シンとトニーのムーンサルトレター 第190信
- 2021.01.29
- ムーンサルトレター
第190信
鎌田東二ことTonyさんへ
令和3年最初の満月が上りました。冷たい空に浮かぶ幻想的な満月です。Tonyさん、あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。例年は元旦の早朝は家族とともに門司の皇産霊神社で初詣をするのですが、今年は新型コロナウイルスの感染防止のために歳旦祭が初めて中止となり、初詣も延期しました(2日に参拝)。今年は東京に住んでいる2人の娘も帰省せず、寂しい正月となりました。
昨日の大晦日、東京の新たな感染者は1337人と初めて1000人の大台を超え、国内の感染者も初めて4000人を超えて4519人となり、過去最多を更新しました。それ以降も感染者は増え続け、ついには11の都道府県に緊急事態宣言が再出されました。各地では医療崩壊が現実のものになってきています。こうなったら、諸悪の根源である東京五輪の中止を1日も早く決定し、2月7日に予定されている宣言解除も先延ばしすべきだと考えるのは、わたしだけではありますまい。
皇産霊神社の瀬津神職と
松柏園ホテルの正月飾りの前で
1月4日、小倉の松柏園ホテルにおいて、サンレーの新年祝賀式典が万全のコロナ対応スタイルで行われました。式典に先立って、松柏園の顕斎殿で新年神事を行いました。コロナ後のニューノーマル仕様で、コロナ以前よりも人数を減らしてソーシャルディスタンスに配慮し、マスクを着用した上での神事です。わが社の守護神である皇産霊大神を奉祀する皇産霊神社の瀬津神職が神事を執り行って下さいました。佐久間進会長に続き、わたしも玉串奉奠を行いました。
それから、新年祝賀式典です。例年は500名を超える社員が参加しますが、今年は半数以下に制限して開催されました。また、新館ヴィラルーチェに第二会場も用意しました。最初に、佐久間会長とわたしが第一会場に入場。「ふれ太鼓」で幕を明け、「開会の辞」に続いて全員でマスクを着けたまま小声で社歌を斉唱し、「経営理念」も小声で唱和しました。
それから、佐久間会長による「会長訓示」です。佐久間会長は「昨年、世界を揺るがせた新型コロナウィルスによる感染症の蔓延と、これに起因する様々な社会変化ですが、当社も現在までその影響を少なからず受けております。このウィルスは想定外の速度で世界中を席巻し、一年前の私たちの生活からは想像も出来ない今日の状況をもたらしましています。しかし瞬く間に社会が変化したということを陽にとらえれば、現代社会があらゆる場所で繋がっているということであり、同時に、今回とは逆の『良いモノ・コト』を的確に発信すれば、すぐにでも世界中へと浸透させることが出来るということでもあります」と述べました。また、佐久間会長は「社会に対して責任を持つ私たち冠婚葬祭互助会は、ウィズコロナ・アフターコロナと呼ばれるこれからの社会に対しても、これまでと同じように適切な情報の発信と施策を続けていかなければなりません。その方法も、従来のものに加えてAI技術を活用するなど、今後の社会に適した手法を早々に実現する必要もあるでしょう。ですがその基本、すなわち当社の基本となる『社会のつながり』を創るという方針は不変です。冠婚葬祭互助会は人と人のつながりの上に成り立っています。人間同士の縁がなければ存在しえないということです。故に私たちは、今回の新型コロナウィルス以前から続く社会の無縁化を食い止め、縁の再生と構築に努めて参りましょう。本年も未だ『新しい社会』での模索の続く年になるとは思いますが、皆様、何卒よろしくお願い申し上げます」とも述べました。
サンレー新年祝賀式典のようす
社長訓示を述べました
