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シンとトニーのムーンサルトレター 第044信

第44信

鎌田東二ことTonyさんへ

 Tonyさん、ヨーロッパはいかがでしたか?パリにも行かれたとのことで、久々の「魂の里帰り」を満喫されたことだと思います。日本では、各地で桜の花が咲き、多くの人が花見で盛り上がりました。わたしも小倉の自宅や実家の庭で、東京の四谷で、金沢の兼六園で、それぞれの桜を楽しみました。それにしても、日本人は本当に桜が好きです。最近、『花をたのしむ』(現代書林)という本を上梓したのですが、その中に「バラを愛する西洋人、桜を愛する日本人」という一文を書きました。西洋人が「永遠の生命」のシンボルであるバラを愛するなら、日本人は「限りある生命」のシンボルである桜を愛してきました。

 日本人がいかに桜好きか。それは、最近のヒット曲のタイトルを見ただけでよくわかります。福山雅治「桜坂」、宇多田ヒカル「SAKURAドロップス」、森山直太朗「さくら(独唱)」、河口恭吾「桜」、中島美嘉「桜色舞うころ」、ケツメイシ「さくら」、コブクロ「桜」、アンジェラ・アキ「サクラ色」、いきものがかり「花は桜 君は美し」、エレファントカシマシ「桜の花、舞い上がる道を」などなど。毎年、桜に関する歌が発表されて、それがヒットする。これは、かなりすごいことではないでしょうか?ちなみに、わたしは花見の後のカラオケ大会では、ORANGE RANGEの「花」を熱唱しています。

 冠婚葬祭業というのはとにかく花と縁が深いこともあり、わたしも男ながらに花には興味があります。というより、花が大好きです。わたしの趣味のひとつにガーデニングがありますが、わが家のささやかな庭にはさまざまな花が植えられています。一年を通じてその季節ならではの花を楽しんでいますが、4月になれば、庭で一番の老木である桜が花を咲かせはじめます。わたしは、4月だけのために一年中、この厄介な桜の木に耐えているといっても過言ではありません。夏には毛虫、秋には毎日落ちてくる鬱陶しい落葉の掃除にもじっと耐えているのは、この4月に開花するわずかな期間の感動のため。数日間あたたかい日が続くと、またたく間に桜は満開になります。見上げると、空の青に桜の薄いピンク、その色のコントラストの見事さに時の過ぎるのも忘れて見とれてしまいます。

 そして、さらに美しいのは、散りゆく桜の花びらが風が吹くたびに文字通りの桜吹雪となって宙に舞うときです。くるくる舞いながら無数の花びらが落ち、やがて地面は薄いピンクのカーペットになってしまいます。そのさまを見て、わたしは「人の人生も桜と同じだなあ」としみじみ思うのです。そして、ピンクのカーペット上で「花は咲きやがて散りぬる 人もまた婚と葬にて咲いて散りぬる」という短歌をかつて詠みました。

 桜が散る頃、ときを同じくして、秋に球根を植えたチューリップが咲き、パンジーやリナリアやプリムラといった一年草が花壇を飾ります。これまでの冬のモノトーンの世界からやっとカラフルな世界が出現するさまは、まるで映画「オズの魔法使い」でジュディ・ガーランド扮する少女ドロシーが愛犬トトと一緒にマンチキンランドに足を踏み入れたとたんに映画が白黒から総天然色に一変する場面を連想させます。そして、目いっぱい色のある庭に歓喜しながら、わたしは春の息吹を体じゅうで感じるのです。

 かくも花を深く愛しているわたしですが、いつも思うことがあります。それは、花はこの世のものにしては美しすぎるということです。臨死体験をした人がよく、死にかけたとき、「お花畑」を見たと報告しています。きっと、花とはもともと天国のものなのでしょう。天上に属する花の一部がこの地上にも表れているのだと思います。そうでないと、ただならぬ花の美はとても理解できません。

