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シンとトニーのムーンサルトレター 第126信

 

 

 第126信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、つい先日お会いしたばかりですが、また満月の夜が来ましたね。126信ということで、『満月交遊 ムーンサルトレター』上下巻(水曜社)を上梓してから半年も経ったのですね。なんだか信じられません。

 お互いに多忙な日々を送っていますが、わたしは11月11日からインドネシアのバリ島に行ってきました。わたしが会長を務める業界団体の研修視察として、実に四半世紀ぶりに訪れたのです。観月ありさがフェラーリ王子と結婚式を挙げたばかりのブルガリ・ホテルにも行きました。バリのリゾート・ウエディングはハワイやグアムよりも日本人には合っている気がします。いわゆる「アジアン・リゾート」として沖縄に近い感じです。バリも沖縄も、神と人の交流が盛んなスピリチュアルな島として知られていますね。

 わたしたちは、「風葬の村」として知られるトルニャン村も訪れました。「風葬」は、遺体を野ざらしのまま朽ち果てさせる葬法です。かつては、沖縄や奄美諸島をはじめとする日本にもその風習が残されていました。トゥルニャン村の墓地には1本の大木がありました。「タルムニャン」と呼ばれるこの香木で、この木が香りを発することで、遺体から放たれる屍臭をかき消しているそうです。 確かに、屍臭は感じませんでしたが、香木の香りも特に感じませんでした。おびただしい数の頭蓋骨とともに、死後一週間ほどの遺体もあり、わたしたちは合掌しました。

 風葬の村を訪れて、まさに「メメント・モリ(死を想え)」といった印象を受けました。バリ島の中でも、トゥルニャン村はけっして豊かな村ではありません。おそらくは風葬の習慣が残っているのは経済的な事情もあるように思えますが、風葬は人あたり日本円でだいたい60万円ぐらいかかるそうです。どんなに貧しい人でも亡くなれば、村人たちが助け合って60万円の葬儀を出してあげるわけです。もちろん、村にあるヒンドゥー教の寺院において葬送儀礼がきちんと執り行なわれます。わたしは、葬儀とは人類普遍の「人の道」であることを再認識しました。儀式も行わずに遺灰を火葬場に捨ててくるという日本の「0葬」は、どう考えても異常です。

バリ島のリゾートホテルで

バリ島のリゾートホテルでバリ島の風葬の村(トルニャン村)で

バリ島の風葬の村(トルニャン村)で
 それから、22日の14時から神田にあるNPO法人東京自由大学で講義を行いました。拙著『唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか』についての特別講義です。多種多様なフロントランナーたちが訪れている「神田の学び舎」ですが、ここでわたしが講義を行うのは2011年1月23日以来です。編集者の方々をはじめ、いつも親しくさせていただいている方々の顔もたくさん見えて、嬉しかったです。司会の鳥飼美和子さんの講師紹介の後、わたしはパワーポイントを使いながら話しました。

 前回は講義前に東京自由大学のスタッフだった故・吉田美穂子さんを追悼させていただきましたが、今回も同じく同大学のスタッフであった故・岡野恵美子さんを追悼しました。今年7月5日のイベントでは、受付に岡野さんが座っておられて、「あら、一条先生。今度11月に講義をされるんですよね。楽しみにしています!」と声をかけて下さいました。その後すぐに急逝されたと知ったときは衝撃を受けましたが、この日は姿は見えなくとも岡野さんが聴いていて下さると思って講義をさせていただきました。

 まさに、この日の講義のテーマは「なぜ人は死者を想うのか」です。わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、確かに埋葬という行為には人類の本質が隠されているといえるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。

 わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えています。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わっています。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。

 オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。

 言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」なのです。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。

