シンとトニーのムーンサルトレター第215信(Shin&Tony)
- 2023.02.06
- ムーンサルトレター
鎌田東二ことTonyさんへ
今年2回目の満月が夜空に上りました。2月の満月はスノームーンとも呼ばれます。また、2023年で最も遠い満月のため、いつもの満月よりは見た目がほんの少し小さく見える満月です。この1ヵ月はいろんな出来事がありましたが、まずは、わが社にとって大きな出来事をお話ししたいと思います。1月8日、北九州市で開かれた『二十歳の記念式典』で、振り袖に墨汁のようなものをかけられる事件が発生しました。33歳の容疑者が逮捕されましたが、少なくとも10件の被害が確認されています。その中には、わが社の松柏園ホテルでお世話させていただいたお客様も含まれていました。当日のテレビ各局の全国ニュースに映った衣裳も、わが社の衣裳でした。
当日の夜、お客様の担当を務めていた松柏園ホテルの川俣日登美副支配人は、お客様のお母様からの連絡で「娘が大変ショックを受けていること」「実家の祖父母へ晴れ姿を見せに行く予定だったこと」を聞きました。川俣副支配人は、なんとかこの悲しみをケアし、喜びに変えたいと思案したようです。現場からの報告を受けたサンレーグループ冠婚副本部長の山下取締役からLINEで相談されたわたしは、「コンパッションで行きなさい!」と言いました。川俣副支配人はお客様への慰めの言葉に加えて、「ぜひとも新しい振袖を着て、ご実家に行きましょう! 当ホテルで無償で準備をさせて下さい」と訴えたのです。
テレビ各局からの取材を受けたお嬢様は、ホテルスタッフの対応に感謝の言葉を語られました。その後、松柏園ホテルへ複数のテレビ局からの取材が相次ぎました。取材では、わが社が日頃より「コンパッション」をテーマに「お客様に寄り添った対応」を意識していること。事件自体は残念なことではあるが、「おばあさまへ晴れ着姿をご覧いただきたい」という、お客様の優しい思いに寄り添った対応をすることを何よりも最優先したことなどを川俣副支配人が熱く語ってくれました。各テレビ局のインタビュアーの方々も大きく頷きながら取材をして下さいました。そして悲しい事件の中でも「優しさの上書き」ができたことに各局とも時間を大きく割いてご紹介いただきました。
ヤフーニュースより
残念ながら、人間は晴れの日の振り袖に墨汁をかけるという非道な行為も行います。しかし、人間は困っている人にコンパッションを提供し、そのグリーフをケアすることもできるのです。そう、非道には人道で対抗すべきではありませんか! 松柏園ホテルの人道的コンパッション対応はヤフーニュースの記事にもなり、1100件を超える絶賛コメントが寄せられました。また、松柏園ホテルの公式サイトへのアクセス数はなんと140倍になったのでした。わたしは、社長として、「コンパッション・ホテル」としての対応、そして英断をした松柏園ホテル衣装部のみなさんに感動しました。一生に一度の晴れの日を悲しい事件で終わらせることなく、お客様のグリーフを共有し、そして新たな喜びのサイクルを呼び込んだメンバーを心から誇りに思います。
「北九州市商工ニュース」2023年1月号
昨日5日に北九州市の市長選が行われ、16年ぶりに新市長が誕生しました。今年、その北九州市が誕生60周年を迎えます。門司・小倉・戸畑・若松・八旧5市が合併に最終合意し、その調印式会場に選ばれたのが松柏園ホテルでした。わたし自身も60年前に松柏園で生まれたことから、「北九州市と自分は同い年の兄弟だ」と思ってきました。北九州市は、全国の政令指定都市の中でもっとも高齢化が進んでいます。世界一の高齢化率であることを考えると、北九州市は世界一高齢化が進んだ街と言えるでしょう。人口が100万人を切ったことから、北九州市の衰退が叫ばれています。しかし、わたしはつねづね、「高齢者が多いことは北九州の強み。それを悪いことと思い込んできたことが意気消沈してきた原因」と語っています。
「毎日新聞」2022年10月30日朝刊
配偶者の死が自殺の要因となるケースも多いため、わが社は、近くで接する遺族の立ち直りを支援するグリーフケアを推進してきました。またNPO法人を設け、地域の独居高齢者らが集う「隣人祭り」を開き、孤独死防止を図ってきました。すべては、コンパッションに基づいた企業活動です。血縁や地縁の希薄化がみられる中、わが社では趣味などの新たな縁作りの手伝いにと、囲碁や俳句大会も開催しています。さらに、「ともいき倶楽部」「笑いの会」なども開催。こうした取り組みはコンパッション都市作りに通じます。全国で独居老人が増えていますが、わたしは、北九州市を高齢者特区にして、高齢者向けのショッピングセンターや娯楽施設、医療も受けやすくすることを提唱しています。孤独死しない隣人都市を作り、全国から独居老人が北九州に集まってくれば人口も増えます。
2月度サンレー総合朝礼で
さらに、困窮者やシングルマザー支援も充実させ、「困ったら北九州に行ってみよう」という街にする。そうすれば、北九州市は世界一のコンパッション都市となるでしょう。それは、そのまま互助共生社会の実現でもあります。世界的に有名なイギリスの動物学者マッド・リドレーは、「他人を思いやるのは人間の本能である」と述べています。ならば、その本能である「思いやり」「利他」「互助」の精神に基づく経営を行うコンパッション企業は最強だと言えるでしょう。コンパッション営業、コンパッション・ウエディング、コンパッション・セレモニー、コンパッション・ホール・・・これからも、コンパッション企業として、世のため人のために頑張りたいと思います。2月1日に小倉紫雲閣で行われたサンレー本社総合朝礼において、わたしは「人のため ただ人のため行へば めぐりめぐりて社(やしろ)栄えり」という道歌を詠みました。
川俣副支配人と
サンレー本社総合朝礼では、社長訓示の後、素晴らしいコンパッション対応をした松柏園ホテル衣装部に「コンパッション社長賞」を贈る授賞式を行いました。衣装部を代表して、川俣副支配人が登壇しました。わたしは、「北九州市二十歳の記念式典における貴チームのコンパッション溢れる対応は 日本中の方々に感動を与え かつ会社の名声を大いに高めることになりました この活躍は他の社員の模範となる素晴らしいものであります よってその功績を讃え 金一封を添えて表彰致します」と賞状を読み上げ、金一封とともに川俣副支配人にお渡ししました。そして、「これからも、お客様に寄り添う対応をした部署や個人には、どんどん『コンパッション社長賞』を贈ります。ぜひ、コンパッション企業の一員として励んで下さい!」と呼びかけました。