 結婚式やお葬式の会場にたくさんの花を飾るのも、式場を天国に見立てるためだと思います。花によって、その空間には天国の波動が満ちるのです。文化人類学者の竹村真一先生によれば、「工」という字は「天と地をむすぶ人の営み」を表わすそうです。ならば、天国のものである美しい花を地上に咲かせること、そしてその花を飾ること、それこそ本当の意味での「工」であり、「ワザ」ではないでしょうか。というわけで、わたしは結婚式でもお葬式でも、できるだけ多くの花を飾ることをお客様にお勧めてしています。

 ところで、桜が咲き乱れる最中の4月1日、わが社は入社式を行いました。今年も30名におよぶフレッシュマンとフレッシュウーマンがサンレーグループに入社してきました。世間では「内定切り」などが話題になっていましたが、無事に入社を果たした新入社員は一同に緊張感と安堵感を顔に浮かべていました。わたしも社長として重い責任を感じるとともに、やはり嬉しく、新入社員たちに「無事に入社されて本当に良かったですね」と声をかけました。そして、「ぜひ、若いみなさんに新しいサンレーを創造していただきたい。新しい時代を創るのは、やはり若い力です!」と呼びかけました。

 アメリカでは、若いオバマ大統領が誕生しましたが、選挙活動中のスローガンは「Yes,We Can Change!」でした。まさに、「百年に一度の波」と呼ばれる深刻な不況の渦中にあって、アメリカという巨大国家そのものが「チェンジ」してゆく必要があります。それが求められるのは、アメリカという国家だけではありません。アメリカで発達した強欲資本主義、キリスト教やイスラム教に代表される宗教衝突、黒人に代表されるマイノリティを差別する格差社会。オバマ大統領が、それらのすべてに「チェンジ」をもたらしてくれることを心から願っています。日本だって、自民党や民主党に代表される政界も、不況に揺れる経済界も、裁判員制度が開始される法曹界も、医療界も、教育界も、宗教界も、マスコミも、すべてが変わってゆかねばなりません。

 時代は常に変化します。今から2500年前にブッダは「諸行無常」を説きました。また、時を同じくしてギリシャの哲学者ヘラクレイトスは「万物はすべて流転する。太陽ですらも、今日の太陽はもはや昨日の太陽ではない」と喝破しています。さらに時代を遡れば、中国古代の殷王朝を開いた湯王は孔子も賛美した名君ですが、彼が沐浴に使った器には「苟(まこと)に日に新たにして、日日に新た、又日に新たなり」という言葉が彫ってあったといいます。「日に新た」ということを心がけ実践していくことが大切で、本当にそれを行なえば次々と自分が新しくなっていくという意味ですね。

 もともと、人間の肉体は毎日、2000億もの細胞が新しく生まれ、また死んでいきます。日々、新しい「自分」として生まれ変わっているわけですね。地球も同じ。前述の竹村先生は、著書『地球の目線』(PHP新書)の中で、「地球はつねにダイナミックに呼吸し、変動する生きた星だ。」と書かれています。そして、社会も変化します。わたしは最近、レヴィ=ストロースの著書を集中的に読み返しているのですが、彼は社会システムは「変化」を必須としていると考えています。そして、絶えず新しい状態になる「熱い社会」も、新石器時代のころと変わらない「野生の思考」が生きている「冷たい社会」も、ともに恒常的な「変化」を確保する社会構造を持っていると述べました。

 哲学者の内田樹先生は、著書『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)で、「驕れるものは久しからず」という『平家物語』と、「人類の歴史は階級闘争の歴史である」というマルクスの言葉は同じことを言っていると指摘しています。そして、「それは社会関係(支配者と被支配者の関係、与えるものと受け取るものの関係、威圧するものと負い目を感じるものの関係)は振り子が振れるように、絶えず往還しており、人間の作り出すすべての社会システムはそれが『同一状態にとどまらないように構造化されている』とういうことです」と、述べています。

 まさに、人間社会は変化し続ける構造になっています。人間や地球のように、変化しないと滅びてしまうに違いありません。そういえば、ビジネスも、「変化」を必須とする分野です。ピーター・ドラッカーは「マネジメント」を発明しましたが、その「マネジメント」を成り立たせているものとして「マーケティング」と「イノベーション」があります。マーケティングとは「時代の変化を読むこと」、そしてイノベーションとは「時代の変化を起こすこと」だと言えるでしょう。もちろん、どちらも重要です。

