは京都大学教授でしたが、ともに日本の宗教学界のトップ2といってよい大物です。そのお二人が今は同じ職場におられるのですから、すごすぎます! なんでも、Tonyさんの初講義が13日に行われたそうですが、なんと350人の学生が集まって大教室が満員になったそうですね。その初講義の冒頭と最後に法螺貝を吹き鳴らして拍手喝采だったとか。やりますねぇ!

 お二人の会話は大学や宗教界をめぐる環境の話題から始まり、次第に熱を帯びてきて、カトリックの本質とか、ついにはグノーシス主義にまで言及されました。スウェデンボルグやシュタイナーとキリスト教の関係など非常にディープな議論も展開されて、昔からお二人の著書の愛読者であるわたしにはたまらない至福の時間となりました。そして、最後は日本におけるグリーフケアの在り方が熱く語り合われました。

 お二人の語り合う姿を拝見していると、まるで民俗学における柳田國男と折口信夫の対話みたいでした。いわゆる「龍虎」のオーラがありました。しかし、日本民俗学の草創期には実業界出身の渋沢敬三という方がいて、民俗学の発展に多大な貢献をされました。

 かの渋沢栄一の孫にして、大蔵大臣や日銀総裁まで務めた渋沢敬三を引き合いに出すなど不遜のきわみであることは重々承知していますが、わたしは「グリーフケア界の渋沢敬三」になりたいです。そして、グリーフケア学界と冠婚葬祭業界の架け橋になりたいです。それから、日本に「冠婚葬祭博物館」または「死生観博物館」を作りたいです!

 夜も更けてお開きの時間となり、最後にわたしが挨拶をさせていただきました。わたしは、「グリーフケア」という言葉や思想はカトリックから生まれたものであると思うが、日本におけるグリーフケアは土着的なものを無視することはできない。われわれの業界はグリーフケアの臨床現場というべき、日々、「愛する人を亡くした人」と接しており、ぜひこの経験を活かして、日本のグリーフケアの発展のお役に立ちたいと述べました。まずは、7月20日(水)に上智大学でわたしが2回講義を行うことが内定しました。心を込めて、グリーフケアについての考え方や想いを述べさせていただきます。



特任教授就任祝いの会のようす

鎌田東二が「面白」に!
 帰り際、店の出口のところでスリーショットを撮影したのですが、真ん中のTonyさんの顔だけがスポットライトの影響で白く光っていました。わたしはそれを見て「面白!」と叫びました。『世阿弥』に書かれていた「面白」のくだりそのものだったのです。とても有意義かつ楽しい夜でした。

 グリーフケアは、2011年3月11日の「東日本大震災」で一気に認知されました。2011年は「グリーフケア元年」などと呼ばれましたが、会食後、ホテルの客室に戻ってテレビをつけたところ、熊本でM6.5の地震が発生したことを知り、大変驚きました。テレビ局はすべてがこのニュースを報じており、事の重大さが伝わってきました。その緊迫感は、3・11のときを思い起こさせました。16日の未明には同じく熊本でM7.3の大地震が発生しました。1995年の阪神淡路大震災クラスです。

 このたびの地震により、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された方々の不安や心配や苦悩が少しでも軽減されることを心からお祈りいたします。わたしは2014年6月に冠婚葬祭互助会の全国団体である全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の会長に就任しましたが、その場所がまさに熊本でしたので、非常に複雑な心境です。今回の被害状況を踏まえ、全互連では人道的な見地に立ち、微力ながら可能な限りの支援を行わせていただくと同時に、一刻も早い復興を心よりお祈り申し上げます。

 また、一連の地震により、多くの人々が愛する人を失われました。親を亡くした人は過去を、配偶者を亡くした人は現在を、子を亡くした人は未来を、恋人・友人・知人を亡くした人は自分の一部を失うとされます。わたしは、東日本大震災後に培ったグリーフケアで、ぜひ熊本大地震の被災者の方々のお役に立ちたいと願っています。