「コンパッション」について講義する島薗先生
「コンパッション」という言葉は、東京大学名誉教授で宗教学者の島薗進先生から教えていただきました。その島薗先生は、今回の一件を知って、「振り袖に墨汁の事件に関わる、松柏園の川俣副支配人の対応、すばらしいですね。感謝の気持ちを述べている若者もさわやかな感じを持ちました。日頃、会社が目指しているものが社内に浸透し、自然にこうした対応がとれるような企業文化があること、さすがサンレーさんと感銘を受けましたお嬢様の結婚式のときにもその前にもお世話になっておりますし、度々、社員の皆さまと接しておりますので、あらためて社風として認識した次第です。コンパッション社長賞というのは新たに設けられたものでしょうか。諸業界に広めたいような気がします」とのメールを送って下さいました。
「コンパッション社長賞」の賞状
島薗先生の質問にお答えすると、コンパッション社長賞は、今回の振り袖墨汁事件への松柏園スタッフの対応をきっかけに新しく設けたものです。コンパッション営業、コンパッション・ウエディング、コンパッション・セレモニー、コンパッション・ホール・・・・・・わが社の各部門は、さまざまな形での「コンパッション」の実現を企んでいます。それらが実現したとき、コンパッション社長賞は贈られます。次から次に、コンパッション社長賞を贈りつづけるようになれば、わが社はコンパッション企業に近づいていくでしょう。そして、それは、「心ゆたかな社会」としての互助共生社会の到来を呼び込むものと信じます。
サンレーグループ20周年記念バッジ
さて、「コンパッション(compassion)」と並んで時代のキーワードといえるものに「ウェルビーイング(well−being)」があります。現在よく聞くのは「SDGs(Sustainable Development Goals)」という言葉ですが、これは「持続可能な開発目標」という意味で、国連で採択された「未来のかたち」です。SDGsは健康と福祉、産業と技術革新、海の豊かさを守るなど経済・社会・環境にまたがる17の目標があり、2015年の国連総会で全加盟国が合意しました。そして、2030年までにそのような社会を実現することを目指しています。SDGsは、2030年までという期間限定なのです。それ以降のキーワードはというと、「ウェルビーイング」になると言われています。じつは、わが社は37年前から「ウェルビーイング」を経営理念に取り入れてきました。1986年の創立20周年には「Being!ウェルビーイング」というバッジを社員全員が付けました。社内報の名前も「Well Being」でした。当時の社長であった佐久間進会長の先見の明に驚いています。
サンレーグループ報「Well Being」
佐久間会長は九州大学名誉教授の池見酉次郎先生(故人)と日本心身医学協会を設立し、日本における心身医学の啓蒙・普及に努めましたが、そのときのコンセプトが「ウェルビーイング」だったのです。「ウェルビーイング」の意味は、「幸福な存在、相手を幸福にする存在」ということになります。ウェルビーイングは、WHO(世界保健機構)憲章における、健康の定義に由来した思想である。その定義とは、「健康とは、たんに病気や虚弱でないというだけでなく、身体的にも精神的にも社会的にも良好な状態」というものです。しかし従来、身体的健康のみが一人歩きしてきました。ところが、文明が急速に進み、社会が複雑化するにつれて、現代人は、ストレスという大問題を抱え込みました。ストレスは精神のみならず、身体にも害を与え、社会的健康をも阻みます。健康は幸福と深く関わっており、人間は健康を得ることによって、幸福になれます。ウェルビーイングは、自らが幸福であり、かつ、他人を幸福にするという人間の理想が集約された思想と言えるでしょう。
NHK「シリーズ ウェルビーイング」第1回より
2月2日、石川県の金沢市を訪れたわたしは、「Share金沢」という総合ウェルビーイング施設を訪問・見学しました。わが社が追及している互助共生社会やコンパッション都市の雛形を見た思いがしました。この施設を知ったのは、佐久間会長から教えられて観た「NHKシリーズ ウェルビーイング 第1回「LIFE SHIFTにっぽん リンダ・グラットンが見た北陸の幸せ」においてでした。番組の中で、世界的ベストセラー『LIFE SHIFT』の著者であるリンダ・グラットンが日本の北陸を訪れて、総合的な幸福としての「ウェルビーイング」を探求するという内容でしたが、その最大の鍵となる施設がShare金沢だったのです。佐久間会長は、約35年前に金沢全日空ホテル(ANAクラウンプラザ金沢の前身)で「ウェルビーイング」をテーマに講演を行い、大きな反響を呼んだことがあります。その金沢に日本を代表するウェルビーイング施設が生まれていたとは、まことに不思議な縁を感じます。
NHK「シリーズ ウェルビーイング」第1回より
Share金沢とは何か? それは、高齢者、大学生、病気の人、障害のある人、分け隔てなく誰もが、共に手を携え、家族や仲間、社会に貢献できる街です。かつてあった良き地域コミュニティを再生させる街です。いろんな人とのつながりを大切にしながら、主体性をもって地域社会づくりに参加します。設計・施工を手掛けた株式会社五井建築研究所HPによれば、「アクティブ・エイジング」に基づいた「ごちゃ混ぜ」の街だそうです。Share金沢は従来の「縦型福祉」から脱して、障害者だけではなく健常者も、また若者も高齢者も分け隔てなく一緒に暮らせる街を創るという壮大な試みであるとして、同HPには「この街づくりのコンセプトは『ごちゃ混ぜ』の街と分かりやすく表現できる。『ごちゃ混ぜ』の意味は、あらゆる人が分け隔てなくふれ合う環境が備えられているということであり、運営法人はそうした街を『アクティブ・エイジング』という考え方――住民の健康や安全が守られ、積極的に社会的・経済的・文化的・精神的活動に住民自身が参加していける仕組み―に基づいて街の住民自身が創りあげていく『私がつくる街』という言葉を運営コンセプトとしてうちだしている。その象徴的な施設が『若松共同売店』と名付けられたショップである。ここはサービス付き高齢者向け住宅の住民を中心に仕入れから販売までの運営を行っている」と書かれています。
NHK「シリーズ ウェルビーイング」第1回より
