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シンとトニーのムーンサルトレター 第173信

 

 

 第173信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、今回はムーンサルトレターをお送りするのが1日遅れてしまい、申し訳ありません。会社の行事などが続いて、満月の日をすっかり失念しておりました。今月の前半は社員旅行に2回も行きました。まずは、5日からサンレー北陸の旅行で飛騨古川・飛騨高山・下呂温泉に行きました。飛騨の古川町は大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」の舞台でもあり、わたしも聖地巡礼をしてきました。それから12日からはサンレー本社の旅行で糸島・唐津・平戸を巡りました・平戸では、田平天主堂や聖フランシスコ記念教会なども訪れました。北陸の旅行も、本社の旅行も夜の宴会では、わたしは北島三郎の「まつり」とTHE YELLOW MONKEYの「太陽が燃えている」を浴衣に黄金の法被姿で熱唱しました。おかげさまで、どちらも大盛り上がりでした。社員旅行に行くたびに、参加者の「こころ」が1つになることを実感します。

「君の名は。」の舞台・飛騨古川駅で

「君の名は。」の舞台・飛騨古川駅で下呂温泉の大宴会のようす

下呂温泉の大宴会のようす平戸の街を背景に

平戸の街を背景に平戸温泉の大宴会のようす

平戸温泉の大宴会のようす

 さて、先月27日に、『グリーフケアの時代』(弘文堂)が出版されました。「『喪失の悲しみ』に寄り添う」というサブタイトルがついています。上智大学グリーフケア研究所の所長である島薗進先生、同研究所の特任教授のTonyさん、そして同研究所の客員教授であるわたしの3人の共著です。今回、わたしはペンネームの「一条真也」ではなく、本名の「佐久間庸和」として執筆いたしました。

 同書の「まえがき」の冒頭を、島薗氏は次のように書き出されています。「大切な人の死によって、からだの一部をもぎとられたような衝撃を受けたり、心に大きな空白ができてしまったように感じ途方に暮れたといった経験をした人は多い。死別による悲嘆ということであれば、ある年齢以上の人なら見に覚えのあるのがふつうかもしれない。親やきょうだい(さらには、祖父母、おじおば、いとこ)との死別はごくふつうのことだが、逆に子どもの死に立ち会うのは辛い。親やきょうだいが死んだ子どもの辛さは代弁するのも困難だろう」

 続いて、「こうした喪失による重い悲しみを、グリーフとか悲嘆とよぶ。すぐに思い浮かぶのは、近しい他者との死別だが、生き別れ、大切な仕事や生活の場の喪失、誇りや生きがいの喪失など、悲嘆をもたらす喪失の原因はいろいろある。そして、悲嘆を抱えながらも、新たな生活の形へと向かっていける人もあるが、なかなかそれができない人もいる。また、悲嘆を人と分かち合うことができないために、胸がふさがれて苦しんでいる人もいる」と述べられています。

『グリーフケアの時代』(弘文堂)

『グリーフケアの時代』(弘文堂)

 同書の「あとがき」では、Tonyさんが、「グリーフケア(Grief Care)とは、さまざまな種類の喪失などによる悲嘆(グリーフ,Grief)に向き合い寄り添うケアのことで、広義のスピリチュアルケア(Spiritual Care)の一つである」と指摘された上で、次のように述べられています。「私はスピリチュアルケアを「嘘をつけない自分や他者と向き合い、対話的な関係を結び開いていく試みとその過程」と捉え、『スピリチュアリティ(Spirituality)』を、嘘のつけない、ごまかしのきかない、心の深みや魂の領域とはたらきだと考えてきたが、この領域は実に具体的でデリケートで簡単に割り切ることができないが、リアルかつ切実に迫ってくる。その、まことに難しく、しかし重要なケアの領域にしっかと連携しつつ三人三様のアプローチで問題提起したのが本書である。本書がこの時代の『グリーフ』の理解とケアに少しでも役立つところがあれば幸いである。」

 わたしは、「グリーフケア・サポートの実践」の章を担当しました。わたしの本業は、言うまでもなく、サンレーという冠婚葬祭互助会の経営です。長年にわたって多くの葬儀をお手伝いしてきましたが、愛する人を亡くしたばかりの方々に接する仕事は、けっしてビジネスライクな感情だけで済まされるものではなく、いつも魂を揺さぶられる思いを味わいます。なぜなら、死による別れは誰にとっても一生に一度のつらい経験だからです。その直後のご遺族をサポートさせていただく中で、筆者は数多くの悲嘆を目撃してきました。食事も喉を通らず、まどろむことさえできず、日夜ひたすら亡くなった方のことばかり考え、葬儀が終わるまでご遺体のそばから離れようとしないご遺族、涙が枯れ、喉が嗄れてもなお、体の奥からわき上がる嗚咽を止められないご遺族・・・目の前にそのような方たちがいれば、なんとか支えたい、励ましてさしあげたいと願うのは、人間にとってとても自然な感情であると思います。