 今年は終戦70年の年です。日本人だけでじつに310万人もの方々が亡くなった、あの悪夢のような戦争が終わって70年目の大きな節目です。今年こそは、日本人が「死者を忘れてはいけない」「死者を軽んじてはいけない」ということを思い知る年であり、『唯葬論』を上梓できて感無量です。最後に、わたしは「大仰な言い方と思われるかもしれませんが、わたしは『唯葬論』を書くために生まれてきたように思えてなりません。日本人の未来はもちろん、人類の未来のために書きました。この本を読まれた方々が、葬儀という営みが、いかに社会にとって、共同体にとって、民族にとって、そして生者と死者にとって必要不可欠であるかをご理解いただければ幸いです。ご静聴、ありがとうございました!」と述べると、「神田の学び舎」に大きな拍手が起こり、感激しました。おかげさまで、三五館の中野長武さんが持参してくれた『唯葬論』はすべて完売しました。

東京自由大学での「唯葬論」講義

東京自由大学での「唯葬論」講義トークセッションのようす

トークセッションのようす
 続く第2部として、Tonyさんとのトークセッションを行いました。このトークセッションは、『満月交遊』の刊行記念イベントです。トークセッションの相手であるTonyさんが所要のため到着が遅れており、冒頭で「月への送魂」の動画を流しました。

 その後、姿を現したTonyさんは「一条さんと出会ってほぼ四半世紀。新著『唯葬論』は、本当に集大成にして新出発の記念すべき名著であると思います。また、葬儀を行う葬祭業界にとっても大切なカノン(規範)とも聖典ともなる古典的良書だと思います。これからのますますのご活躍と展開を期待し、祈念しております」と言って下さり、まことに光栄でした。それから、法螺貝を奏上して下さいました。

 トークセッションでは、Tonyさんから『唯葬論』についての質問が色々と出ました。「なぜ、この時期に書いたのか?」とか「この18の章立てはどのように考えたのか?」といった質問でした。わたしは、質問の1つ1つに答えさせていただきました。

 また、Tonyさんは「今の時代をどのように考えるか?」といった問いを投げかけてこられましたので、わたしはイスラム国の問題をはじめ国際情勢などについて触れつつ、日本が「死者を軽んじる国になっている」と述べ、「時代は新しい段階に突入したと実感しています」と答えました。鎌田先生は「現代は、中世の復活のように思える」と述べ、独自の歴史観、文明観を披露されました。その後、わたしたちは戦争と平和について熱く語り合いました。わたしは「戦争の反対語は結婚」と言うと、鎌田先生は「戦争の反対は遊びではないか」と言われました。それを聞いたわたしが「遊びとは魂を自由にすること。葬儀も遊びですよ」と言いました。

 その後、質疑応答の時間となりました。すると、最前列のわたしの前の“かぶりつき”に座っていた東大病院の稲葉俊郎先生が手を挙げ、「歴史の教科書を見ると、戦争の記述ばかりです。まるで人類はこれまで戦争ばかりしてきたようで、違和感をおぼえます」と言われました。それを聞いてわたしは「人類はもちろん戦争ばかりしてきたわけではありません。一般民衆の普通の生活の歴史が真の人類史です。それは、日本民俗学を開いた柳田國男も考えていたことではないでしょうか」と言いました。

 講義&トークセッション後は、『満月交遊』の出版記念会が行われました。2011年1月には前作である『満月交感 ムーンサルトレター』の出版記念会が行われました。あのときと同じように、東京自由大学の女性スタッフのみなさん手作りの料理がズラリと並び、大変豪華な食卓となりました。そこに、ワインやジュース、お茶などの飲み物も並べられ、さながら「隣人祭り」のような雰囲気でした。そう、「出版祝い隣人祭り」でしたね!