また、同HPには「この街の福祉施設としては、児童入所施設(障害者自立、自閉、重度の各棟)、児童発達支援センター、高齢者デイサービス、生活介護、車イス対応バリアフリー住宅などがある。このうち高齢者デイサービス、生活介護施設は本館として位置づけられる複合的施設に配置されている。本館はこの街全体にとっても極めて重要な機能を持っている。それは温泉を介在としたコミュニティ機能である。「温泉」というツールを利用してレストランを併用し、街の住人も施設の利用者も一般客も誰でもここでくつろぐことが出来る。こういった施設が都市部の地域コミュニティに重要な役割を果たすこと期待している。高齢者デイサービス施設や生活介護施設の談話空間が、温泉・レストランを利用する一般客の動線上に配置されていることに運営姿勢が顕著に顕れているといえる」とも書かれています。まことに興味深いですね。
さらに、同HPには「健常者が暮らす施設としてサービス付き高齢者向け住宅(全32戸)、学生住宅(全8戸――このうち2戸はアトリエ付き住宅である。)がある。学生たちにはボランティア活動をすることによって家賃を割り引く仕組みを導入することで、障害者との積極的な関わりを生み出そうとしている。住民の生活の支えとなり、潤いをもたらし「アクティブ・エイジング」を可能にする様々な施設もこの街に入居している。クリーニング店、Publish Bar、ブータン・セレクトショップ、料理教室、ボディケア、ウクレレ教室等個性的な店舗がこれにあたり、その他NPO法人ガイア自然学校、一般社団法人地域スポーツシステム研究所が入居し、こどもたちの活動を支えている。また、アルパカ牧場やドッグランの施設もこの街に和らいだ雰囲気と潤いを与えている」とあります。
Share金沢にて
わたしは、Share金沢を見学して、大きな衝撃を受けました。宮沢賢治の「羅須地人協会」、武者小路実篤の「新しき村」などの各種ユートピア実験のアップデート版といった印象でした。まさに、拙著『リゾートの思想』(河出書房新社)の中で詳しく構想を述べた「ハートピア・ヒア」の世界です。わたしは今、「コンパッション」というコンセプトを追求しています。アラン・ケレハーの著者『コンパッション都市』(慶應義塾大学出版会)で述べられるコミュニティは「悲しみの共同体」ですが、わたしはこれまで「コンパッション」は「ウェルビーイング」を超えた思想であると思っていました。しかし、ここに来て、「ウェルビーイング」と「コンパッション」は相互補完する概念であり、わたしの代名詞である「ハートフル」を二分する重要概念であると悟りました。こうなったら、こうなったら、現在執筆中の『コンパッション!』(オリーブの木)と並行して『ウェルビーイング!』という本も書き、双子本として2冊を同時に上梓したいと思います。どうぞ、お楽しみに!
『翁童論』(新曜社)
Share金沢は小さな互助共生社会で、ミニ・コンパッション都市であるとも思いました。学生の入居について、家賃を低くするかわりにボランティアをしてもらう点も興味深いです。双方にメリットがあり、ボランティアを通して老人と学生の人間関係づくりのきっかけにもなります。Share金沢で高齢者と児童が自然に交流する姿を見て、「幼老院」というコンセプトを連想しました。Tonyさんは、ご著書『翁童論』(新曜社)などを通じて、現代社会の危機を具体的に子どもと老人の生命と文化の危機、すなわち翁童存在の危機ととらえ、問題提起をされてきました。
その問題とは、第1に「子どもは単に子どもなのか」という問いです。その答えは、子どもは単に子どもであるばかりではなく、その内に老人を内包しているというものでした。Tonyさんは、その答えを神話や民族儀礼などの伝承文化を考察するところから引き出そうとしました。原始社会から近代に至るまで、いや、近代社会にあっても沖縄やアイヌや世界各地の民族社会では、子どもはおじいさんやおばあさんの生まれ変わりと信じられてきました。子どもは祖父母の生まれ変わりという観念は、古い民族社会で根強く残されてきました。
ここで注目すべきなのが、北陸と並ぶわが社の重要拠点である沖縄です。沖縄には「ファーカンダ」という方言があります。「孫」と「祖父母」をセットでとらえる呼称です。これは、親子、兄弟という密接な人間関係を表わすものと同様、子どもとお年寄りの密接度の重要性を唱えているものと考えられます。超高齢化社会に向けて、増え続けるお年寄りたち。逆に減り続け、街から姿が消えつつある子どもたち。その両者を「ファーカンダ」という言葉がつなげているのです。「ファーカンダ」は「ファー(葉)」と「カンダ(蔓)」の合成語とされますが、それは、葉と蔓との関係のように、切っても切れない生命の連続性を示していると言えるでしょう。
『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)
わたしは、1992年に上梓した『ハートビジネス宣言』(東急エージェンシー)において「幼老院」なるプランを提唱しました。それは、老人ホームあるいは養老院のような「老人施設」と幼稚園あるいは保育園のような「児童施設」を同じ施設内か同じ敷地内につくるプランでした。老人と子どもは相互補完的な関係にあるとされますが、おじいちゃん子やおばあちゃん子が多いように、もともと老人と子どもは「セックス」や「労働」といった生産的行為から自由な遊戯的存在同士だから相性がよいのです。老人と子どもがドッキングすれば、高齢者は老人性痴呆症の進行を早める高齢者だけの集団生活よりも張りが出てくるし、生きがいも持つことができるでしょう。また子どもにしても、仕事や社交に忙しい父親や母親が教えてくれないさまざまな知識や人生の知恵を老人から学ぶことができるのではないかと訴えたわけです。
『老福論』(成甲書房)
今日、児童施設と老人施設を合体させようとする動きが各所に見られます。それはとても望ましい試みであり、わが年来の主張とも一致します。しかし、そのハード面の整備だけでは足りません。ソフト面の開発と活用が緊急の課題となっていると思います。そうでなければ、生命と文化の連続性と活力が生まれてこないのです。例えば、高齢者が折り紙を子どもたちとともに折ることや、縄のない方、遊戯、昔話、体験談などを、子どもたちに興味を持たせるような工夫と取り合わせで推進していくこと。老人の知恵と生きがいを役割と生きがいをうまく演出し、実現することによって、子どもたちに「人は老いるほど豊かになる」ということを実感させます。子どもと老人の波長の共鳴度を高めることによって、社会にはハーモニーがもたらされます。「幼老院」というキーワードが象徴する世代間の文化伝承のお手伝いができるのは、わたしたち冠婚葬祭互助会だと確信しています。今度お会いしたときには、ぜひ、そのへんのお話もさせていただきたいと思います。それでは、Tonyさん、次の満月まで!