 悲嘆の中にいるご遺族に、何かしら心のケアをできないだろうか。そう考えていたところ、20世紀が終わる頃に「グリーフケア」という言葉に出合いました。愛する人を亡くした悲しみ(グリーフ)をケアする、これこそが自分たちにできる最高のサービスかもしれない、と直感したのです。しかしながら、冠婚葬祭互助会や葬儀社に代表される葬祭業によるグリーフケアの活動に対しては、営利目的の営業活動としてとらえられるおそれがあるのも事実です。冠婚葬祭互助会としてグリーフケアのサポート活動に取り組むことの難しさは、つねづね感じるところです。

 同書で、わたしは「ケアとしての葬儀の取り組み」「ケアとして遺族会の役割」「ケアとしての『笑い』」「ケアとしての『読書』」「ケアとしての『映画鑑賞』」について詳しく述べました。「月あかりの会」や「うさぎの会」などの自助グループの内容と活動を紹介しました。また、わが社のグリーフケア・サポートおよび隣人交流サポートでは、毎月、漫談家を招いて「笑いの会」を開き、半年に一度は落語家を招いて大規模なイベントを開催していることを紹介しました。

 そして、もちろん本業である葬儀や法事法要のお手伝い・・・思うに、あの手この手で「喪失」の悲しみに寄り添うサンレーは、グリーフケア・サポートの実践集団ではないかと自負しています。これからも理論と実践を両立させ、多くの方々の「悲しみに寄り添う」ことのできるグリーフケア企業を目指したいです。

 それから、今月1日、Tonyさんの新著『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)がついに刊行されましたね。『常世の時軸』『夢通分娩』に続く第三詩集で、「神話詩三部作」が完結しましたが、「詩人」としてはしばらく「休火山」とし、溜まっている論文や本の執筆に注力されるとか。しかし、あくまでも「休火山」であり、「死火山」ではありませんよね。

『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)

『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)

 Tonyさんはご自身の詩のことを「神話詩」と表現されていますが、本当に古代の神々の世界とつながっているような、また宇宙のかなたに通じているような、不思議な味わいの詩の数々は「神話詩」と呼ぶにふさわしいと思います。『狂天慟地』には、「愛隣星雲」とか、「天地交差点」「龍巻御前」「誤界」といった、謎めいていて洒落た造語が次から次に飛び出してきます。前作の2冊にも増して、言葉のリズムが冴えており、詩人としてパワーアップした感あり。ありおりはべりいまそかり! 

 特に、帯のキャッチコピーにもなっている「みなさん天気は死にました」が素晴らしいです。わたしは九州に住んでいますが、ここ数年、九州を襲う豪雨のニュースには必ず「記録的な大雨」とか「観測史上初」などの形容詞がつきます。まさに異常気象を超えた「狂天」といった印象ですが、「みなさん天気は死にました」という神の啓示にも似た言葉に今から50年も前に接しておられたとは驚きです。また、この「みなさん天気は死にました」という詩を冒頭に置くこの詩集が、「君の名は。」に続く新海誠監督の大ヒットアニメ「天気の子」の上映中に刊行されたというのもシンクロニシティですね。わたしへのメールで、Tonyさんは、この天然自然の中でしか、「人間尊重」は成り立たないこと、「自然感謝」が根底であり、先にあって、謙虚な人間尊重が成り立つと書かれていましたが、わたしもその通りだと思います。人間中心主義の、「人間の、人間による、人間のための人間尊重」であってはなりません。「自然への畏怖畏敬と感謝に基づく人間尊重」でなければ!