 現代の日本は幕末以来の「時代の激変期」です。幕末の勝海舟は、時代の変化を的確に読める「マーケティングの達人」でした。その時代を読む目によって、彼は新政府軍の江戸城攻撃の前日に西郷隆盛と会談を行い、江戸城を無血開城に導いたとされます。
海舟を暗殺しようとした人物に坂本龍馬がいますが、その後、海舟のスケールの大きさに心服して弟子になっています。その龍馬も時代の変化には敏感でしたが、彼はマーケッターというよりも「イノベーションの達人」でした。来年のNHK大河ドラマの主人公ですね。彼が友人と行き会うたびに、長い刀、短い刀、ピストル、万国公法の法律書というように、持ち物を変えていたというエピソードは有名です。古い武器から新しい武器、新しい武器から法律あるいは民主主義へと、変化の象徴を求めながら、イノベーターである龍馬自身の自己変革を告げました。

 「彼は昨日の彼ならず」という言葉がありますが、今日の龍馬は昨日の龍馬ではなかったのです。彼にとっては、明日になれば今日は即昨日に変わりました。つまり、龍馬は「日々新たなり」の言葉通り、自己を果てしなく変革していったのです。自己変革とは、脱皮に次ぐ脱皮の行為です。彼は昨日の自己に何の未練も持たなかったし、捨てても惜しいとは思いませんでした。この連続性のある脱皮精神こそが龍馬を「龍馬」たらしめたのです。龍馬は2000年前の中国の思想家が口々に唱えた「社会を変革する者は、まず自己の変革者でなければならない」という言葉を、そのまま実践したのです。自己の変革者こそが、社会にイノベーションを起こせる存在なのだと確信します。

 そんなことを考えながら、「新しき時代をひらく始まりは おのれを変えることと知るべし」という短歌を詠み、新入社員に贈りました。彼らは、これまで授業料というお金を親に払ってもらって勉強していました。しかし、これからは会社が給料というお金を払います。当然ながら責任が求められます。

 「新」という漢字は、「親」と語源が同じそうです。何かを新しく変化させる場合、それに親しむことができて初めて理解することができ、新しくすることができるのです。ですから、「まずはこの会社に親しみ、上司や先輩に親しみ、企業風土や企業文化に親しんでください」と言いました。そのうえで、「これではいけない」「ここの部分は変えないといけない」と思ったら、大いに行動に移してほしいと頼みました。

 わたし自身も連続性のある脱皮精神を忘れずに「ニュー・一条真也」、いや、「ヌーベル・Shin」となって、ハートフル・ソサエティを呼び込むべく世直しをめざしたいと思います。よろしく御指導下さい。それでは、オルボワール!

2009年4月8日 一条真也拝

一条真也ことShinさんへ

 Shinさんも相当な花狂いなのですね? わたしは、とにかく、花は菜の花が一番好きで、菜の花の群生を見ると、はらはらと涙が流れます。どうしてでしょうか? 自分でも良くわかりません。緑の茎と黄色の花の組み合わせにはっと胸を衝かれ、どうしようもなくせつなくなり、涙するのです。わたしは死ぬ時は、100歳の誕生日に、房総半島の北の犬吠岬の菜の花畑の群生の中で、朝日が昇ってくるのを見て、「ありがとう」と言って死んでいく、と決め、毎日イメージトレーニングしています。そんなにうまくいくかどうかはもちろんわかりませんが、ね。けれど、うまく行こうが行くまいが、わたしは菜の花の群生の中で、菜の花に包まれて死にたい、といつも真剣に思っています。

 菜の花の次に好きな花は、杏の花です。その次が桃の花、次が桜。その次がたんぽぽ、そしてひまわり、と続きます。薔薇はどうも好きじゃないんです。赤がなんだかどろりとした感じがして。緑の補色は赤ですが、薔薇の花の赤はどこかどろりとした濁った感じがわたしはします。それに対して、菜の花とか、たんぽぽとか、ひまわりの黄色は、突き抜けていて、明るく、透明なのですね。すかっとしているのです。すきっと、立っていて、ダイレクトで、素朴で、けなげです。その素朴とけなげさが好きです。ネアンデルタール人も、墓に花を手向けた痕跡があるというから、いつしか花は人間の心の表現になっていったのでしょうね。

