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シンとトニーのムーンサルトレター 第125信

 

 

 第125信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、お元気ですか? わたしは今、金沢に来ています。今日、東京から北陸新幹線かがやき529号に乗って金沢に入りました。明日は朝からサンレー北陸の社員旅行に出かけ、夜は長野県下伊那郡那智村の昼神温泉に宿泊いたします。ここのところ1日の休みもない慌ただしさだったので、久々に温泉でリラックスできるのが楽しみです。

 さて、わたしは日本で最初の総合週刊誌である「サンデー毎日」にコラムを連載することになりました。「一条真也の『人生の四季』」のタイトルで冠婚葬祭や年中行事などの日本人のココロのカタチを毎週取り上げる内容ですが、10月18日号(6日発売)から連載がスタートしました。儀式というものには人間を幸せにするさまざまな仕掛けが込められています。それらの秘密を解き明かしながら、人生を豊かに生き、人生を美しく修めるヒントのようなものを書き記していきたいと思っています。

「サンデー毎日」10月15日号

「サンデー毎日」10月15日号
 「サンデー毎日」は1922年(大正11年)に大阪毎日新聞社の新社屋落成の記念に創刊されました。ちなみに、日本最初の日刊紙は1870年(明治3年)に創刊された「横浜毎日新聞」で、72年には「東京日日新聞」(現在の毎日新聞)が創刊されています。
 「サンデー毎日」の現在の連載執筆陣には五木寛之、なかにし礼、椎名誠、保阪正康、牧太郎、泉麻人、中野翠、青木理、阿木燿子といった、そうそうたる方々が名を連ねています。このような方々の仲間入りをさせていただけるとは夢のようで、身の引き締まる思いです。とはいえ、わたしの使命は単に面白いコラムを書くことではなく、儀式文化の素晴らしさを多くの読者に伝えることでしょう。

 日本には「春夏秋冬」の四季があります。わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅です。セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれません。そして、それはそのまま、人生を肯定することにつながります。未知の超高齢社会を迎えた日本人には「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められます。それは、とりもなおさず「人生を修める覚悟」でもあります。多くの方々がその覚悟を得るきっかけとなる文章が書ければ嬉しいです。

 「サンデー毎日」10月25日号に掲載された連載第2回目では、Tonyさんとわたしの共著である『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)を紹介させていただきました。当ムーンサルトレターの第61信から第120信までをまとめた本ですが、記事を読んだ方々からはかなりの反響がありました。なにより、満月の夜に10年間も文通しているというわたしたちのルナティックぶりに驚かれたようですね(苦笑)。京都大学こころの未来研究センターの公式HPでも記事を御紹介いただき、光栄です。

 それから、22日には拙著『和を求めて』(三五館)を上梓いたしました。わたしの著書・監修書をあわせて、ちょうど80冊目の本になります。「なぜ日本人は平和を愛するのか」というサブタイトルがついています。「歌舞伎」「能」「利休」「富士山」「桜」「天皇陛下」「古事記」「空海」「大相撲」「おもてなし」「京都」「金沢」「高野山」といった、さまざまなテーマを取り上げながら「日本人とは何か」を追求した内容であり、『礼を求めて』および『慈を求めて』(ともに三五館)の続編です。帯には「戦後70年、日本の心が世界を救う」「『和』は大和の『和』であり、平和の『和』である!」と書かれ、和服を着たわたしの写真が使われています。着物は父から譲られた大島ですが、松柏園ホテルの茶室で撮影しました。小笠原流礼法宗家であった故小笠原忠統先生が設計に携わられた由緒ある茶室です。和服を着ると「自分は日本人なのだ」と強く自覚され、身が引き締まるような思いがします。

刊行された『和を求めて』

刊行された『和を求めて』
 「和」は日本文化のキーワードです。陽明学者の安岡正篤によれば、日本の歴史には断層がなく、文化的にも非常に渾然として融和しているといいます。征服・被征服の関係においてもそうです。諸外国の歴史を見ると、征服者と被征服者との間には越えることのできない壁、断層がいまだにあります。しかし日本には、文化と文化の断層というものがありません。天孫民族と出雲民族とを見ても、非常に早くから融和しています。
 Tonyさんには「釈迦に説法」ですが、三輪の大神神社は大国主命、それから少彦名神を祀ってありますが、少彦名神は出雲族の参謀総長ですから、本当なら惨殺されているはずです。それが完全に調和して、日本民族の酒の神様、救いの神様になっているのです。『古事記』や『日本書紀』を読むと、日本の古代史というのは和の歴史そのものであり、日本は大和の国であることがわかります。