そして、いよいよ「社長訓示」です。最初にみなさんと「あけまして、おめでとうございます」「今年もよろしくお願いいたします」と新年の挨拶をしてから、わたしは以下のような話をしました。令和3年、2021年の新しい年をみなさんと一緒に迎えることができ、たいへん嬉しく思います。昨年は、とにかく、新型コロナウイルスの感染拡大という想定外の出来事に尽きる年でした。ニューノーマルの時代となっても、わたしたちは、人間の「こころ」を安定させる「かたち」としての儀式、冠婚葬祭を守っていかなければなりません。コロナ禍の中で、わたしは冠婚葬祭業という礼業が社会に必要な仕事であり、時代がどんなに変化しようとも不滅の仕事であることを確信しました。感染症に関する書物を読むと、世界史を変えたパンデミックでは、遺体の扱われ方も凄惨でした。その反動で、感染が収まると葬儀というものが重要視されていきます。人々の後悔や悲しみ、罪悪感が高まっていったのだと推測されます。コロナ禍が収まれば、もう一度心ゆたかに儀式を行う時代が必ず来ます。
とにかく、昨年は新型コロナウイルスの猛威に振り回された1年でしたが、そんな中で社会現象と呼べる大ブームを巻き起こしたのが『鬼滅の刃』です。漫画も、アニメも、映画も、史上最大のヒットを記録するという信じられないような現象を巻き起こしています。「なぜ、『鬼滅の刃』はコロナ禍の中で大ヒットしたのか」という謎を解くために、わたしは『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)という本を書き、新年早々に上梓しました。
令和2年、改元の翌年にわたしたちが迎えた夏は極めて異常なものでした。新型コロナウイルスによってあらゆる行動が制限を受け、ビフォー・コロナでは取れた行動をそのまま継続できた例はほとんどなく、さまざまなことが「密」を避けるために変化を求められました。これは夏に行われる祭事、すなわち夏祭りや盆踊りも例外ではありませんでした。全国の花火大会もコロナ禍を要因に中止されました。このような状況は、夏祭り・盆踊りにしても花火大会にしても、年が明けたからといって、来年から従来通りの姿を取り戻せる保証があるわけではありません。
民俗学者の畑中章宏氏は、「日本の人々がこれまで続けてきた祭りのほとんどは、祖霊を供養するためと、疫病除去の祈願のためだったといっても言い過ぎではない」と指摘しています。確かに、日本の祭礼の目的は(稲の豊作祈願を含めた)祖霊祭祀と病疫除去にあったと考えて間違いありません。そして、その中でもいわゆる夏祭りは、病疫退散が主たる目的といえるものが少なくありません。これは夏という季節が、暑さによる人間の生命力低下とともに、病魔が広がりやすくなる季節であることが理由として挙げられます。
コロナ禍における祭礼のあり方は、日本人の「こころ」を安定させるためにも今後早急に検討されなければなりません。しかし、現在の状況の中で一縷の望みがあるとすれば、それは「まつりのあるべき姿」や「先祖祭祀のありかた」を見直す声が出ていることでしょう。日本人の「こころ」は神道・儒教・仏教の三本柱によって支えられています。そして、それらの三本柱には「先祖崇拝」という共通項があり、それが「かたち」として表されるのが儀式です。
冠婚葬祭、年中行事、そして祭礼は広く「儀式文化」としてとらえられます。それらは「かたち」の文化ですが、何のために存在するのかというと、人間の「こころ」を安定させるためです。コロナ禍では、卒業式も入学式も結婚式も自粛を求められ、通夜や葬式さえ危険と認識されました。しかしながら、儀式は人間が人間であるためにあるものです。儀式なくして人生はありません。まさに、新型コロナウイルスは「儀式を葬るウイルス」と言えるでしょう。そして、それはそのまま「人生を葬るウイルス」です。
人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも、ころころ動いて不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要です。多くの儀式の中でも、人間にとって最も重要なものは「人生の卒業式」である葬儀でしょう。新型コロナウイルスによる肺炎で亡くなった方の葬儀が行うことができない状況が続きました。芸能界でも志村けんさん、岡江久美子さんがお亡くなりになられましたが、ご遺族はご遺体に一切会えず、荼毘に付されました。新型コロナウイルスによる死者は葬儀もできないのです。ご遺族は、二重の悲しみを味わうことになります。