 わたしは、今、韓国のソウルのど真ん中の市庁舎の近く、西大門のフレイザー・プレイスという中長期型滞在のレジデンスで、時折満月を眺め、窓のすぐ外に聳える古めかしい平安教会の十字架を見ながらこのムーンサルトレターを書いています。

 昨日(4月9日)と本日(4月10日)の夜、金梅子(キム・メジャ)氏と創舞会(チャンム・ダンスカンパニー)の舞踊公演「舞本」(チュンポン)の舞台に、音楽家の細野晴臣さんや三上敏視さんたちと一緒に5人のユニットで、“ミュージシャン”として参加したのです。昨日は、世宗劇場Mシアターの630席が満席になるほどの盛況でした。今日も8割がた入っていたように思います。金梅子氏と創舞会踊りはすばらしく、内容的にも大変深く高度でした。反応も大好評で、来た甲斐があったと思います。

2009年4月10日、世宗劇場Mシアターでの公演終了後の楽屋で。
左より、三上敏視、高遠彩子、細野晴臣、鎌田東二、嵯峨治

2009年4月10日、世宗劇場Mシアターでの公演終了後の楽屋で。
左より、三上敏視、高遠彩子、細野晴臣、鎌田東二、嵯峨治彦
 金梅子氏は1943年生まれの韓国随一の舞踊家で、わたしは「踊る哲学者」と呼んでいます。その作品は大変思索的、瞑想的、哲学的、宇宙的で、深遠です。コズミック・ダンス・パフォーマンス。彼女の代表作の「舞本」は、宇宙の中での生命の誕生を表現した作品で、1、2、3とシリーズになっていて、今回は開幕冒頭で1を、ラストで2を金梅子さんが踊りました。その1の方の音楽をわたしたちが担当したのです。わたしは、いつものように、石笛、法螺貝、横笛、神楽鈴などを演奏しました。

 金梅子氏は、梨花女子大学舞踊学科の教授を長く勤め、韓国舞踊界の70%ほどの韓国舞踊のダンサーが金梅子氏に教わっているといわれるほどです。韓国舞踊界の重鎮中の重鎮、というよりも、もう人間国宝並みですね。舞踊家というよりも、魔術師とかシャーマンとか、魔法使いと言った方が良いといえます。並みの方ではありません、ほんとに。

 金梅子氏は、国際交流基金から派遣されて、1996年に日本文化研究のために日本にしばらく滞在されていました。その時、金梅子氏を高千穂夜神楽や沖縄に案内し、その案内人をわたしが引き受けたこともありました。それが縁になり、1997年の猿田彦神社での遷座祭で、「日巫」(イルム)という太陽のシャーマンの創作舞踊をソロで1時間踊っていただきました。その舞踊のすばらしかったこと。身も心もたましいも、すべてが震えるほど感動しました。舞踊であれほど感動したことはそれまでありませんでした。

 わたしは、土方巽さんや笠井叡さんなどの暗黒舞踏や聖霊舞踏も1970年ごろに見ているのです。舞踏家として期待された神領國資さんは親しい友人でした。その後も、舞踏については、ちょっとした観賞経験を持っているので、見方が厳しいかもしれません。土方さんや笠井さんなどの舞踏にはそれほど深い感動というのはなかったですが、金梅子さんの舞踊には本当に震えました。わたしが金梅子氏の舞踊を最初に見たのは、高橋巌先生が代表の日本人智学協会の主催だったかで行われた舞踊公演で、1985年の暮れか、1986年の初めだったと記憶します。それから10回は金梅子氏舞踊を観てきましたが、観るたびに凄いと思う気持ちが深まります。2日目で楽日の今日、わたしたちの担当が終わって、「舞本2」を客席で見せていただきましたが、心の底から凄い舞踊家だと敬服し、感嘆し、改めて深く深く尊敬しました。一度機会がありましたらぜひ観てほしいです。今年は、7月7日ごろに東京赤坂や関東地方で何回か踊るらしいので、その時時間を作ってぜひ観てほしいものです。