2023年2月6日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
今日、2月6日は穏やかな一日でした。大文字山の雪もすっかり消えて、3月上旬のあたたかさ。東山から昇る朝日もよく見えましたが、満月は見えはしましたが、おぼろにかすんでいました。これまた春の風情がありました。いよいよ春ですね。
Shinさんのこのところの活躍は目覚ましいものがありますが、社長になって21年。今年はお互い年男で、60歳と72歳。還暦者と中期高齢者の初春となりますね。今年は残念ながら、天河大辨財天社の鬼の宿(2月2日)、節分祭(2月3日)、立春祭(2月4日)には参詣できませんでしたが、来年こそは吉野の奥里を訪ねたく思います。
さて、振袖墨汁事件に対するShinさんおよび株式会社サンレー・松柏園ホテルの川俣日登美副支配人の対応はすばらしい臨機応変であり、新たなコンパッションサービスの創出ですね。さぞかし、墨汁で晴れ着の振袖のみならず、晴れたる心に傷を負ったお嬢さんもそのコンパッションサービスにより心の晴れ間を取り戻したことでしょう。「コンパッション企業」という理念を、このような場面で、事件や出来事に即応しつつ、迅速丁寧に「コンパッションサービス」ができるということは、理念と実践の幸福な相即だと思います。ぜひ地道な積み重ねを続けてください。大変期待しています。
それから、金沢の「Share金沢」という「コンパッション都市」のモデルともケースとも言えるという施設ですが、ぜひ1度わたしも訪ねてみたいですね。とりわけ、子どもたちと老人たちとの自然な交流というのは、わたしにとっても、1988年の『翁童論―子どもと老人の精神誌』(新曜社)以来の35年に及ぶ持論ですので、そのような施設や具体的な実践事例が出来ていることはとても頼もしくも、嬉しく、励みにもなります。特に、超少子高齢化社会の日本においては、そのような幼老施設の拡充は、子どもと老人の創造性の発露や世代間交流や生き甲斐の創出、慈愛に満ちた社会の実現の第一歩となるものと期待します。
また、金沢と言えば、昨年5月に、金沢で巨石ハンターの須田郡司さんと写真展を「ギャラリー椋」で開催した際、サンレー北陸の大谷総支配人や数人の社員のみなさんが駆けつけてくれたことを改めて思い出しました。その節は、本当にありがとうございました。金沢のサンレーのみなさまにくれぐれもよろしくお伝えください。
さてこの間、わたしたちは、1月22日(日)に同志社大学で、一般社団法人日本宗教信仰復興会議(https://www.hukkoukaigi.or.jp/)主催のシンポジウム「現代における宗教信仰復興を問う 2.危機の時代における文化の継承と創造」を開催しました。
その動画が以下のYouTubeにアップロードされていますので、お時間のある時にご覧ください。https://youtu.be/v7HT7pH499s
なお3月初めには、討議起こしテキストも上記一般社団法人日本宗教信仰復興会議のHPに掲載する予定です。
「現代における宗教信仰復興を問う」
シンポジスト(あいうえお順)
岡田真水 岡山県妙興寺住職(仏教)
加藤眞三 慶応義塾大学名誉教授(大本)
鎌田東二 京都大学名誉教授(神道)
小原克博 同志社大学教授(キリスト教)
島薗 進 東京大学名誉教授
水谷 周 日本宗教信仰復興会議代表理事(イスラーム)
弓山達也 東京工業大学教授
主催:一般社団法人日本宗教信仰復興会議
島薗進編集 『宗教信仰復興叢書』刊行記念 全7巻+別巻 京都会場 シンポジウム「現代における宗教信仰復興を問う②」
2.危機の時代における文化の継承と創造
「京都」は1000年以上の長期にわたる日本の都で、そこでは常に「伝統」と「流行」が緊張感を持ってせめぎ合ってきた。しかし、明治維新後、日本の首都が「東京」に移って、東京がめまぐるしい「近代」を体現する年になったのに対して、京都は過去の歴史文化を保持してきた日本文化の砦のように見なされてきた。だが、実はそこにも「近代」の新しい波が押し寄せ、最古と最新がぶつかり合いながらダイナミックな生成を生み出していた。京都という都市を舞台に展開されてきた危機とその打開の創造を多角的な論者の視点から検討してみたい。また、その議論を通じて、広く現代社会における宗教をめぐる課題についてもアプローチしていきたい。
日時:日時:2023年1月22日(日)13:00~16:30
場所:同志社大学 良心館内
13:00 開会、黙祷(進行 加藤眞三)
13:03 聖書朗読及び祈祷(小原克博)、法螺貝奉奏(鎌田東二)
13:10 島薗進編集長、割田剛雄国書サービス社社長挨拶
13:20 討論開始(司会 小原克博)
シンポジスト 岡田真水、鎌田東二、水谷周、弓山達也
13:00 休憩
13:20 再開
コメント(島薗進、加藤眞三)
16;30 横笛奉奏(鎌田東二)、閉会
1,「危機の時代がもたらすもの-環境宗教学の観点から」岡田真水
【要旨】大きな環境危機は人類の歴史上何度もあった。3000m級の山が吹っ飛ぶ大噴火・大地震・何十年も続く大旱魃・寒冷化などの天変地異、大飢饉・蔓延する疫病・世界的戦争。ペストでヨーロッパの1/3、中国の2/3が命を落としたこともあった。