映画「天気の子」のポスター

映画「天気の子」のポスター

 わたしは「人間尊重」の究極の「かたち」は葬送儀礼であると考えているのですが、「みなさん天気は死にました 2」には、「みなさん天気は死にました 葬儀を行なう人はいませんか? どんな葬式必要ですか? いのりいのりいのりです みなさん天気は死にました」という言葉が出てきます。ここに出てくる「みなさん天気は死にました 葬儀を行なう人はいませんか? どんな葬式必要ですか? いのりいのりいのりです みなさん天気は死にました」という言葉には、驚きました。わたしには、その名も『葬式は必要!』(双葉新書)という著書がありますが、「どんな葬式必要ですか? いのりいのりいのりです」というTonyさんの言葉には、まったく同感です。葬式はどんなに質素であっても、どんなスタイルであっても構いません。何よりも大切なのは死者への「祈り」です。いくら高価な祭壇が飾られ、立派な宗教者が立ち会おうとも、そこに参列者の「祈り」がなければ、何の意味もありません。まさに、「いのりの葬式は必要!」なのであります。

 それから、わたしは、天気と葬式には深い関係があると考えています。「工」という漢字がそれを表現しているのですが、「工」の上の「一」は天のことで、下の「一」は地のことです。それらを繋ぐタテの「Ⅰ」は人のワザであり、ARTを意味します。「雲」という漢字と「霊」という漢字は似ていますが、もともと語源は同じであったと考えられます。そして、天の「雲」を地に降ろす営みが雨乞いであり、地の「霊」を天に上げる営みが葬儀なのです。ちなみに、儒教の発生には雨乞いが深く関わっています。儒教の「儒」という字は「濡」に似ていますが、これも語源は同じです。ともに乾いたものに潤いを与えるという意味があります。すなわち、「濡」とは乾いた土地に水を与えること、「儒」とは乾いた人心に思いやりを与えることなのです。

 儒教の開祖である孔子の母親は雨乞いと葬儀を司るシャーマンだったとされています。雨を降らすことも、葬儀をあげることも同じことだったのです。なぜなら、雨乞いとは天の「雲」を地に下ろすこと、葬儀とは地の「霊」を天に上げることだからです。その上下のベクトルが違うだけで、天と地に路をつくる点では同じなのです。母を深く愛していた孔子は、母と同じく「葬礼」というものに最大の価値を置き、自ら儒教を開いて、「人の道」を追求したのです。ですから、拙著『唯葬論』(サンガ文庫)でも強調したように、葬儀は人類にとっての最重要行為なのです。ちなみに、同書の解説はTonyさんが書いて下さいましたよね。身に余る、素晴らしい解説でした。本当に、ありがとうございました。

 『狂天慟地』の「あしはらなかくに 2」には、「中山みきは中島みゆきと同じこと 心の汚れを歌い取る」という言葉が出てきます。天理教の開祖とニューミュージックの女王を並べるTonyさんのブッ飛んだ言語センスに膝を叩きながらも、Tonyさんの詩集もまた「お筆先」なのだと悟りました。「かっちょはん」というTonyさんの少年時代の印象的な記憶にもとづく詩では、そこに登場する全裸で畑の大根を引き抜き、精神病院で亡くなった女性の姿がありありと目に浮かんできて泣けてきました。詩作によって彼女の供養になったと思います。それにしても、ものすごい三部作が完成したものです。わたしは、とんでもない人と14年以上も文通している事実に改めて驚きました。最後に、休火山が再び活火山となって、詩人・鎌田東二が復活し、その詩魂が噴火する日を心待ちにしています。それでは、次の満月まで、ごきげんよう!

2019年9月14日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 ムーンサルトレター、ありがとうございます。また、島薗進上智大学グリーフケア研究所所長と3人で書いた『グリーフケアの時代〜「喪失の悲しみ」に寄り添う』(弘文堂、2019年8月30日刊)の共著作業、本当にありがとうございました。おかげで、上智大学グリーン研究所三人男で「グリーフケア」についての本を出すことができましたことを心より感謝申し上げます。出雲から八雲号に乗って岡山経由で京都に帰る特急電車の中で、このレター返信を書き始めます。

 サンレーは今も社員旅行を大切に行なっているのですね。社員旅行は、社員交流や社員研修の良い機会となりますよね。わたしもNPO法人東京自由大学を理事長として運営していた頃は、春と夏の年2回の研修を兼ねた合宿を大事にしてきました。旅をしながら人と交わり、風土を感受し学び、その中から自覚と覚悟を新たにするということは、定期的に行なう必要があると思います。一種の「いのちの洗濯」です。