 大いに話が弾みましたが、そのうち参加者全員が1人づつ自己紹介してショート・スピーチを行いました。1人の持ち時間は2分というルールでしたが、みなさん5分以上話されたようなイメージでした。でも、じつに味のあるスピーチが多くて、聴き入ってしまいました。どの方のお話もそれぞれも人生が滲み出ており、大変勉強になりました。
 それから、Tonyさんが緑色のギターで神道ソングを歌って下さいました。

『満月交遊』出版記念会のようす

『満月交遊』出版記念会のようす緑のギターで歌う鎌田東二

緑のギターで歌う鎌田東二
 その後、わたしがリクエストして井上喜行さんに「なむあみだぶつ」の歌を歌っていただきました。これは千昌夫の「星影のワルツ」のメロディーに乗せて、ひたすら「なむあみだ〜ぶ〜つ〜、なむあみだぶつ♪」と唱えるシュールな歌です。東京自由大学の第二校歌だそうですが、最初に聴いたときのインパクトは絶大でした。宗教学者の山折哲雄先生も大いに感銘を受けられたとか。この歌を参加者全員で合唱しました。ちなみに、井上さんは鎌倉の禅寺で、臨済宗円覚寺派の名刹である「東慶寺」のご次男だそうです。最後に、わたしが謝辞を述べて、楽しい出版記念会は終了しました。

 翌日の午後、東京から北九州に戻りました。帰宅して書斎のパソコンを開くと、1通のメールが届いていました。Tonyさんからのメールでした。タイトルには「横尾龍彦先生が亡くなりました」と書かれていました。また、メールの本文には、「秩父にお住いの小倉出身の東京自由大学初代学長横尾龍彦先生が本日朝亡くなりました。享年87歳でした。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。今年は、大重潤一郎監督、岡野恵美子さん、そして横尾龍彦先生と、東京自由大学の三本柱が相次いで他界されました。遺されたわたしたちは、いっそうその使命を果たしていきたいと思います。今後とも、いっそうよろしくお願い申し上げます」と書かれていました。

 わたしが東京自由大学で久々に講義をさせていただいた翌朝に初代学長が亡くなるとは! しかも「死」と「葬」の話をした直後に! 横尾龍彦先生のことはよく存じ上げていました。横尾先生はドイツと日本で活躍する画家であり、神秘哲学者ルドルフ・シュタイナーの影響を受けた「瞑想絵画」とでも呼ぶべき神秘的、秘教的な作風で知られました。わたしは、先生の絵はアストラル界を描いているように感じました。偉大なる「美の行者」である横尾龍彦先生の御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。

2015年11月26日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 11月22日(日)、NPO法人東京自由大学主催ゼミ<一条真也「唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか」>では大変刺戟的で体系的な講演プレゼンテ—ションと熱気あふれるトークセッションとその後の祝賀会、まことにありがたとうございました。ご厚情、心より感謝申し上げます。

 思えば、Shinさんこと一条真也=佐久間庸和さんと出会って4半世紀。不思議なご縁で今日このような形で深いえにしが続いております。大変嬉しく有難く思っています。25年ほど前に、『魂をデザインする〜葬儀とは何か』 (国書刊行会,1992年)のための対談を國學院大學の近くの神社会館で行なったのが最初の出逢いでしたね? その後、すぐに六本木のディスコに行きましたっけ?

 いずれにしても、Shinさんの主張する「戦争の反対語としての結魂」が「魂をデザインする」を通して、「デザイン」され、「結魂」し、「魂の義兄弟」の縁を結ぶことになり、10年以上に及ぶ毎月満月の夜の「ムーンサルトレター」の交換が続き、その本が『満月交感』上下、そしてこのたびの『満月交遊』上下の4冊の本となって結ばれたのです。凄いことですよ、これは。

 ところで、Shinさんの新著『唯葬論』は、これまでの仕事の集大成であり、また新出発の記念すべき名著ですね。全体は極めて体系的、構築的に出来上がっていて、堅牢な高層建築のようです。

 第一章   宇宙論
 第二章   人間論
 第三章   文明論
 第四章   文化論
 第五章   神話論
 第六章   哲学論
 第七章   芸術論
 第八章   宗教論
 第九章   他界論
 第十章   臨死論
 第十一章  怪談論
 第十二章  幽霊論
 第十三章  死者論
 第十四章  先祖論
 第十五章  供養論
 第十六章  交霊論
 第十七章  悲嘆論
 第十八章  葬儀論