幸いにも、その度ごとに人類は多大の犠牲を払いながらも生き残り、環境危機を乗り越えた後には、常に宗教の復興・刷新が残ったと言ってよいだろう。現在残っている文化はそのような大きな危機を越えて継承されたものである。
しかしながら、過去の歴史的環境危機と今日のそれを比べると、これまでとは全く異なる要素があることに気づく。その一は、人類がかつて経験したことのない人口圧。その二は、現代の気候変動が自然現象ではなく、他ならぬ人類が起こしたものであること。今ひとつは原子力に関わる環境危機である。
本発表では、まず、かつて人類が越えてきた大きな環境危機とそのあとに残った宗教文化がどんなものであったかを俯瞰し、今日の危機がもたらす未来に対して我々が抱く絶望と希望について考えてみたい。
2,「危機と問題解決に向けて」鎌田東二
多くの人が感じとっているように、現在今日、カタストロフィックとも言えるような大きな「危機」の中にあるように思える。第一に環境危機。たとえば気候変動による自然災害の多発や激甚化などなど、これまでとは全く異なる気象状況に翻弄されている。第二にそれに伴っての食料・エネルギー的危機。異常気象によって作物の不作や輸出入制限が起ると飢餓の拡大をもたらすことになる。第三に経済危機。コロナパンデミックやウクライナ戦争による物価の高騰や貿易などの交易の不安定化が起こっている。それは第四の政治危機を引き起こす。ウクライナ戦争のみならず、各地域紛争による対立と分断とテロリズムの脅威は高まっている。第五に文化危機。アーティストの困窮はもとより、芸術施設の運営の困難や助成金の目減りも起こっている。第六に深刻化する教育危機。オンライン教育にシフトせざるを得ない教育環境がさらなるいじめや差別を加速し、生き甲斐を見失い、居心地の悪さを感じ、自己肯定感が持てない子どもたちも増えている。それに連動して第七に家庭危機。孤独・孤立・分離・分裂・無関心・虐待・家庭内暴力が進行している。第八に健康危機。コロナ禍により十分なアウトドア活動や交流ができないことによる健康不安と抑鬱の他、食糧事情の心配もある。第九に宗教危機。旧統一教会問題がいっそう深刻に突き付けた宗教(教団)ないし宗教活動に対する不信感と警戒感の醸成などなど。これらの「危機」を踏まえて、京都の自然と宗教風土の中で培われた問題対処法とそこで見いだされた叡智の形を掘り起こしてみたい。
3,「宗教における易と不易―カアバ殿とその意味合い」水谷 周
古い伝統の不動の存在が現代の宗教信仰に持つ意味合いを考える。
1.建造の歴史
・天地創造以来の歴史、世界初の家であり礼拝の方向、世界の中心という発想
・幾多の破壊―火事、洪水など ・多数の部分品寄贈の歴史―黒石の復旧、キスワ布、雨樋、ハティームの囲いなど 2.初見参の感動、逸話など
・多数の作家、歴史家などの感動の描写、日本人巡礼者の熾烈な言葉など
・その上を飛ぶ鳥の病気が治る、カアバ殿の雨は豊作の方向を示すなどの逸話は、カアバ殿に寄せる思いの強さの表現でもある。
3.現代にも息づくカアバ殿の迫力と意味合い
・「心の中のカアバ殿」クルアーンの啓示の言葉とカアバ殿という疑いない物的証拠。
・宗教上、不易な存在は信仰の堅固さであり、それが眼前に現存することに重い意味合い。人の移ろいやすさを教えられ、崇敬の対象。集まる人の群れの中での圧倒的な平等感と超越者としての主の実感。毎年の巡礼は約400万人。同時に上げる祈りとしては、世界最大。正月の明治神宮は3日間で、300万人。不動なものは物事を単純化する。
・どの宗教にも不動の存在に同種の意味合いが見出せる例があるはず。さらに京都の伝統も視野に入ってくる。例としては不易の一服と揺れる茶人という関係など。
4,「危機における宗教信仰、あるいは無自覚の宗教性の表出」弓山達也
[要旨] 本シンポジウム主催の「日本宗教信仰復興会議」という名称を聞いて、皆さんはどのように感じられただろうか。全人口中、信仰者は1割、関心層を含めても3割という日本にあって、「信仰復興」という言葉には疑問や疑念、もしかすると穏やかではない「何か」を感じた向きもあったかもしれない。報告者は刊行記念となる叢書第1巻で福島県下のスペイン風邪と東日本大震災といった大規模災害時に、非宗教者から生と死の連続性のような感覚が、時に明確な死生観をともなって表出される事例を紹介した。そこには「信仰復興」を、教団から離れた「無自覚の宗教性」(稲場圭信大阪大学教授)にも拡げて見てみたいという意図があった。
さて東日本大震災から10年を期して、被災地各地ではいわゆる「伝承館」の建設が相次いでいる。そしてそこには祭り、魂やいのちの行方、生と死を主題とする展示が少なくない。本シンポジウムのテーマ「危機の時代における文化の継承と創造」に言寄せれば、危機にあって人は、それを乗り越えようとする時、必然的に宗教的表現を模索したり、そこに舵を切ったりするのかもしない。報告では、そこに新たな文化創造の可能性を見出しつつ問題提起していきたい。
会場においては、参加者に、『宗教信仰復興叢書第1巻』か『信仰の滴』(ともに国書刊行会刊)を贈呈しました。