 さてこの3日間、わたしは、美保神社、佐太神社、加賀の潜戸、神魂神社、石宮神社、荒神谷遺跡、立石神社、猪目洞窟、御陵神社、命主社・磐座、熊野神社、日御碕神社、稲佐の浜、出雲大社、古代出雲歴史博物館、万九千神社などを参拝してきました。出雲巡礼です。中日の一日は、「巨石ハンター(巨石の聖地のカメラマン)」の親しい友人・須田郡司さんと一緒でした。特に、須田郡司さんの家(ベジカフェ「まないな」)から徒歩3分のところにある「いのちぬしのやしろ(命主社)」と真名井は出雲信仰の要であり、「いのちの洗濯」の核心の神社と泉だと思います。

 出雲への巡礼に出る直前に平凡社新書で出す『熊楠と賢治—二人のM・Kのメッセージ』を脱稿し、身も心も魂も軽くなりました。これは、2017年12月から2018年1月にかけて、3度にわたり開催したNPO法人東京自由大学のゼミ「森の守護者 南方熊楠」の講義録を元にまったく新たに書き下ろしたものです。東京自由大学での講義はゆったりと楽しみながら存分に展開できましたが、しかし今回の書下ろしは実に難儀しました。構成も論点も事例も3/4まで出来ていたにもかかわらず、3ヶ月間、まったくほったらかし状態で、編集者からは矢の催促なのに完全育児放棄のようなありさま。これには我ながらどうしたもんかな、と思っていました。

 なぜこれほど遅れたのか。その原因ははっきりしています。それは、Shinさんも書いてくれた詩集の方に全力を注いでいたからです。この1年で、わたしは3冊の詩集を出しました。第一詩集『常世の時軸』(思潮社、2018年7月17日刊)、第二詩集『夢通分娩』(土曜美術社出版販売、2019年7月17日刊)、第三詩集『狂天慟地』(土曜美術社出版販売、2019年9月1日刊)の3冊です。これで「神話詩三部作」は完結しました。7月17日は、天河大辨財天社の例大祭の日、9月1日は関東大震災が起こった日です。

 大げさですが、この神話詩三部作は「遺作」や「遺言」のつもりで出版しました。特に、「みなさん 天気は死にました」で始まる第三詩集『狂天慟地』はそうです。テーマは、破局に向かいつつある世界と社会の中をどう生き抜くか、死ぬか、覚悟し、未来につなぐか、です。

 わたしは、今から52年前、17歳の高校2年から3年になる時に青島に行きましたが、この時の衝撃により、突然、火山弾を口から噴き出すように、詩を書き始めました。それから51年、折に触れて詩を書き継いで来ましたが、その一方で、詩と言葉の問題を、筑波大学に提出した博士論文『言霊の思想』(青土社、2017年6月)にまとめ、その後、続けさまに上記の3冊の神話詩三部作の詩集を出したのでした。

 第一詩集『常世の時軸』に出てくる「常世の時じくのかくの木の実」とは、エデンの園の「いのちの木の実」の神道版(記紀神話)伝承で、その「時じくの実」が今ないけれども存在論的にありうるという否定神学的メッセージが第一詩集です。誰もそう思わないと思うけど……。第二詩集『夢通分娩』は、その時軸と接続・交感できるのは「夢通」回路で、それによって誰しも「分娩」する世界に参入・交感することができるけれども、その世界との接続はわたしたちの器によって変わるので、苦悩も喜びもそこに生起することを描きました。多くの人はそう受け止めないだろうけど……。そして最後の第三詩集『狂天慟地』は一連の神話詩三部作でもっとも訴えたかったところで、この30年の地球環境の大変貌の中での生老病死のペインと希望を描いています。そしてそれは、神話時代からの遺産を受け継ぎながら劣悪化してきた時代状況の今をどう生きるかという問いと探究になっています。そう感じ取る人がどれくらいいるかよくわからないけど……。神話はわたしの中では「いのちの枢軸」ですが、神話と儀礼と聖地につながることがわたしにとっての「いのちの確認」であり、「いのちの洗濯」です。

 その「いのちの確認」と「いのちの洗濯」を今回の出雲巡礼で行なったと思います。かつて、1997年9月に細野晴臣さんや三上敏視さんたちと一緒に、久高島に渡ることから猿田彦大神ゆかりの地を巡る猿田彦神社「巡行祭」という祭りを行ないました。わたしが久高を最初に訪問したのは1990年前後ですが、その数年後に細野さんたちと共に久高に渡し祈りを捧げたことも一つの機縁となり、大重潤一郎さんが記録映画「久高オデッセイ三部作」を撮る時に製作を担当することになったのも必然的な縁だったと思っています。