 今回はそのことと、わたしたちがやっている科研「モノ学・感覚価値研究会」の国際シンポジウムの参加候補者や研究者との面談も目的としておりました。国立民俗博物館の主任学芸員の金時徳氏(PhD)、ソウル大学人文学部美学科教授(美学、PhD,神学博士ThD)の金文煥氏、漢陽大学文化人類学科教授(文化人類学、PhD)の李煕秀氏、ソウル大学元教授でソウル健康村最高責任者の精神科医の李時炯氏(MD、PhD)、国際交流基金ソウル日本文化センター所長の本田修氏などの面々とお会いして話をすることができました。

 特に、精神科医の李時炯氏(MD、PhD)は、この20年、60名ほどの精神科医ばかりで、韓国と日本と台湾の比較文化精神医学の研究会を行ってきており、日本の対人恐怖症や老人の自殺が韓国や台湾のそれとどのように違うか、大変興味深い研究成果を話してくださり、とても参考になりました。日本の老人自殺はきれいに死にたいという理由が多いけれども、韓国のそれは子供が世話をしてくれなくなった恨み・怒りで自殺することが多いらしいですね。精神医学も、比較文化精神医学という領域だと、わたしの研究とも非常に近いものがあると思い、興味を持ちました。もっとじっくりと話を聞いてみたいと思いましたし、そういう研究をきちんと把握して討論してみたいとも思いました。新しいシルバー・ライフの構想を持って、実践しているShinさんや日本を代表する大手冠婚葬祭業の株式会社サンレーの業務内容とも深く関係すると思います

 ところで、わたしは「神楽」に関心を持ち、「神楽的生活」が「神道」であると思っていて、毎日「神楽」を実演しているつもりですが、そのあたりの「感覚」を、細野晴臣さんたちとの共著『神楽感覚』(作品社、2008年)に昨年、DVD付きでまとめました。

 わたしは3月もお彼岸の生まれですが、ちょうどその頃は菜の花が咲き、杏が咲き、桜が咲き始める頃で、わたしはこの時期にいつも旅をしたくなります、昔から。そんなわけで、今年は国際シンポジウムの参加者との打ち合わせで、パリ、ロンドン、ダブリンの3都市を2週間かけてめぐりました。

 パリでは、フランス高等社会学院の民族学者で大本教や日本の新宗教の研究者のジャン・ピエール・ベルトン教授と会って、ポリドールという店でフランス田舎料理を食べながら、3年ぶりにじっくりと話をしました。ベルトン教授との会合では、東京芸術大学大学院修士課程で邦楽部門の能管を納めて、映像作家&能管奏者としてパリで活躍している豊島由佳さんも一緒でした。豊島さんとは、彼女が東京芸大1年の時の1994年に世田谷美術館で「異界の風」だったかの演奏をジョイントして以来の再会です。15年前、世田谷美術館でのコラボレーションでは、わたしが石笛、豊島さんが能管を吹いたのでした。

 その豊島さんにパリに到着してすぐに連れて行ってもらったところが、エッフェル塔のすぐ近くに新しくできた民族博物館で、展示空間のデザインがとてもよかったです。大胆かつ細心で。またパリっ子らしい遊びとユーモアとエスプリが横溢していて。とてもおしゃれでしたね。Shinさんは行ったことありますか?

 わたしはもともと、博物館が嫌いです。それは、展示によって、土地性が無理やり剥がされてむき出しにされているからです。つまり、見世物展示が行われているから。もののモノ性=スピリット性が剥奪されて単なる博物的かつ美術史的価値を持つ物になり下がっているから。でも、ここでは、いろいろと展示空間を工夫し、デザインすることによって、そのモノが持つ原初性や原初の土地性(それが作られ置かれていた現場性)を感じさせてくれました。

 ところで、わたしはパリに来ると、定宿にしているプチホテルがあります。そこからは、わが母なるセーヌ川とノートルダム寺院がよく見えるのです。わたしにとっては最高に懐かしい景観の場所です。不思議なことに、わたしはなぜかここでは赤ちゃんのように心安らかになれるのです。自分に戻れるのです。なぜでしょうか? どう見ても、日本人にしか見えないわたしが、パリを故郷だと思い、パリにホームシック感情を抱くとは? 滑稽極まりない現象ではないですか? いずれにしても、わが人生は大変滑稽な人生ですがね。