もう1つ、報告があります。Shinさんや株式会社サンレーにもご支援いただいた「京都伝統文化の森推進協議会」(https://kyoto-dentoubunkanomori.jp/)のクラウドファンディング(https://the-kyoto.en-jine.com/projects/denbunnomori)が、以下のように、支援数402、目標達成率114%、集まった金額5,721,000円、で無事成立しました。ご支援、また広報ご協力などなど、まことにありがとうございました。心よりお礼申し上げます。集まったお金は、計画に示してある通り、東山の森の整備と活動に有効に使わせていただきます。同時に、これから、リターン活動を実施してまいりますので、よろしくお願いいたします。
最後に、このところ、昨年9月に、北海道の旭川(9月17日)・札幌(9月18日)・函館(9月19日)に、「吟遊詩人」の吟遊の旅をしたこともあって、この年末年始以降も、吟遊していきたいと詩を書き溜めておりました。1月17日から今日2月6日までに書いた詩を、ムーンサルトレター215信の最後に記しておきますので、ご一読ください。
その前に、「メディアあさひかわ」2022年11月号に掲載された「令和の吟遊詩人」の記事を貼り付けておきます。
また、2023年2月2日の天河大辨財天社の特殊神事「鬼の宿」が催される日に合わせて刊行した第五詩集『開』(土曜美術社出版販売、2023年2月2日刊)のカバーも貼り付けておきます。なお、この詩集は、Amazonからでも注文できます。
以下、2023年1月17日から本日2月6日までの間に書いた近作の詩です。
「指先に告ぐ」 2023年1月17日
指先に告ぐ
死期を悟らしめよ
天晴れて 月傾ぶける大文字
庵は朽ちて 草いきれ
天声人語は聞こゆれど
ただひたすらに 開けの明星
のうまくさまんだばだらだん
のうまくさまんだばだらだん
海月の島は今にも沈まんとして
最期の咆哮を上げている
ゆくりなくも おっとり刀で駆けつける
さぶらいたちよ
汝ら騎士のちからもて
この腹裂きて 岩戸を開け
夢の彦星 産み出せよ
夢の姫星 産み出だせ
友在りて 天声人語を 聞かせれど
狂天慟地の 只中を往く
二〇二三年一月十七日五時四十六分
阪神大震災の起こった時間に大文字山を見上げながら記す
「漂流船」 2023年1月18日
引き渡しの罪を問うた途端
露が落ちた
ひとしずくの星とともに
還っていくところをうしない
行く当てもなくさまよう心
難民という英語のひとつが
ボートピープルというのは
悲しすぎる現実だ
だが それ以上にかなしいのは
乗る船さえもない という 現実
ボートは ない
が ピープルは いる
ボートピープルが
海辺にも 山辺にも 街辺にも 押し寄せて
乗ることのできぬ船を待っている
けれど 乗ったとしても
行き先不明
どこに漂着するかわからない
漂流船
今 この地球そのものが
そんな 漂流船に なっている
「迷い」2023年1月18日
しかたがないの
令が言った
どうすることもできないのよ
そんなことはない
できることはある
あの手この手をくりだすのだ
あきらめるわけにはいかぬ
悪あがきでもよい
それが生き延びる道に辿り着く
その可能性をつくるのだ
「巴投げの叫喚」 2023年1月18日
巴投げの叫喚
アビダルマの本店を打ち破って
なけなしの借金を払う下宿人
もう一人のITを装着して自己を失い得る
もはや自業自得はありえない
あらゆる事態が他交他得
ひのきしんに訊く
水のこころを
よう言うた
おまえの杜若
さみだれのワルツ
「コンスタンツの君」 2023年1月19日
コンスタンツの君
いとをかしと崩れゆく
万華鏡の道徳
すべてはプリズム
組み合わせ
「難破船」 2023年1月24日
折に触れて想い出す 難破船
アラン群島の小島 イニシュア島に打ち上げられていた
痛々しいも崇高な難破船の残骸を
その寂寥きわまる単独者の神々しさ
あらゆるものを寄せつけぬ異物として
あらゆる調和をはじく異和の瘢痕として
あらゆる涙を吸いとるこの世の断崖として
そは 難破船
想い出せ
そのむかし くらげなす島の
漂流の行方のその先に
ひとつの光と希望があって
輝く海を渡り来し民のありしことを
想い出せ
激烈に噴火する秀麗なる山ごと
鮮紅に裂けて
畏怖と震撼を生み出し
ひれ伏しながらもよろこびに打ち震えたことを
想い出せ
相馬はるけくわたらせの
野に咲く白百合に
うやうやしくも膝まづきしあしたを
ゆくりなくも 落ちのびて
見せたほほ笑み
刻まれし苛烈
惨酷なるしるしとみなす
おきて
はろばろと時は過ぎゆき
死の累積を重む
絶望の谷に下りて
救いの水を飲む
想い出せ
くらげなす島の漂流の行方を
想い出せ
くらげなす島の彼方に聳え立つ蒼穹を
その無限遠点の理不尽
愛の傷痕を
「しばい」 2023年1月26日
ひとっ走りにつんのめって
覗き込んだ淵
細胞と星屑が攪乱されて渦巻く深淵
遠いね
悉は言った
綺麗ね
令は応えた
道行きの向こうに
ひとふしの星林がある
「銀河鉄道」と看板があって
またたく星の電飾がせわしく立ちはたらいていた
どこへゆくの?
令が訊いた
そうだね、彼岸かな?
悉は答えた
彼岸とは色を超えた場所
界を越えたところ
形なき次元
そう
時も場所もなくなっていくんだね
見違えるほどのかなしみをかかえて
そらをとんでかえる
からす なぜなくの?
うつせみの
うつくしみの
うかつだったあのころ
すべてのいのちにひかりのしずくがおちていて
何を見ても眩しかった
いとおしくも
いじらしくも
いかめしくもあって
みな 固有の回転軸の中で踊っていた
まるで お芝居みたい
令が言った
さる芝居かな? かみ芝居かな?