 「和」を一躍有名にしたのが、かの聖徳太子です。太子の十七条憲法の冒頭には「和を以て貴しと為す」と書かれています。聖徳太子は、574年に用明天皇の皇子として生まれました。本名は「厩戸皇子」ですが、多くの異名を持ちます。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、622年に没しています。内外の学問に通じ、『三経義疏』を著わしたとされます。また、仏教興隆に尽力し、多くの寺院を建立すしました。平安時代以降は仏教保護者としての太子自身が信仰の対象となり、親鸞などは「和国の教主」と呼びました。しかし、太子は単なる仏教保護者ではありません。その真価は、神道・仏教・儒教の三大宗教を平和的に編集し、「和」の国家構想を描いたことにあります。

 日本人の宗教感覚には、神道も仏教も儒教も入り込んでいます。よく、「日本教」などとも呼ばれますが、それを一種のハイブリッド宗教として見るなら、その宗祖とはブッダでも孔子もなく、やはり聖徳太子の名をあげなければならないでしょう。

 聖徳太子は、まさに宗教における偉大な編集者でした。これはTonyさんの一連のご著書によって学んだことですが、聖徳太子は「儒教によって社会制度の調停をはかり、仏教によって人心の内的不安を解消する。すなわち心の部分を仏教で、社会の部分を儒教で、そして自然と人間の循環調停を神道が担う」という3つの宗教の役割分担を実現させました。まさに宗教間の平和分担ともいえる「和」の宗教国家構想を説いたのです。この太子が行った宗教における編集作業は日本人の精神的伝統となり、鎌倉時代に起こった武士道、江戸時代の商人思想である石門心学、そして今日にいたるまで日本人の生活習慣に根づいている冠婚葬祭といったように、さまざまな形で開花していきました。

 十七条憲法の根幹は「和」です。しかもその「和」は、横の和だけではなく、縦の和をも含んでいるところにすごさがあります。上下左右全部の和というコンセプトは、すこぶる日本的な考えです。それゆえに日本では、多数少数に割り切って線引きする多数決主義、いわゆる西欧的民主主義流は根付かず、何事も根回しして調整する全員一致主義の国なのです。「和」は「平和」思想そのものです。

 「天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず」とは『孟子』の言葉です。天の時、つまりタイミングは立地条件には及びません。しかし、立地条件も「人の和」には及ばないという意味です。人の和がなかったら、会社の発展もありません。組織の結束力を高めることは、仕事を成功させることにおいて非常に大事なのです。

 『孟子』が出てきましたが、じつは「和」はメイド・イン・ジャパンではありません。聖徳太子の「和を以って貴しと為す」は太子のオリジナルではなく、『論語』に由来するのです。「礼の用は和を貴しと為す」が学而篇にあります。「礼のはたらきとしては調和が貴いのである」の意味です。聖徳太子に先んじて孔子がいたわけですね。

 孔子といえば、今月21日に東京銀座の「マリオット銀座東武ホテル」で盛大に開催された第四回「孔子文化賞」授与式典において、サンレーグループの佐久間進会長が「孔子経営賞」を、またサンレーグループの研修施設である天道館が「孔子伝播賞」を受賞しました。わたし自身は、歴代の「孔子文化賞」の受賞者を代表して、同式典の開会宣言を行いました。身の引き締まる思いでした。

 わたしの本も『和を求めて』で80冊を数えますが、いま次回作の準備に取りかかっています。『儀式論』(仮題)という本で、弘文堂から刊行の予定です。「儀式とは何か」「なぜ人間は儀式を必要とするのか」といった問題は、これまで多くの宗教学者、民族学者、民俗学者、文化人類学者らが取り組んできた大きなテーマですが、いまだ納得のゆく結論が出ておらず、「儀式は神話の再現である」とか「儀式は象徴の体系である」といった基本理念はあるにせよ、決定的な一般理論というものは生まれていないように思います。唯一、わたしが強く影響を受けたのは、國學院大學文学部教授を務められた倉林正次先生の『祭の構造』『儀礼文化序説』『儀礼文化学の提唱』などの一連の著書でした。折口信夫の愛弟子であった倉林先生は儀礼文化というものを初めて体系的に研究された方ではないかと思いますが、わたしはその中から特に「儀式」に絞って考察してみたいと思っています。