コロナ禍の現状、ことごとく祭礼が中止されました。その中で生じる最大の問題は、夏祭りや盆踊りが担っていた祖霊祭祀と病疫除去という役割を、誰が担うのかというものです。その答えの1つが、「鬼滅の刃」という作品だったと思います。夏祭りは先祖供養であると同時に、疫病退散の祈りでした。それが中止になったことにより、日本人の無意識が自力ではいかんともしがたい存在である病の克服を願い、疫病すなわち鬼を討ち滅ぼす物語であり、さまざまな喪失を癒す物語でもある「鬼滅の刃」に向かった側面があるのではないか? わたしは、そう考えます。
「鬼滅の刃」現象とは、コロナ禍の中の「祭り」であり、「祈り」だったのではないでしょうか。『鬼滅の刃』という物語は、わたしたちの仕事である冠婚葬祭業とも深い関わりがある、いわば「天下布礼」の物語であると言えます。そして、死者を供養し、先祖を祀るという「礼欲」という本能があるかぎり、冠婚葬祭や年中行事は不滅です。すなわち、わたしたちの礼業は永遠に不滅ということです。社会現象にまでなった『鬼滅の刃』という物語が、日本人における「礼」の精神の重要性と普遍性を説くものであったと知り、わたしは大変心強い思いがしました。最後は、「今年も力を合わせて、世のため人のために頑張りましょう!」と言ってから、「亡き人をしのび病を追い払ふ これぞ日の本 鬼滅の祭り」という道歌を披露しました。
「社長訓示」の後は、「部門別決意表明」です。各部門長から力強い決意が述べられました。本部長から決意表明を受け取ったわたしは、「ただ今、みなさんから熱い想いを受け取りました。『鬼滅の刃』の主人公である竈門炭治郎のセリフに『俺はやれる! 絶対にやれる! 俺はやれる男だ!』『がんばれ! 人は心が原動力だから』というものがありますが、これをみなさんに贈りたい」と述べました。
それから、佐久間会長から新成人へのお祝いの品が渡された後、今春に入社予定のみなさんを紹介しました。もうすぐ新社会人となる若者たちの顔は緊張しながらも、キラキラと輝いていました。最後は、手をつながない「和のこえwithコロナ」を小谷部長代理が音頭を取って行い、新年祝賀式典がめでたく終了。全員の心が1つになりました。その後、一同礼をしてから、わたしは佐久間会長とともに退場しました。例年行われる各種表彰者との食事会も中止となりました。ということで、いよいよ新しい年がスタートしました。
日本一の弘法大師像に新著を報告
今年も、「天下布礼」に励みます!
その後、わたしは沖縄、北陸、大分、宮崎と各事業部を回って、新年祝賀式典に参加し、社長としてのメッセージを述べてきました。宮崎では式典後、『「鬼滅の刃」に学ぶ』の見本を持って延岡市にある「今山大師」を参拝し、日本一の弘法大師像に同書の完成報告と「1人でも多くの日本人に読んでいただきたい」という祈願をしてきました。そして昨日、ついに『「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林)が発売されました。紀伊國屋書店新宿本店やクエスト小倉本店などで先行販売されましたが、なかなか売れ行きも順調のようです。Tonyさんにも送らせていただきましたが、早速お読みいただいたそうで光栄です。いかがだったでしょうか? 率直なご感想をお聞かせ願えれば幸いです。今年は、サンレー創立55周年の記念すべき年です。今年も、わたしは自分なりに「天下布礼」の道を歩んでいく所存です。どうぞ、御指導下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。では、次の満月まで!