 この体系性と全体性と各論との緊密な連系は目を見張ります。この全18章の前半部は、宇宙論から哲学・宗教・芸術論で、まさに全リベラルアーツ大特集です。そして、第10章臨死論からの怒涛の後半、は死と葬儀の各論となります。そして第18章「葬儀論」の最後の結論は、<葬儀は「人類の精神的存在基盤」>という主張です。葬儀即人間。葬儀なくして人間はない。「ホモ・ヒューネラル」(人間とは葬儀を行なう動物)としての人間論をぶち上げています。まさに「人間尊重」「人間讃歌」ですね。

 おそらく『唯葬論』は、葬祭業界にとっても、葬儀を考える一般読者にとっても、これから大切なカノン(規範)とも聖典とも古典的良書ともなるでしょう。そしてShinさんは、これからますますいっそうの活躍と展開をしてくれるでしょう。そして日本の冠婚葬祭業を牽引していってくれるでしょう。

 Shinさんは、11月22日にNPO法人東京自由大学主催ゼミ<一条真也「唯葬論〜なぜ人間は死者を想うのか」>の講義とトークと出版祝賀会を終えてすぐさま以下の3本のブログを公開しれくれました。

http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20151122/p2 (「唯葬論」講義)
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20151123/p1 (トークセッション)
http://d.hatena.ne.jp/shins2m+new/20151123/p2 (『満月交遊』出版記念会)
この神速! 凄い! お見事! 恐れ入りました!

ところでわたしは、11月6日から9日まで屋久島に行きました。屋久島の宮之浦で、「屋久島学ソサエティ第3回大会」が開催され、そこで「聖なる島・屋久島の可能性」という講演を頼まれたのです。屋久島は2度目です。2011年8月にNPO法人東京自由大学の夏合宿で来たのが最初ですが、その時は盛りだくさんのプログラムがあったので、著名な屋久島の海や森や滝を見学したり、白川山の山尾三省さんの関係の方々や天然村(あがた森魚さんのお母さんが開いた村)や中野民夫さんの本然庵との交流をしました。

 屋久島はとても陰影の深い島ですね。詩人の故山尾三省さんが長年暮らしてきた島ですし。とても興味深かったことは、屋久島に伝わる古謡「まつばんだ」の源流が与那国の古謡「与那国スンカニ」であるという杉本信夫さんの仮説でした。それが、杉本さんの実証的な研究と民謡歌者によって実演され、説得力を持って証明されたのです。それによって、喜納昌吉さんの名曲「東崎」(あがりざち、与那国の突端の岬)の旋律がこの「与那国スンカニ」を元にしていることを発見しました。

 加えて、屋久島に伝わる民俗信仰である「岳参り」。これまた、大変興味深い民俗事例でした。屋久島の5地区の詳細な実態報告によって、地域別に少しずつ違いはあるものの、その本質は、お参りする春秋の日の朝のまだ誰も足を踏み入れていない新鮮な海の砂を竹筒に詰めて、神饌と共にそれぞれの集落の奥岳や前岳の山の祠にお供えしに行くことだということがよくわかりました。そしてそれが、ヒコホホデミノミコト=ホヲリノミコト=山幸彦=一品法寿大権現と豊玉姫との結婚・再会を象徴しているのでした。つまり、山の神と海の神との出会いと結婚と循環調和が「岳参り」の習俗の本質にあって、その上に、五穀豊穣や豊漁や家内安全や商売繁盛や無病息災などの共同体や各家々の繁栄と安定と安全と安心が願われ、実現されているのです。とてもとても意義深く奥床しい民俗行事だと感心しました。この「岳参り」の習俗で大変感動したのが、神饌です。それは素朴ですが、素晴らしく美しい心の籠った供え方でした。

吉田地区岳参り「するした」(神饌)

吉田地区岳参り「するした」(神饌)