 もちろん、わたしは一介の冠婚葬祭業者であり、プロの学者ではありません。「儀式」について書くならば、勉強しなければなりません。これまでも「儀式」関係の本は努めて読んできたつもりですが、最近は猛烈な勢いでかつて読んだ本の再読を進めています。たとえば、フレイザーの『金枝篇』、エルツの『右手の優越』、レヴィ・ブリュルの『未開社会の思惟』、デュルケムの『宗教的生活の原初形態』、モースの『贈与論』、メアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』、ファン・ヘネップの『通過儀礼』、ヴィクター・ターナーの『儀礼の過程』、エドマンド・リーチの『文化とコミュニケーション』、レヴィ=ストロースの『構造人類学』や『野生の思考』、青木保の『儀礼の象徴性』、竹沢尚一郎の『象徴と権力 儀礼の一般理論』といった文化人類学の名著も再読しています。また、柳田國男の『日本の祭』、折口信夫の『古代研究』、宮田登の『民俗学への招待』といった日本民俗学の名著、さらにはエリアーデやTonyさんの一連の著作をはじめ、柳川啓一の『祭りと儀礼の宗教学』などの宗教学関係書も読んでいます。他にも良い参考資料があれば、ぜひ教えて下さい。

 大量の参考文献を読み込んで一気に書くというスタイルは、わたしの基本的な執筆スタイルです。『唯葬論』(三五館)もこの方法で書きました。しかしながら、今回は弘文堂の編集者の方のアドバイスにより、学術書的なスタイルで書くことになりそうです。これまでにない経験ですので、正直戸惑ってはいますが、スタイルの違いはあれど、これまで同様にわたしの考えや想いを書きたいと思っています。Tonyさんにもアドバイスを求めることもあるかもしれませんが、そのときは、ぜひよろしくお願いいたします。それでは、次の満月まで、ごきげんよう!

2015年10月27日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 『サンデー毎日』への連載、おめでとうございます。また、『和を求めて』(三五館)の出版も。次々の意欲的・挑戦的に「世直し」実践している雄姿、大変頼もしく、心強く思っています。また今、『儀式論』の執筆に取り掛かっているとか。「儀礼学」の構築を希願としているShinさんに相応しいテーマであり、タイトルですね。

 さて、10月と言えば、通常「神無月」と言いますが、出雲地方では、中世以降、1年に1度日本国中の神々が集まって来て神様会議を行なうとされて「神在月」と呼びます。もちろん、これは旧暦ですから、実際にはちょうど今頃、11月頃に「神在月」になります。その出雲を石の聖地の写真家の須田郡司さんたちとともに巡りました。加賀の潜戸–佐太神社・母儀人基社–神魂神社と磐座、熊野大社・熊野大社上宮跡–須我神社・磐座–玉造温泉・伝承館–荒神谷遺跡–万九千神社–出雲大社–県立古代歴史資料博物館、稲佐浜–日御碕神宮–鷺浦・伊奈西波伎神社、御陵神社–猪目洞窟–韓竈神社などです。

 去年の暮れから出雲には4度も来ています。2014年12月、2014年4月4日、8月8日、そしてこの10月。こんなに出雲往来が頻繁になったのは、やはり同志須田郡司さんの出雲移住の影響です。彼の活動を側面支援していくために、シンポジウムやいろいろな催しを行なっています。これからもそのつもりです。

 というのも、出雲の国は「幽世」の入り口ともされ、出雲大社の主祭神・大国主神様の神座は西の方向を向いていると言われます。そして、古くは50メートル、いやそれ以前には100m近くもの高さの高層神殿があったとされるのですから、「出雲学」の確立は「日本儀礼論」にとっても決定的に重要な意味と役割を持っています。ので、わたしの趣味や友情でプライベートに関与しているというのでもないのです。事態は公共的、パブリックな課題であり、テーマです。