2016年4月22日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 先だって、4月14日(木)の夜は、東京・四ッ谷のホテル・ニューオータニで、上智大学グリーフケア研究所の島薗進所長と共に、特任教授の就任祝いの席を設けていただき、心より感謝申し上げます。レストランは、何と言うか、バリ島を思い出すような、大変ゴージャスな「洞窟」空間でした。不思議な迷路のような空間で、おいしい料理をいただきながらゆっくりと3人でいろいろなお話しできて、大変嬉しく有難く思いました。これからも様々な協力関係を構築して、グリーフケアやスピリチュアルケアの日本における展開に注力して参りたく思いますのでよろしくお願いします。グリーフケア界の「澁澤敬三」と共に、「死生観博物館(冠婚葬祭博物館)」を上智大学グリーフケア研究所の研究展示施設として作るという構想、ぜひ実現させたいと思います。

 しかし、実は、われわれの楽しい面談が終わりに近づいていた4月14日21時26分頃、熊本でマグニチュード6・5、震度7の地震がありました。わたしはその夜、テレビもない、電話もない、新聞も来ない大宮にいましたので、熊本地震のことはまったく知らずにおりました。翌日の4月15日、上智大学中央図書館で行なった第47回身心変容技法研究会で初めてそのことをしったのでした。

 その16日未明の午前1時25分、ご存知のように、同じく熊本でマグニチュード7・3、震度7の地震が起こり、その後もかなり大きな余震が連続して起きており、各地で建物の倒壊などの被害が拡大しています。そして、14日以降、地震で亡くなった方々は40人を超えています。余震も1000回近くに及ぼうとしています。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表すと共に、避難生活を余儀なくされている大勢の皆様の健康と安定を心から願っています。

 初動1周間の段階ではまず人名救出が第一、次がライフラインの確立です。各所から救援隊が駆けつけ、炊き出しが行なわれました。知友の熊本県玉名市の名刹真言律宗蓮華院誕生寺の川原英照貫主さんたちも40年近いさまざまな救援救助ボランティア活動をされてきたので、早速炊き出し支援に入られたようです。

 それらの活動が一定の節目を迎え、避難生活などが中長期化する段階に至ると、第三段階で健康管理やリラクゼーションなどが重要な課題になってくると思います。もちろん健康管理は最初の段階から最重要課題ですが、それをどのように維持し回復していくことができるか、さまざまな喪失や傷を抱えている状態でのキュアやケアが大きな課題となります。

 その時点で何かできないかと、熊本県玉名市に住む「音の和プロジェクト」という音楽活動をしている友人の藤川潤司さん相談を持ちかけています。まだまだ救援支援でそこまで手が回らない状態かも知れませんが、避難生活や仮設住宅生活が中長期化すれば必ず必要になってくると思います。

 藤川潤司さんは、同じ熊本県玉名市にある、「肥後阿闍梨」と呼ばれる『扶桑略記』の著者の皇円上人(1074?−1156、皇円大菩薩)を本尊とする名刹・蓮華院誕生寺の川原英照貫主さんの娘婿に当たり、1996〜7年に、わたしが早稲田大学政治経済学部の非常勤講師をして「比較宗教学」などの授業をしていた時の受講生の一人でした。

 彼はその頃から「縄文サンバ」というユニークなエスニックバンドを作って活動し、結婚後もずっとパートナーと「音の和プロジェクト」というユニークな音楽活動をしています。ちなみに、玉名市で行なった結婚式の仲人をわたしたち夫婦がし、新郎新婦の披露宴会場入場の際には、わたしが法螺貝を吹いて新郎新婦を先導するというような実に面白くも斬新な試みをし、披露宴会場の真中にピアノやPAを置いて、新郎新婦や友人たち、わたしもそれぞれが祝福の演奏をしたりしました。いやあ〜、じつに、おもろかったです。一番楽しい結婚式やったなあ〜。

 そんな親しい経緯があったので、初動段階の人命救助やライフライン回復が一定の見込みが立った後、芸術芸能や気功やヨガなどの身心変容技法を通した「養生法」による文化〜身体支援ができないかと藤川潤司さんに相談したわけです。先にも書いたように、彼の義父の川原英照貫主さんは、認定NPO法人「れんげ国際ボランティア会」を組織してさまざまな活動をされています。


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 同会は、1980年、「蓮華院誕生寺難民救済会議」の活動から始まっているので、もう36年のボランティア活動の歴史を持っています。そことも連携しながら、熊本や大分などの被災者の方々に、音楽と映像や気功やヨーガなどでリラクゼ—ジョンができるような「音の和プロジェクト」をできないかと話し合っています。今、考えていることは次のような内容です。