 「屋久島学」を『アニミズムという希望』という角度から光を当てたのが山尾三省でした。屋久島では 『久高オデッセイ第三部 風章』の上映会をしましたが、そこで、大重潤一郎監督の記録映画「ビックマウンテンへの道」(2001年製作)のナレーションを務めてくれた故山尾三省さんの夫人の山尾春美さんが「大重さんの最後の自らのナレーションに『久高オデッセイ』の本質が込められている」という感想を聞かせてくれました。そして、念願叶って、山尾三省さんの住んでいた家と書斎=「愚角庵」に行って、仏壇の位牌の前で、山尾三省さんの実弟の山尾明彦さんと共に般若心経を唱え、石笛・横笛・法螺貝を奉奏し、また「愚角庵」でも同様に明彦さんと共に般若心経を唱え、石笛・横笛・法螺貝を奉奏できました。

 三省さんが住み着いた白川山に行くと、「屋久島学ソサエティ第3回大会」のポスターが、集落の掲示板に掲示してありました。大重潤一郎さんの「ビックマウンテンへの道」のナレーションの最後が、ナバホ族(ディネ)の聖句(マントラ)でもある「ホジョナー(美・平和・調和)」という言葉でしたが、山尾さんほどその「ホジョナー」実感を込めて語れる日本人はいないのではないでしょうか。

 Shinさんの講座の前日の11月21日の「三省祭り」に、山尾三省さんや実妹の長屋のり子さんの叔父(母の弟)さんに当たる大中良夫さんが参加してくれました。それによって、山尾三省さんの幼少期の大切な出来事が明らかになりました。山尾三省さんは、1938年10月11日、東京神田生まれの神田育ちではありますが、大事なことは、5歳から9歳まで、1943年から1947年までの4年間もの間、山口県長門市油谷町に疎開していた点です。山尾さんの「アニミズム感覚」の原点は、この「油谷」湾にあったのです! その湯屋の集落の隣が、金子みすずの生地だったとのことでした。山尾三省さんの幼少期の疎開生活の厚み。その濃密な時間と経験。

 この「アニミズムという希望」を山尾三省さんは、部族のヒッピー運動においても、インドなどの放浪においても、離島や屋久島での生活においても、ずっと一貫して持ち続けたですね。まったくそんなこととは露知らず、なぜ山尾さんがあれほど熱烈に「アニミズムという希望」を語れるのか、イマイチよくわからなかったのが、完璧に腑に落ちました。そしてその重さと深さを思い知りました。

 このような山尾三省さんの幼少期の発見があった2日後の11月23日、新嘗祭の朝に、秩父に住んでいた東京自由大学初代学長横尾龍彦画伯が亡くなったのでした。享年87歳でした。今年2015年は、東京自由大学副理事長の大重潤一郎監督、東京自由大学前運営委員長で「久高オデッセイ第三部風章」事務局長の岡野恵美子さん、そして東京自由大学初代学長の横尾龍彦画伯と、東京自由大学の3本柱が相次いで逝った葬儀の年となりました。遺されたわたしたちはいっそう心して「楽しい世直し」の使命を果たさねばなりません。わたしは横尾龍彦先生に次の3首の歌を捧げました。