2021年1月29日 一条真也拝
一条真也ことShinさんへ
1月28日という日は、わたしにとっては特別の日となります。その日、わたしは「宇宙の果て」と出逢ったからです。「宇宙の果て」とは何か? それは「ひ・み・つ」です。「ひ・み・つのやいば」です。
さて、Shinさんは、相変わらず、まことにエネルギッシュですね。経営者として社員を教導し、一定の経営収益を上げつつ、魂速で『鬼滅の刃』についての解説本を書き上げたのですから。1ヶ月もかけずに。超高速「参勤交代」のように。猛速で。
わたしの方は鈍足で、ようやっと、本日、2021年1月28日発売の新著『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)を出しました。コロナ禍の中、要請されるケアと宗教と芸術・芸能との関わりについて、できるだけわかりやすく書いてみました。それが、なぜか、裏千家を母胎とする京都の出版社の淡交社から出しました。そのいきさつは、「あとがき」に書いてありますのでご笑覧ください。
『ケアの時代 「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)
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最近、つくづく思うんですよ。人生はすべて絶妙な縁によって織り成されている、と。そして、その縁というのは、じつに霊妙で、はかりしれない神秘を含んでいる、と。何事でもないようで、あたりまえのようで、とてつもない奇蹟を内在させています。わたしはまもなく70歳、古希を迎えますが、この年齢になって、ますます縁の妙ということを感じます。それはいったいなんなのか?
なんのために、このような不思議が生起するのか? そこに込められたメッセージとは何であるのか? そんなことを突き付けられます。しかし、それに対する明確な答えは出て来ません。しかしながら、神秘不可思議な縁は生起しつづけます。
ところで、まもなく、2月末に『身心変容技法シリーズ第3巻 医療と身心変容』が出版される予定だったのですが、ある予期していなかった出来事が起こり、出版が遅れることになるかもしれませんが、ともかく、その序章の論考「身心変容技法と医療の原点と展開」の中の「3、日本神道から見た医療と身心変容技法」で、Shinさんの『「鬼滅の刃」に学ぶ−なぜ、コロナ禍の中で大ヒットしたのか』を引用しながら、次のように書きました。
≪新型コロナウイルスの感染拡大が続いている中で、医療と宗教ないし身心変容技法との境界面で大きな話題となったのが「アマビエ」という妖怪と『鬼滅の刃』という漫画ないしアニメーションである。アマビエは疫病を予言し、また退散させる力を持つ妖怪とも神とも言える存在で、江戸時代に出てきたが、今回のコロナ騒動で再度浮上した。この突然の流行には、さぞかし当のアマビエも驚いていることだろう。新型コロナウイルスのパンデミックもそうであるが、なぜこのようになったのか、そのメカニズムや連鎖の過程を含めて、本当に予測のつかない、よく分からないことが起こるのである、現実という事態と出来事には。
『鬼滅の刃』の大流行も似たところがある。原作者もアニメ監督もこれほどのヒットし大流行した理由はしかとは分からないだろう。何が、どうなっているのか? と、あれこれ探ってはいるだろうが、確かな答えは得られないはずだ。