 実はわたしは、1975年3月末に初めて出雲大社を参拝しました。以来、10数回は参拝や調査や取材でこの地に来ています。1975年3月、ちょうど40年前にわたしは本格的に神道を研究することにし、出雲大社と大本の本部のある京都府綾部のみろく神殿で龍笛の奉奏とともに誓いの祈りを捧げたのです。これから国つ神の神道を中心に研究して行きますと。

 それから、40年と半年。今回の出雲巡礼はわたしにとって感慨深くも大きな意義と意味と未来のあるものでした。出雲神話は、イザナミ〜スサノヲ〜オホクニヌシと続く「鎮魂神話」の系譜です。イザナミの「神避り」は出雲国と伯耆国の境の比婆山であると『古事記』には記されているし、スサノヲは出雲の簸川の上流で八岐大蛇を退治し、オホクニヌシはこの地で「国作り」をし、そして天孫・天つ神に「国譲り」をしたのです。この出雲神話の全容はまだまだ解明され尽していないと思います。出雲大社の巨大さの謎も含めて。

 『古事記』編纂1300年の節目とされた2012年に『古事記ワンダーランド』(角川選書)を上梓し、そこで『古事記』が「グリーフケア(悲嘆のケア)」や「スピチチュアルケア(鎮魂のケア)」の書であるという観点を提示しましたが、それは出雲神話の理解と解釈から導き出された観点でした。ですので、出雲はわが神道論や神道儀礼論の中核を占める聖地なのです。そこには、イザナミ、スサノヲ、オホクニヌシの神々はいうまでもなく、サルタヒコの神さまも祀られています。佐太神社の主祭神である佐太彦大神(猿田彦大神と同一視されてきたが実態は不明)という神名で。

 そのサダヒコ〜サルタヒコの神が誕生したという洞窟が、「加賀の潜戸」で、ここに行くのは今回で4回目となります。1回目は1966年。伊勢の猿田彦神社の遷座祭に合わせて出版するための『サルタヒコの謎』(創元社、1997年)の執筆のための取材と現地調査で来ました。2回目はその翌年の1997年9月。猿田彦神社の遷座祭に関わる巡行祭の実施のためでした。3回目は2000年の8月で、NPO法人東京自由大学の夏合宿で訪れました。そして今回2015年10月に4回目の参拝です。

 ですが、朝から急に波が出てきて危ないので、仏の世界の旧潜戸の洞窟内には上陸して法螺貝を奉奏できましたが、サルタヒコの神さまの誕生地という『出雲国風土記』の伝説のある新潜戸の洞窟の方に入ることは叶わず、その入口のところから法螺貝を奉奏しました。日本海の高波に揺られながら、加賀の潜戸の周囲を巡るのは感慨深くも迫力がありました。改めて、出雲は凄い! と思いましたね。

 今回、もっとも深い感銘を受けたところが、韓竃神社でした。ここはスサノヲノミコトを祀るとされていますが、大変奥深く険しい急坂の巨岩の洞窟の前に社殿が建てられています。この韓竃神社は、733年(天平5年)に編纂された『出雲国風土記』には「韓社(からかまのやしろ)」、『延喜式』には「韓竈神社」と記され、江戸時代には「智那尾権現(ちおごんげん)」と呼ばれました。

 『日本書紀』の第四の一書には、スサノヲは新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降り立った後子神の五十猛神(いそたけるのかみ)と一緒に「埴土」で「舟」を作って「出雲国斐伊川上」の「鳥上の峰」に到り、そこで八岐大蛇を退治したと記されています。加えて、そのすぐ後の第五の一書では、顎鬚や胸毛などの体毛を抜いて、それを木に変えて全国に植林したとも記されています。興味深いことに、そこではスサノヲの鬚髯を杉に、胸毛を檜に、尻毛を槇と榧に、眉毛を楠にしたと記されているのです。大変面白い話でしょう? アゴヒゲが杉で、ムナゲが檜だなんて。このイマジネーションはどこから湧いてきたのでしょう?