猿芝居でも 神芝居でも
賭け芝居でも 捨て芝居でも 闇芝居でもいいよ
これほどのおもしろい見世物はないさ
悉はひっそりと応えた
もう その芝居も 見ることがない
けれども その芝居が 終わることもない
いいね
ええ
ゆくよ
いきましょう
「ブランカ」 2016年1月26日
みかげ通りの木陰に白い家がある
ブランカという名の白い猫がいて
いつも道行く人を見守っている
人びとはそのまなざしにハッとする
こころの内を悟られたような
秘密の扉を開けられたような
しかしブランカのまなざしは何も語らない
ただ黙って見つめるだけ
そのまなこをきりりと開けて
ひたすら見つめている
道行く人はそれにより
見ることのちから
見ることのふかさ
まなざすことの永遠に触れる
そう
そのことによって
誰もが見る前に見られていることを知る
自分の前に大きな存在があることを知る
「とりあえずの君」 2023年1月26日
とりあえずの君にお伺いを立てた
必要なものは何でしょうか?
バナナ十本と白ウサギ
とりあえずの君は答えた
かしこまりました
なぜそれが必要なのかお答えくだされば幸いです
バナナ十本は十方世界への捧げもの
白ウサギは日月への使いである
畏れ多いことでございます
今この世界には三本のバナナもございません
そして白ウサギはいなくなってしまいました
とりあえずの君は言った
わかっておる
じゃから
とりあえずそれに代わるものを用意しろ
かしこまりました
こうして家来は
とりあえずの君に
バナナ十本と白ウサギに代わるものをうやうやしく用意した
うむ
仕方ない
とりあえずの君は
しかし
十方世界にも日月にも
捧げものもせず
使いも出さず
むしゃむしゃと自分で全部食べてしまった
後には残りかすさえ残らぬまでに
こうして
十方世界は飢え死にし
日月は光を届けなくなってしまった
とりあえずの君は
とりあえず滅んでしまったのである
「雲水」 2023年1月26日
雲が流れてゆく
自在に形を変えながら
雲は水に似ている
抵抗せずに自由自在に姿形を変えるから
雲は空の水である
そして水は大地の雲である
それらを組み合わせて 行雲流水
雲水は今日も往く
自由自在に 変幻自在に
「しばい 2 一人芝居」 2023年1月28日
一人舞台を降りた
空っぽの観客席
風が吹いている
声が漂っている
一人であるが
多くの人生を演じてきた
残響の息吹きの声
いとおしくもあり
いじらしくもあり
いとおかしくもあり
ふとどきながら
あめつちにことほぎの齢を捧げ
眼に見えぬ神饌となって 飛ぶ
海峡がある
渦巻がある
帆船が見える
人びとが往来している
この世とは天地の中にあって
あめつちをつなぐいぶきをもって
一人芝居のそれぞれが
一人芝居の交差点で
懸命に
まことをつくし
一所懸命に
一生懸命に
声を挙げる
この世とは
そのようないのちのゆらぎ
いぶきの交叉
声の交わり
一人舞台を降りて
階段を下りる
からっぽの観客席から
拍手喝采の見送りが聴こえてくる
ふりむきたくなるが
未練を残さず
まっすぐに次のステージに入ってゆく
次の
一人芝居の夢芝居にむかって
「ときじく」 2023年1月29日
凍りついた街角を曲がった途端
彗星の到来に遭遇した
周期する宇宙巡礼
余白は見えず
しかし 余裕たっぷり
大臣たちは討議した
ガス爆発する地球に未来はあるかどうか
科学者たちは進言した
データは終末
残り時間は30秒を切りました
が 有効な手立てを打てず
効果のない祈りが混乱に拍車をかけ
さまざまな思惑がもつれにもつれて
誰もが絶望の明日を見た
けれども そんな中
子どもたちは元気に遊び
朝日を見上げ
夕日に見惚れ
風に吹かれて歌を歌った
収支決算は大赤字
自己破産のドミノ倒しではあるが
生き延びる力が試されつつも託された
凍てついた夜
街角に立って
銀河鉄道を待っている
ツーツーツー
ピーピーピー
応答せよ
応答せよ
応答せよ
通信は途切れがちだが
ゴドーを待つ
ゴドーも待つ
「マヨルカ」 2023年1月29日
黄昏のショパン
嗚咽をもらす井戸の中から
烏と蛙が飛び出した
みずすましの憂鬱に
溶けだしてゆく蝙蝠
港なのに入れない
手続き不能の難民と
道端で挨拶を交わす鷹
とどのつまりは
謝肉祭の犠牲者は誰か
マヨルカで訊いた
一振りの森のソナタに
遠吠えで応える狼よ
もはや取り返しのつかぬ連弾の攻撃波
響き渡るピアニッシモの雷鳴
沈黙を越えて海を渡るバラッド
どこまでも遠くまで行けるね
二人は手を取り合って身を投げた
「白洲の海」 2023年1月30日
白洲の海に香り立つ
かぐわしくもあまくあたたかな
巻貝が首をのばして聴いている
夜明けのうた
元始
ふるえる粒子がぶつかり合って
ふしぎな遭遇接近や反撥や融合を重ね
気の遠くなるような緻密なくりかえしののちに
配合の妙
元始細胞がうまれた
その元始の声が
どのいのちにもとどき
鳴り響いているために
<生きとし生けるもの
いづれか歌を 詠まざるける>
おのずといのちの合唱が生れてくる
白洲の海に立つと
その声たちのレゾナンスのなかに
それぞれのいのちの微細な振動が
異なる周波数の熱情となって
伝わり合う
交歓
声を交し合うよろこび
どこまでものびいたって
すべてのいのちの宇宙のはてまで
しっかりととどく
多声の 異声の 個声の 合声の
無限合唱隊
白洲の海から出航するあらゆる船舶は
十方世界の涯てをめざして帆を上げる
おお 高波よ
白洲の海に香り立つ
元始の声の残響に
この耳ふるわせて傍受する
つたえよ こえを
そのゆくえ
いのちのさきへと
かえりゆけ
「鬼尽し」 2023年2月4日
鬼ととも 立つ春迎え 峠越ゆ
大和路を 越えてゆくらむ 鬼影の
足跡を追う こころなみだか
追いゆけど み跡も消えし 鬼の里
この世の痛み 背負いゆくもの
鬼尽し 彼岸此岸の 花うたげ
「喪の作業」 2023年2月6日
横なぐりの風
どしゃぶりの雨
すべてをなぎ倒す竜巻
あらゆるものひとをのみ尽くす津波
地上を覆うものすべてを焼き尽くしていく火
次から次へと押し寄せて
息つくひまもない
今ここの
だが その中で 生きる
覚悟して生きる
受け止め 受け入れて 生きるほかない
何を覚悟するか?