とはいえ、いろいろな分析や解釈は可能である。たとえば、一条真也『「鬼滅の刃」に学ぶ−なぜ、コロナ禍の中で大ヒットしたのか』(現代書林、2021年1月刊)には、『鬼滅の刃』のルーツが手塚治虫の『バンパイア』『どろろ』『ぼくの孫悟空』の三作で、仏教の「怨親平等」思想との関わりや神道五部書の『倭姫命世記』の「元々本々」の思想とのつながりや『南総里見八犬伝』の「八徳」との関係などについて触れ、<「鬼滅の刃」現象とは、コロナ禍の中の「祭り」であり、「祈り」だった>と結論づけられている。確かに、以下のキャッチフレーズを聞くと、コロナ禍の中で希望が湧いてくるようなポジティブな気持ちが増してくるかもしれない。
死闘の果てでも、祈りを。
失意の底でも、感謝を。
絶望の淵でも、笑顔を。
憎悪の先にも、慈悲を。
残酷な世界でも、愛情を。
非情な結末にも、救済を。
重ねた罪にも、抱擁を。
これは、日本一慈しい鬼退治。
「祈り・感謝・笑顔・慈悲・愛情・救済・抱擁・慈しさ」、これらは多くの人の望むものであり、すべての項目が身心変容に関わるものでもある。とりわけ、「医療と身心変容技法」をテーマとした本書の観点から興味深いのは、「日の呼吸」や「水の呼吸」など「全集中の呼吸」という呼吸法や「ヒノカミ神楽」などの神楽が描かれている点である。呼吸法や神楽は、仏教や神道の伝統的な身心変容技法で、日本三大祭りとして知られる祇園祭の山鉾巡行や祇園囃子も感染症の除去という役割を課せられきてきた。≫
このように書いたのですが、Shinさんの『鬼滅の刃』論はとても面白く読みましたよ。「身心変容と医療」というテーマに特に関係するのが、30頁に書かれている「呼吸」と「痛み」です。『鬼滅の刃』には、「日・炎・水・雷・岩・風・月・恋・蛇・花・蟲・音・霞・獣」などの呼吸法があり、呼吸の始まりは「日」にあるると書かれていますが、この「日」から、続く「炎・水・雷・岩・風」の5つの基本呼吸と「月」が生まれ、そして、「炎」から「恋」、「水」から「蛇・花・蟲」、「雷」から「音」、「風」から「霞」が生まれてくるというのも面白いですね。
また、『鬼滅の刃』が過去の人気作品から受け継いだ要素として、
①鬼+呼吸+血統という要素
②侍・刀・組織の存在
③敵の力を持つ見方の存在(73‐74頁)
の3点を指摘しているところも、とても興味深く思いました。加えて、「第3章 「鬼滅の刃」が描く魂のルール」として、<神道・儒教・仏教・先祖・祭り>の3つの宗教伝統から考察している点も非常に面白く説得的でした。
こうして、本書『「鬼滅の刃」に学ぶ−なぜ、コロナ禍の中で大ヒットしたのか』が、Shinさんらしく、儀礼論的解釈がその核心にあることも納得・共感できます。「コロナ禍の中の祈りと祭り」としての『鬼滅の刃』。それはどこか、スサノヲ的でもありますね。スサノヲノミコトは八岐大蛇を退治して、妹ならぬ「妹の力」(柳田國男)を持つクシナダヒメと結婚しますが、そこで、二つの神秘が発現します。一つは、八岐大蛇の尾っぽから「天の叢雲の剣=草薙の剣」が発見されたこと。もう一つは、スサノヲが「我が心、清々し」と言って、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」という日本で最初の和歌(短歌)を歌ったことです。
二つの神秘とは、神剣と和歌の顕在化ということです。この神剣は同時に和歌であり、和歌は同時に神剣であります。神剣は、切ることもできるが、つなぐこともできる。本当の神剣は殺す剣ではなく、祈りの剣、蘇らせる剣です。「鬼滅の刃」とは、鬼を斬るばかりでなく、鬼である妹の心を蘇らせる剣ではないでしょうか?