 今回の神話めぐりの旅で面白かったことは他にもいろいろとありますが、宍道湖が縄文時代以前には存在しなかったという地質学的形成過程には目を見開かされました。2万年前には隠岐と島根半島は陸続きでき、陸生動物の往来は可能でした。今より80メートルも水位が低かったのですから。それが縄文海進によってだんだん入り江が出来てきて、5000年くらい前の縄文時代前期の終わり頃には「古宍道湖」ができてきたそうですね。

 それを博物館の表示で知って、「な〜るほど!」と唸りました。『出雲国風土記』に出ている、大山や三瓶山に杭を打って綱で「国来(くにこ)、国来」と言って朝鮮半島の新羅を引っ張ってくるという「国引き神話」の謎の一端が解けたようにも思いました。「国引き神話」にはやはり地質学的な「事実」とその「経験知」があったのだという確認、でした。

 20年ほど前、アイルランドに行っていた時、わたしは、「アイルランド島と日本列島は、ユーラシア大陸の両耳である!」という直観的テーゼを掲げ、この両島がどのような地球のサウンドを聴いてきたかを探ろうとしていましたが、アイルランド島やブリテン島も氷河期には存在しなかったのです。陸続きだったのですから。そのような長い地質年代の記憶と経験を踏まえて神話を読み解く必要がありますね。

 ところで、Shinさんは『和を求めて』だったか、他の著作であったか、わたしが学生時分に益田勝実著『火山列島の思想』(筑摩書房、1968年)にいたく感銘を受けたことを紹介してくれていましたね。益田勝実は「火山列島」である日本列島の原型神を「オホナモチ(オホナムチ)」つまり「大穴持」(『出雲国風土記』の表記)であり、それは“大穴の火口を持つ火山神”であると喝破しました。それを読んで以来、わたしは日本列島の風土と日本の神々の表象との風土臨床経験知的な世界が存在することを確信しておりましたが、このたび、1955年にロシア人の元軍人が『火山と太陽』(元々社)という著作を書いていることを始めて知り、たまげました。このワノフスキーの火山神話論(『火山と太陽─古事記神話の新解釈』元々社、1955年)はまもなく桃山堂から復刻・解説刊行されますが、その中に、次のような表が含まれています。

火山の神火山を鎮める神古事記における場面イザナミイザナギ国生み、ヨミの国探訪スサノオアマテラス岩戸隠れオオクニヌシと息子たち
(コトシロヌシ、タケミナカタ)タケミカヅチ、フツヌシ国譲りサルタヒコアメノウズメ、ニニギ天孫降臨熊野の邪神タカクラジ、神武天皇神武東征

 この本の著者のアレクサンドル・ワノフスキー(1874‐1967)は、戦前の早稲田大学でロシア語、ロシア文学を講じていた亡命ロシア人のようです。元々は、レーニンらと活動をともにしていたロシアの革命家だったのですが、革命運動を離脱、亡命先の日本で48年を過ごしました。そして『古事記』の研究に没入し、日本の神の起源を火山噴火に見切ったのです。そしてその直観と解釈を益田勝実の『火山列島の思想』の13年前に『火山と太陽』と題して元々社から出版したのですから凄い!

 火山の国のちはやぶる神の火山の噴火。そこに神の顕現を見て取り、「火山叙事詩」としての日本神話を解釈し、独創的な古事記論を仕上げたのです。実はわたしはごく最近、桃山堂の蒲池さんからこのワノフスキーのことを初めて知ったのですが、実に実に驚きましたね。ホント。

 64年も生きていると、いろんな発見があります。今回の出雲の旅で、熊野大社の拝殿の中で、熊野高裕宮司さんの見守る中、石笛・横笛・法螺貝の吾が三種の神器を奉奏することができましたが、1975年の初参りから40年経って、ここに至っているのかととても感慨深いものがありました。

 わたしは「生涯一フーテン」の自覚を持って生きてきましたが、これからもスサノヲノミコトや出雲神族を親分と畏怖畏敬し、火山の神々への祈りを捧げながら、この「豊葦原の瑞穂の国」をどのようにすれば平安に豊かにできるのか、考え実践して参りたく思いますので、今後ともいっそうよろしくお願いします。

 11月には2冊の編著を上梓します。1冊は、『身体の知—湯浅哲学の継承と展開』(BNP)、もう1冊は、『講座スピリチュアル学第5巻 スピリチュアリティと教育』(BNP)です。ぜひご批評ください。

 2015年10月30日 鎌田東二拝