1、藤川潤司さん・一紗さんの音楽や手伝ってくれる他のミュージシャンやわたしたちの音楽で慰問巡回する。
2、大重潤一郎映画の上映(大重潤一郎は、1946年鹿児島市生まれ、2015年7月22日死去。「久高オデッセイ第三部 風章」(製作:鎌田東二)が遺作となった)を慰問巡回上映していく。
①処女作「黒神」(約70分。1970年製作)〜桜島東部の黒神地区の開拓農民の厳しい日常とその中での安らぎや祭りを描いた60分余の名作。途中で家が土石流で呑み込まれる自然災害の場面がある。厳しい自然の中で自然を畏怖畏敬し感謝しながら慎ましく逞しく生きる人間の姿を描いている。
②阪神淡路震災後の問題作「光りの島」(約70分。1995年製作)〜神戸に自宅のあった大重潤一郎が、阪神大震災で被災し、その被災の中で、祈りと希望を託して編集し作り上げたいのちの根源を問う映画である。
③遺作「久高オデッセイ第三部 風章」(95分。2015年製作)〜沖縄の「神の島」と呼ばれた人口200人弱の島の日常と祭祀と自然を描くことでいのちの根源を深く問いかけ、自然の大きさと祈りや祭詞の深みを描き切る感動の名作である(ちなみに、この製作担当はわたしでした)。
3、わたしは科研「身心変容技法研究会」で2度京都大学に招いて国際シンポジウムやワークショップをしたこともある中国の気功界のホープの張明亮老師を院長とする「一般社団法人峨眉養生文化研修院」(峨眉派気功、2015年6月)の理事長を務めていいます。張明亮老師は、2015年に『気功の真髄』(DVD付、KADOKAWA)、2016年に『峨眉伸展功〜あなたの身体を呼び覚ませ』(BNP)を出版し、後者の序文をわたしが書いています。また身近なところにヨーガや瞑想法を指導するインストラクターもいろいろといます。そのような「身心変容技法」を避難生活を余儀なくされている方々のところに行って、例えば、峨眉気功で気血の巡りをよくし、エコノミー症候群などを防ぐ体ほぐしを行なうことを考えています(このようなことは、初期の気功の紹介者で指導者であった津村喬さんが阪神淡路大震災で行なっていました)。

 と、このように、周りのいろいろな人たちの力をつなぎ、また故大重潤一郎の映像などを活用して、支援活動ができないかと相談し、具体化していこうとしています。ぜひご意見やご提案やアドバイスなどお寄せくだされば幸いです。

 実は、1998年から活動を始めた「東京自由大学」も、このような災害時には相互支援の活動ができるようなネットワークとして始まりました。長文で恐縮ですが、1998年11月25日にわたしが書いた設立趣旨文を以下に貼り付けます。

 <二十一世紀の最大の課題は、いかにして一人一人の個人が深く豊かな知性と感性と愛をもつ心身を自己形成していくかにある。教育がその機能を果たすべきであるが、さまざまな縛りと問題と限界を抱えている既存の学校教育の中ではその課題達成はきわめて困難である。
 そこで私たちは、私たち自身を、みずから自由で豊かで深い知性と感性と愛をもつ心身に自己形成してゆくための機会を創りたいと思う。まったく任意の、自由な探求と創造の喜びに満ちた「自由大学」をその機会と場として提供したいと思う。
私たちは、特定の宗教に立脚するものではないが、しかし、宗教本来の精神と役割は大変重要であると考えている。それは、それぞれの歴史的伝統と探求と経験から汲み上げてきた叡知にもとづいて、人間相互の友愛と幸福と世界平和の希求と現実に寄与するものと考えられるからである。私たちはそれぞれの宗教・宗派を超えた、「超宗教」の立場で宗教的伝統とその使命を大切にしたいと願う。そして、人格の根幹をなす霊性の探求と、どこまでも真なるものを究めずにはいない知性と、繊細さや微妙さを鋭く感知する想像力や感性とのより高次な総合とバランスを実現したいと願う。
そのためにも、何よりも自由な探求と表現の場が必要である。自由な探求と表現にもとづく交流の場が必要である。
 そして、その探求と表現と交流を支えていくための友愛が必要である。探求する者同士の友愛の共同体が必要である。私たちが生活を営んでいるこの大都市・東京のただ中に、魂のオアシスとしての友愛の共同体が必要なのである。
 かくして私たちは、この時代を生きる自由な魂の純粋な欲求として「東京自由大学」の設立をここに発願するものである。
 「東京自由大学」では、「教育とは本質的に自己教育であり、自己教育は存在への畏怖・畏敬から始まる。教師とは、経験を積んだ自己教育者であり、それぞれを深い自己教育に導いてくれる先達である」という認識から出発する。そして、(1) ゼロから始まる、いつもゼロに立ち返る、(2) 創造の根源に立ち向かう、(3) 系統立った方法論に依拠しない、いつも臨機応変の方法論なき方法で立ち向かう、をモットーに、勇気をもって前進していきたい。組織形態、運動体としてはNPO(非営利組織)法下のボランタリー・スクール法人として運営および活動をしていきたいと準備している。
また地震など、災害・事件時のボランティア的な互助組織として機能できるように行動したい。自由・友愛・信頼・連帯・互助を旗印に進んでいきたい。みなさんのご参加を心待ちにしています。 一九九八年十一月二十五日  鎌田東二>