まったく『鬼滅の刃』を漫画もテレビもアニメーション映画も、一切見ておらず、あてずっぽうで言っているだけなので、適切であるかどうか、わかりません。しかし、論理的に考えると、そのようになると思うのです。スサノヲの発見した「天の叢雲の剣=草薙の剣」はヤマタノオロチという一種の「大鬼」を斬ることができる剣ですが、しかし、同時にそれを変容し、生き返らせる剣でもあります。その生き返らせる方法=道が「和歌・短歌」なのです。和歌は人の心を和らげ繋げます。特に恋の歌がそうです。
しかし、それは人と人を、男と女を結ぶだけではありません。神と人、人と自然、いのちあるものをむすぶ声の神聖エネルギーなのです。和歌とは剣の変容した姿であり、剣とは和歌の変容した姿です。そのような、中世の「和歌即陀羅尼説」ならぬ「剣即和歌説」をわたしは提唱しています。
前掲論考で、わたしは、この1年、話題になりつづけた「ソーシャル・ディスタンス」を、「エコロジカル・ディスタンス」と「フィジカル・ディスタンス」と「メンタル・ディスタンス」と「スピリチュアル・ディスタンス」との関係を論じました。そこで、次のように書きました。
≪新型コロナウイルスのパンデミックにより、「ソーシャル・ディスタンシング」(社会的距離を取ること)が奨励されるようになった。感染拡大を防ぐために、「密集・密接・密閉」という「3密」を避けて、車間距離を取るように、身体的・社会的距離を取るということである。ソーシャル・ディスタンスを守らない者は、罰せられないまでも、嫌がられ、距離を取るように指摘されるという社会情勢である。ウイルス感染を防ぐためには、「隔離」がもっとも効果的な方法とされるが、生命維持活動にとって、徹底した隔離も孤立もともに死を意味する。その隔離や孤立の反対が合一や密である。とりわけ、「三密加持・入我我入・感応道交・我即大日」などなど、宗教的思考も志向も、究極の「密」を求めてきた。
2020年に世界中で巻き起こった「ソーシャル・ディスタンシング」の奨励という思いがけない事態は、逆に、身心変容技法の一つの特質を露わにする結果となった。それは、特に密教の「三密加持」とか、あらゆる神秘主義が包含する「神秘的合一」とかの、「密」とか「合(融合・合体・融即)」とかが示している究極的境地(境涯)の特異性や独自性を露わにしたからである。
これまで、「身心変容」の究竟として挙げられてきたのは、神仏などの究極的・根源的・全体的存在と一体になるという境地であった。多くの宗教は合一や密集を重要な教義や儀礼の特色とする。つまり、できるかぎり、距離を縮めることが救済や身心変容につながるという思想や技法が一つの伝統として存在する。韓国での最初期の新型コロナウイルスの感染拡大が「新天地イエス教会」というキリスト教系新宗教での集団儀礼にあったという感染拡大の事例を例に出すまでもなく、密集・密接・密閉などの「3密」状態の創出は、祭りや典礼などの儀礼を活動の中核として持つ宗教の重要な特質である。フィジカル(身体的)・メンタル(心理的)・スピリチュアル(霊性的)な諸レベルでディスタンス(距離)をシフトすることにより、解脱や救済を得ようとしてきたのが宗教的な方法論であったと言うことも可能である。先に見た洞窟における獲物の動物に「成る」というシャーマニズム的儀礼もそのプロトタイプ的な事例であった。
そのことを順序立てて、考えてみよう。大きく捉えれば、地球上では、鉱物・植物・動物たちが相互に関わり合って、地球環境を形作っている。その相互依存性・相互関係性は、俯瞰的かつ総合的に見れば、エコロジカル・ディスタンスによって、絶妙なバランスを保っている。したがって、地球上のあらゆる存在者はこのエコロジカル・ディスタンスの均衡の中にある。
しかし、縄文時代のような狩猟採集時代はいざ知らず、弥生時代以降のような稲作農耕社会となり、定住的な村落を作ったり、都市文明を構築していったりすれば、必然的に「3密」状態が生まれる。人々が密集し、密接に関わり、密閉するさまざまな空間が創造されてくる。タワーマンションのような高層建築はその代表的な密空間である。