いのちというものことのしくみとふかみを
物事には荒魂も和魂もあり
そこにさらに幸魂も奇魂も加わり
あらゆる生成変化を
予測しがたい変幻自在の中で
翻弄されるようでありながら
めぐみを受けて
収奪も略奪もあって
身ぐるみ剝ぎ取られる痛みもあって
けれども
その痛みや苦しみすらもめぐみのなかにあって
めぐみとみのりとともにあって
すべてを受けて
すべてを容れて
しみじみと頭を垂れて
ふかぶかと身を伏して
手を合わす
ごめんなさい
ありがとう
ごめんなさい
ありがとう
「悲今 方丈記」 2023年2月6日
ゆく河の流れは絶えて
しかももとの水にあらず
よどみに浮かぶセシウムは
消ゆることなく汚染をつづけ
ひさしくとどまるためしあり
世の中にある人とすみか
追い追われて ただ流浪あるのみ
たましきの都のうちに
棟を並べ 甍を争える もろひとらの住まいも
今はむかし
残りし家すでになし
昔ありし家々も一つ残らず朽ち果てて
今は都も雛も廃墟となりにけり
大家滅びて小家となるどころではなく
大家滅びて小家も滅び
住みし人もこれと同じ
都も里もかつてはにぎわい 人いと多かれど
いにしへ見し人は ひとりたりとてなし
朝に死に 夕べに生まるるが人の世のならひなれども
あしたに死に 夕べに死す
累々たるしかばねも風化せり
人 いづかたより来たりて いづかたへか去る
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに昏く
死に死に死に死に死んで死の終わりに冥しといえども
この世をば仮の宿りとせしゆえは
たがためにか心を悩まし
何によりてか目を喜ばしむる
そのすみかもあるじもみな無常塵風
朝顔の露と消えぬ
あるいは露落ちて花残りしといえども いつしか朝日夕日に枯れ萎む
次なるあしたも さらなるゆうべも ひさしく待つことあらず
待ち人来たらず
待ち水来たらず
待ち 来たらず
言語道断 不生不滅の逆縁浄土なり
「鬼しぐれ」 2023年2月6日
この花折れ峠には 鬼しぐれが降るという
いつしか鬼に巻かれて物狂いの形相の中で
狂騒乱舞の暁に忽然と息絶ゆると云う
ある冬の朝まだき
わたしはゆっくりと峠道に歩を進めた
梅の香がほのかににおう
身を隠していた若芽がいつしかわが世の春と顔を出す
春爛漫とはいかぬが
奥床しくも春景色
こころゆくばかりに香も景も楽しむ
この世をば いとしきものと おもえども
いのちらんまん 沓掛の道
と
にわかに時雨て来た
こりゃいかぬ
山の天気のふたごころ
おもいもかけぬ 絶世の
においたつような 花時雨
とは のんきにうたっておらねぬ
不気味な様相
一天にわかにかき曇り
雷鳴とどろき 閃光走り
針刺すような氷雨なり
白くけぶれるしぐれ雪
身をふるわせて 痛み受く
はてなきさかいの かそけさよ
この身を捧げて 引き潮の
戻る道なし 夕まぐれ
ただひたすらに こいねがう
のうまくさまんだばだらだん
のうまくさまんだばだらだん
ここに降りたる鬼しぐれ
いかなるもののしわざなれ
どのみちわれは身を捧げ
この世の果てに旅ゆかむ
鬼なれ 神なれ ものけなれ
この身を喰いて 生きなされ
われはひたすらつくすらむ
なににもかれにもつくすらむ
どのつらさげて かえらりょか
いきつくとこまで つれてゆけ
おお
なむ かみほとけ
おお
なむなむ かみほとけ
祈りか狂いかわからねど
いつしかしぐれはやみにけり
いつしかしぐれはやみにけり
峠の先に日が落ちて
峠の端に陽が墜ちて
真っ赤な夕映え立ち上がり
花折れ峠を染めにけり
花折れ吾を染めにけり
いとどなつかし花折れぞ
いともなつかし端折れぞ
この花折れ峠には 鬼しぐれが降るという
誰もが一度は通るという
「夢路山のウサギとカメ」 2023年2月6日
夢路山の月坂を登っていくと
ウサギとカメが立ち話をしているのに出逢った
ボクは足が速いんだよ
かけっこしようよ
わたしは足が遅いのよ
かけっこよりも歌合戦しましょうよ
そうだなあ
両方やってみようか
ウサギはかけっこが速いが
カメは歌が上手
ふたりは競争よりも
共演することで
たがいを護り合った
「火伏せの山」 2023年2月7日
火伏せの山として知られる霊山
そは 火を隠し持つ聖山
人を寄せつけぬ険しさと激しさ
けれど 人を魅了してやまぬ神秘
そこに どのような火が燃えているのか?
火を吐く恐竜のような荒ぶる山の烈火
赤い蛇体のように流れ落ちる溶岩
樹木を焼き尽くす山火事の火
悩める心を激しく焼き焦がす火
人と人との間にあたたかに灯る火
いろんな火があるのだ
多様な火の多様な顕われがあるのだ」
母は言った
災難が起こるから火打ち石を持て!
父は言った
災難を乗り越えるために火打ち石を打て!
吾は言う
災難を受け止めるために火打ち石を配れ!
汝は言う
災難の後を生きるために火打ち石を隠せ!
さまざまな火の処方がある中で
火伏せの山はそのどれにも生成変化する
そは 火を秘め持ちながらも 火を抑えることもできる山
火を鎮めるための天地の清水を満々と湛える山
そんな 火伏の山に わたしはなりたい
今回は、詩篇が多く、たいへん長文のムーンサルトレター215信となってしまいました。それでは、近々、またお会いできる日を大変楽しみにしております。くれぐれも御身お大事にお過ごしください。
2023年2月6日 鎌田東二拝
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