 パリからロンドンに行き、八雲琴研究家にして大本教研究家で、ロンドン大学PhDのチャールズ・ロウさんと会い、これまた久しぶりにロンドン大学SOASに行きました。SOASは6年ぶり。驚いたのは、ちょうど展示室に『平治物語絵巻』が展示されていたことでした。そこに鎌田家の先祖が出てくるのです。御所に押し入って、三種の神器の一つである神鏡を奪った場面があるのです。まったく反逆児ですよ、わが先祖は。その鎌田正清は、源義朝と乳兄弟として育ち、長じて一の家臣となりますが、保元の乱(1156年)で平清盛らとともに勝利をおさめたものの、3年後の年の暮れに平治の乱(1159年)を起こし、後白河天皇を拉致しようとします。そこで御所に押し入るわけです。しかし、結局、熊野詣から急ぎ引き返してきた清盛軍に破れ、敗走し、尾張の国の知多半島の内海の庄の野間にある正清の妻の実家で、源義朝とともに騙し討ちに会って切り殺されてしまったのです。その時、義理の親兄弟に正月に酒を飲まされて殺されたというので、我が家では今でも正月3ヶ日は酒をまつらないし、飲むことも禁止されています。その『平治物語絵巻』にロンドン大学で出会ったのです。うーん、と唸りましたよ、この時は。

 今回の最後に訪れた地はダブリンでした。到着早々、市内のど真ん中の公園、セント・ステファン・グリーン・バークの噴水前でホラ貝を奉奏しました。すると、背の高いアイルランド男性が「それ、何?」って聞いてくれるんです。彼らはおもろい音にストレートに関心を持ってくれるんだなあ。14年ぶりのダブリンを歩きに歩き、トリニティ・カレッジ、テンプル・バー、リフィー河、ダブリン大学、etc・・・。そのあちこちで、法螺貝奉奏。

 14年前、客員研究員としてケルティック・スタディーズに籍を置いていたダブリン大学(UCD、ジェームス・ジョイスがここの1期生)に、日本大使館の一等書記官山田真示氏に車で連れて行っていただき、大学構内でダブリン大学の大地と空に向かってホラ貝を奉奏したのですよ。14年ぶりに、この地も、なつかしい(?)奇怪なニッポンのホラ貝の音を聴いたことでしょう。

 その頃ホームステイしていたマラキ&ケイコさんの家も訪ねましたが、なんとも懐かしかったです。ケイコさんとマラキさんは、冬の間はサンフランシスにいるとかですが、そこには相変わらずたくさんのホームステイの日本人やアイルランド人がいました。そこでも、ご挨拶に法螺貝と横笛を吹きました。

 アイルランドは経済不況ですが、わたしが到着した夜、ラグビーチームがウエールズチームに勝って優勝したので、クレイジーに熱狂していました。夜の中継時間にテンプルバーを歩いていると、どのパブも満員で歓声と応援で渦巻いていました。ところどころの親切なパブでは、液晶の巨大テレビモニターを外から見えるように街頭用に出しており、辻辻に立ち見が出来て、店の中と外の両方で大盛り上がりでした。この熱い国民性は、ケルトの魂でしょう。経済は変れども、魂は変わらず! 要は、これだよ、これ!

 ダブリンでもソウルでも感じたのは、芸術・芸能の力と、土地のスピリットの大事さということでした。それがあれば、お金が多少少なくとも豊かに生きていける、そう改めて確信しましたね。

 ダブリンからロンドン−香港経由の長旅で帰国した後、すぐNPO法人東京自由大学の春合宿で比叡山登拝するなどして、とにかく、この春はお遍路さんのようにめぐりにめぐっています。Shinさんともまたゆっくりお会いしたいですね。それまで、ごきげんよう。経済不況でも、今宵の麗しい満月のように、精神活況ですわ。それに賭けていきましょう!

2009年4月10日 鎌田東二拝