東京自由大学初代学長にして美の行者・横尾龍彦画伯に捧ぐ

  君ははや 天上巡る 龍となり
    日の本宇宙の 魂描き逝く

  美の行者 横の尾の上人 龍彦と
    受肉せし身を 脱ぎて還らむ

  はろばろと 伯林秩父を 翔け巡り
    天空上人 龍の眼の人

 横尾龍彦先生は、1928年、福岡県小倉に生まれました。お母さんは神道系の凄い霊能力者でした。横尾先生は、戦後、東京芸術大学日本画科を卒業し、キリスト教プロテスタント系の神学校に入りますが途中退学したと聞きました。そして、その後、カトリックに改宗しています。やがて画家となりますが、30代にはShinさんの2人のお子さんが通った小倉の明星学園の美術教諭となっています。そして、1965年に、高橋巖先生の主宰するルドルフ・シュタイナー研究会高橋のセミナーに参加しました。その後、1978年からは、鎌倉三雲禅堂の山田耕雲老師に師事し、熱心に接心、独参を続け、見性します。そして、1985年にケルン郊外に移住し、その後ベルリンに拠点を移し、やがてベルリンと秩父にアトリエを設け東西を往来することになります。B・B・K・ドイツ美術家連盟会員で、1989年には、東京サレジオ学園の聖像彫刻により吉田五十八賞を受賞しました。これまでに国内外で多数の個展を開催してきました。栃木県那須のトラピスチヌ修道院には、横尾先生制作の聖母子像が祭壇脇に安置されています。

 横尾龍彦先生が生前に親交を結んだ方々は、高橋巖(美学者・シュタイナー研究者、元慶応大学教授)、井村君江(ケルト妖精学・元明星大学教授)、澁澤龍彦(フランス文学者)、種村季弘(ドイツ文学者、元國學院大學教授)、酒井忠康(前鎌倉近代美術館館長、世田谷市立美術館館長)、田中幸人(元毎日新聞美術記者、元埼玉近代美術館館長、元熊本市立美術館館長)、三田晴夫(毎日新聞美術記者)、志村ふくみ(染色家)、志村正雄(アメリカ文学者・東京外国語大学名誉教授)、松田妙子(世界救世教鎌倉教会元教会長)、今道友信(美学者・東京大学名誉教授)、海野和三郎(東京大学名誉教授・天文学者・NPO法人東京大学学長)の諸氏でした。

 NPO法人東京自由大学のウェッブマガジン「EFG第2号」に、横尾先生は次のように記してくれました。

 「神は無であるとマイスター・エックハルトは言っています。無は肉眼や意識では捉える事の出来ない叡智とエネルギーのことで神仏の世界は一つです。/神は言表不能な根源的存在で、私の無意識深く私の自我の中心に存在します。座禅によって無を極めれば私達は宇宙の根源に触れて開眼します。それが悟り体験です。」

 「人間的努力だけでこの自己を超越できません。エッケハルトが言う『己を失えば失う程に神がそこに来て充たす』と道元の『仏道を習うというは自己を習うなり、自己を習うと云うは、自己を忘るるなり』に自己を超えていく秘密があります。」

 「私は生涯美を求めて彷徨いながら神に出会いました。/人格の完成を求めても、内なる人が聖霊に満たされて変容しなければ道徳と偽善性に縛られて自由を失います。理想の人間像は柔らかく砕けた自由人です。/その自由は目に見えない存在との交流によって齎されるのです。/人の思惑や、社会のために生きるのではなく、内面の声に従うのです。他人からは見えませんし、人からは理解されませんが、神様に知られているのです。人を対象にすると誤解されたり、無視されて傷つくことも多いのですが、霊としての偉大な愛である存在と対話していると、孤独ではありません、そこでは静かな平和が心の中から絶えず湧出してきます。/人生は短いです。人に知られなくとも本来の真人を実現したいものです。」

 「その時自己の本質が私と一つになる深い体験がありました。それは言語では説明できない全身全霊の納得でした。只、涙、涙、深い安堵感と凡てを放棄した限りない自由がそこにはありました。その様な精神状況は1週間程続きました。本来の自己の実現です。/これらの体験はすべて独参室で(山田耕雲)老師に報告されましたが見性が許されたのは1年後の事でした。」

 横尾龍彦先生と初めてお会いしたのは、1982〜3年頃のことでしょうか。もう30年以上になります。その「魂縁」を今後も大切にしていきたいと思っています。わたしは、横尾先生について書いた文章があります。『翁童のコスモロジー——翁童論4』(新曜社、2000年)に収めたものです。改めて、横尾龍彦先生のみたまに心からの感謝の思いを捧げます。本当にありがたとうございました。これからも霊界からわたしたちをお導きください。

 2015年12月1日 鎌田東二拝

徳島新聞2015年12月1日朝刊文化面記事

徳島新聞2015年12月1日朝刊文化面記事