 ともあれ、22年前の1997年9月末のほぼ今頃に、「巡行祭」で加賀の潜戸や佐太神社に巡拝していたのですよ。今回、その巡行祭コースを再度辿り直しました。感慨深いものがあると同時に、改めて、平成から令和に元号が変わったこの年に、神道とは何か、日本とは何か、日本文化とは何か、ヤポネシアとは何かを考えさせられました(2020年10月10日・11日に、久高島で杉崎任克さんや比嘉真人さんたちと「ヤポネシア音楽祭」を実施する予定です)。そして3日間の初日の夜には、佐太神社で「佐陀神能」を初めて観て、大変感動しました。音楽的にも、舞踊的にも、振り付け的にも。22年前、佐太神社を猿田彦神社巡行祭の面々と共に訪れて奉納演奏し、朝山宮司さんに大変お世話になりましたが、その宮司さんも当年88歳になられました。宮司さんのお孫さんが佐陀神能に出演して頑張っているのを見ることができたのも嬉しいことでした。

 美保神社、加賀の潜戸、佐太神社は、それぞれに神さびた奥床しい趣きを持っていましたね。そしてそれぞれ実にディープです。考えるべきことが山ほどありました。たとえば——
1、出雲の国作りと国譲り
2、大国主神と子神・事代主神(美保神社の祭神)や建御名方神(諏訪大社の祭神)
3、毎年4月7日に行なわれる美保神社の青柴垣神事の意味
4、加賀の潜戸と佐太大神誕生神話の意味、また佐太大神と猿田彦大神との関係
5、地質学と神話学との接続点
6、『出雲風土記』(天平5年:733年)の「国引き神話」(「国来、国来」とプレート運動)
7、佐太神社の神々と佐陀神能の斬新な面白さ
8、出雲神在祭の発生と展開
9、出雲地方の歌文化と琴文化とイワクラ文化
10、いのちの国としての出雲が死の国出雲である理由
などなど、です。

加賀の潜戸

加賀の潜戸加賀の潜戸の佐太大神の誕生岩

加賀の潜戸の佐太大神の誕生岩加賀の潜戸

加賀の潜戸加賀の潜戸と的島

加賀の潜戸と的島加賀の潜戸:仏の洞窟

加賀の潜戸:仏の洞窟佐陀神能「八重垣」の八岐大蛇

佐陀神能「八重垣」の八岐大蛇

 初日の夜8時から9時半まで、佐太神社舞殿において「佐陀神能」の三演目を観ました「八幡、八乙女、八重垣」とすべて「八」が付く演目です。中でも、能の小鼓を用いる「八幡」の音楽性の斬新な妙に感服し、それ以上に、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する「八重垣」の構成の面白さと舞踊的妙味に感嘆・感動し、唸りました。凄い! おもろい! 斬新!

 とにかく、八岐大蛇がとびきり面白い。どっか、西表島で見たアカマタ・クロマタをほうふつとさせるような妖怪性と電撃的な震えが「ちはやぶる神」のちはやぶる神聖エネルギーを発現していて、神々しくもダイナミックでした。ヤマタノオロチが単なるモンスターではなく、神聖エネルギーであることの存在性と象徴性をいやというほど感じました。だからこそ、「草薙の剣」の原所有者でもあるわけですよ。もちろん、その八岐大蛇を退治することができたスサノヲは、さらなる神聖エネルギーの体現者であり、統御者です。だからこそ、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」の歌の創始者となることができたのです。

 ともあれ、佐陀神能「八重垣」は、素晴らしい演出、振り付け、構成でした。佐太神社のHPには次のようにあります。http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=4206

<八重垣:素盞鳴尊(すさのうのみこと)の八岐大蛇退治を題材にした演目です。

前段 素盞鳴尊に仕える臣下が登場し八重垣の由来を物語り、御垣の前に毒酒を置き、素盞鳴尊は御垣の横に身を隠します。

後段 毒酒を飲んだ大蛇は、素盞鳴尊に退治されます。このとき大蛇の尾先から天叢雲剣が出てきます。その後、日本武命によって東夷征伐に用いられ草薙の剣として熱田神宮に納めたれたことを物語ります。>

 いやあ〜、すごかった、すばらしかった、すてきだった。もっと見たい、知りたい、味わいたい。

 ところで、9月1日に第三詩集『狂天慟地』を出したので、その詩の世界を詠う夕べ「天空教室2」を、先回同様、北鎌倉円覚寺塔頭龍隠庵で11月15日(金)夜に行ないます。お忙しいと思いますが、秋の十八夜の一夜、もしお時間がありましたらぜひご参会ください。これにて神話詩三部作が完結しましたので、しばらく詩作は中断し、溜まっている本や論文の執筆に集中しますので、詩の朗読会からは遠ざかります。