 こうして設立以来、18年の活動を、荻窪、西早稲田、神田と場所を変えながら継続してき、この3月で第1期の活動を終え、それとともにわたしは理事長を退任し、今は第2期(セカンドステージ)が始まっています。学長は初代が故横尾龍彦画伯(2015年11月23日に87歳で死去)、2代学長が海野和三郎東京大学名誉教授(天文学者、本年92歳)、そしてセカンドステージの第3代学長が島薗進東京大学名誉教授・上智大学グリーフケア研究所所長(宗教学者)です。

 先に、熊本地震に故大重潤一郎の映画を巡回上映していきたいというアイデアを書きましたが、大重潤一郎は2002年に設立したNPO法人沖縄映像文化研究所の理事長でしたが、同時に、当時わたしが理事長を務めていたNPO法人東京自由大学の副理事長も務めてくれていました。わたしたちは宮沢賢治とルドルフ・シュタイナーと大本の出口王仁三郎と柳宗悦を先達モデルとも指標ともして1998年に「東京自由大学」を設立したのでした。

 その1998年8月8日、わたしは大重潤一郎とともに阪神大震災後の鎮魂イベント「神戸からの祈り〜満月祭コンサート」を行ないました。そしてちょうどその準備のさ中の1998年5月から同時並行して、わたしたちは「東京自由大学」の設立準備を始めたのでした。映画監督の大重潤一郎のほか、ギャラリーいそがやの代表の長尾喜和子、画家の横尾龍彦、香禅気香道の福澤喜子、早稲田大学教授の池田雅之、西荻WENZスタジオ代表の平方成治、わたしの7人で設立についての話し合いの機会を持ち、設立趣旨、理念、姿勢、方向性、方法、組織、運営などについて意見交換し、そこでの合意をもとに、横尾龍彦を学長に推挙し、新たに作家の宮内勝典、山形大学教授の原田憲一、陶芸家の川村紗智子の10人を設立発起人とし、さらに賛同者22名と意見交換会を持ち、NPO法にのっとって非営利組織として活動していくことを確認し、新しい市民運動としての学校づくりをみんなが参加して行っていこうと話し合いました。これらの話し合いを持つ前の1998年11月25日にわたしは先に貼り付けた「東京自由大学設立趣旨」を書いたのでした。

 ご存知のように、平成に入ってからわたしは、「現代大中世論=スパイラル史観」を提示してきたので、地震も噴火もさまざまな異常気象も地球上の至る所で頻発してくる状況に入ったと覚悟していますが、だからこそ、自分たちの出来ることを小さなことでもいろいろとやって行かなければならないと心に期していますが、自然の大きさに対して、人間の活動の営みの小ささや遅々たる歩みを忸怩たる思いでかみ締めながら、しかしそれでもめげずにできることをやらねばと思っています。

 近著『世直しの思想』(春秋社、2016年2月刊)と『世阿弥—身心変容技法の思想』(青土社、2016年4月)は、そのような思いを一つの形にしたものですが、しかし状況に追いついていくどころか、どんどん事態は先に進行していきます。

 が、そうだとしても、めげずに、そこからやれることを汲み上げて参りますので、今後ともいろいろと協力させてください。よろしくお願いします。

 2016年4月23日 鎌田東二拝