天空教室第2講:龍吟雲起3 『狂天慟地』を詠う夕べ
 4月19日(金)満月夜、7月19日(金)17夜、北鎌倉の名刹円覚寺塔頭・龍隠庵において、「龍吟雲起1・2」を行ないました。2回目は「天空教室」開講式を兼ねて開催しました。いずれも、鎌田東二第一詩集『常世の時軸』(思潮社、2018年7月刊)、第二詩集『夢通分娩』(土曜美術社出版販売、2019年7月)を朗読することを中心に、その芸能的表現や鼎談などを交えて行ないました。

 このたび、9月1日に、第三詩集『狂天慟地』(土曜美術社出版販売)を上梓し、これにより「神話詩三部作」が完結しました。そこで、これまでの活動を踏まえて、「神話詩三部作」完結篇朗読会を開催させていただきます。ぜひ、11月15日(金)の18夜(居待ち月)、ご参会いただければ幸いです。

 「狂天慟地」とは、言葉としては「驚天動地」のもじりであり、言い換えではありますが、昨今の地球の声をわたしなりに感受し、表現したものです。この30年近く、地球世界は「狂天慟地」、すなわち「天気狂い、大地が慟哭する」(天狂い、地慟(な)く)世界に日々変貌していっているように思います。

 スサノヲやサルタヒコの嘆き、オルフェウスの悲しみ、ノアやモーゼや預言者たちの危機感、大乗菩薩たちの企投、さまざまな神話や物語や宗教的言説を織り込みながら、全33篇の詩篇を展開しました。 今回は、「狂天慟地」する世界を先回同様十字架のヨハネの神秘主義研究者の鶴岡賀雄さん、「狂(覚)」の禅味を体現する太田周文和尚さんとわたしの3人で、「狂天慟地」する世界の中での生老病死について語り合います。そしてそこにスタッフ仲間の芸能朗読朗唱や音楽家で映画監督の金大偉さんの音連れが加わります。ぜひ11月の居待ち月の一夜、龍隠庵の「狂天慟地天空教室」をお楽しみください。
             2019年9月8日 天空教室塾長・鎌田東二

龍隠庵「天空教室2 龍吟雲起3 『狂天慟地』を詠う」
日程:2019年11月15日(金)18時〜21時(開場17時30分)
場所:北鎌倉円覚寺塔頭・龍隠庵(JR北鎌倉駅より徒歩5分、鎌倉市山ノ内450)
開会挨拶 石毛教子(天空教室世話人)
『狂天慟地』第一部10篇詩朗読 鎌田東二+松倉福子(ヨガインストラクター)
芸能朗読 『狂天慟地』第二部散文詩7篇朗読芸能表現 石毛教子・鳥飼美和子(気功家)・井上喜行(東慶寺生) 音:金大偉(音楽家・映画監督)・鎌田東二
15分休憩
鼎談<「狂天慟地」する世界における生老病死術> 鶴岡賀雄東京大学名誉教授(宗教学者・十字架のヨハネ研究者)+太田周文和尚(龍隠庵住職)+鎌田東二
金大偉ソロ
『狂天慟地』第三部15篇詩朗読 中村恵子(東京ノーヴィーレパートリーシアター)+鎌田東二
閉会の辞 石毛教子・高木祐子土曜美術社出版販売社長・太田周文住職


 今回も、第二詩集『夢通分娩』同様、カバー絵とチラシを門前斐紀さん(京都大学・教育学博士)が作成してくれました。

 また、12月2日(月)13時30分〜16時45分に、上智大学大阪サテライトキャンパス(梅田から徒歩5分のカトリック教会の2階)「聖地と文学〜聖なる場所の想像力」と題する講座を開催します。これも、今回の出雲巡礼のテーマを現時点で深め、展開するものです。

 この秋、ハチャメチャであろうがなかろうが、次なるステージに踏み出していきたいと思います。今後とも何があろうとも、いっそうよろしくお願いします。

 2019年9月16 鎌田東二拝

天空教室 第2弾 龍吟雲起3 『狂天慟地』を詠う夕べ

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天空教室 第2弾 龍吟雲起3 『狂天慟地』を詠う夕べ
聖地と文学 聖なる場所の想像力

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