それをもう少し歴的な視点から俯瞰的に見れば、「ギルガメッシュ」の叙事詩にあるように、シュメール文明の英雄王となる超人的な能力を持つギルガメッシュは、森の神フンババを殺害して都市の王となった。つまり、森の破壊が「3密」空間を生み出す起爆剤となったということである。そして、原生林を伐採し、野生動物を殺害し、農耕を営んで大量の都市人口を養った。そして、その「3密」化していく社会を強力な接着剤としての王権神話と王権儀礼によって結束させた。こうして、アニミズムやシャーマニズムやトーテミズムのような原始宗教は、強力な王権によって階級化された都市国家宗教に取って替わられることになる。
ここでは、宗教を含む人間のいとなみはすべてエコロジカル・ディスタンスの侵犯を含むと言える。宮崎駿監督の映画『もののけ姫』(1997年製作)のように、シシ神は殺害され、原始の森は改変されて元に戻らない。その文明の発展ないし破壊的展開は、現代の地球温暖化を含む気候変動の大きな原因となっている。
だが、『もののけ姫』では、シシ神の住む森は、もともと神の棲む森として畏れられ、めったに人が入らないタブーの霊地・奥山とされていた。その原生林の森に銃を持った武士や権力者たちが押し入り、森林を破壊し尽くし、シシ神を殺害する。これは人気アニメーション『もののけ姫』の物語的筋書きであるが、大局的に言って、そのような事態が地球上で、人類史上に展開したということである。そのつけを、今、新型コロナウイルスのパンデミックという形で受け取っている。地球がいとなむバランスシート(貸借対照表・収支決算書)は、人間的欲望が作り出す人間的なバランスシートとは異なる。根本的に、エコロジカルなバランスの上に(中に・基に)成り立っているからだ。そのことを、安藤昌益や南方熊楠や宮沢賢治など、自然と人間との関係を問いかけた多くの先人たちは鋭く指摘してきた。
植物は鉱物から栄養を得、枯死して土に戻る。動物も多くは植物や天敵の動物を摂取して、死んで土に戻る。この循環過程は大変複雑で、バクテリア、地衣類、コケ類や枯死した植物や動物などの多様な生物の死骸の分解により有機物と腐植物が溜まり、さらに水や空気などの働きが加わり、複雑多様な混合物としての土(土壌)が生まれる。それらはすべて、エコロジカルなバランスを保ちつつ、絶妙のコンビネーションと安定的な循環と微妙な変化を生み出してきた。
ここまで議論の要点をまとめておくと、次のようになる。
①生きるということは、「距離(distance)」を持つ(保つ)ということである。
②哺乳類の場合、母の胎内から生まれてきて、原初的一から分離する。セパレートされる。
③そして、授乳など母子密着の時期を過ごし、徐々に距離を取ることを覚えていく。
④それが、社会化していくということである。
⑤社会化とは、個体化・個性化であり、自立の過程である(人間の場合、その過程に「実存的痛み」が生まれる)。
⑥したがって、「社会的距離」の形成の前に、あるいは下に、その基盤に、エコロジカル・ディスタンスがある。
⑦ソーシャル・ディスタンスの前に、生態学的距離がある。
⑧ゆえに、「社会的距離」は「生態学的距離」の上に成り立つ。
⑨エコロジカル・ディスタンスとは、棲み分けとか、テリトリーとか、共生とか、食連鎖とも言われている構造であるが、古代シュメール文明の『ギルガメッシュ』叙事詩における森の神フンババ殺害や宮崎駿監督『もののけ姫』(1997年)における「シシ神」殺害に象徴的に表現されているように、それを人間の創り出す「社会的距離」(「3密」も「3密」回避もその一例)が壊してきた歴史がある。
⑩20世紀末から顕著になってきた気候変動・地球温暖化やCovid19や新型鳥インフルエンザの流行などの事態は、社会的距離と生態学的距離の侵犯とフィードバック、すなわち生態系サービスの破壊である。
距離(ディスタンス)関係図
こうした生態系サービスの恵みを、古代の宗教思想は独自の思想的命題として表現している。たとえば、日本天台宗は、平安時代以降、天台本覚思想と呼ばれる特異な即身成仏思想を生み出し、「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」という命題を主張した。仏の目から見れば、草木国土もみな本来ほとけであり、成仏している。これは、究極のエコロジカル・パラダイス(生態学的楽園・楽土)の思想である。
だが、事態も問題も単純ではない。そのような本来心を持たない「無情・非情」の存在者であるとされる「草木国土」もみな「成仏」する、いや本来成仏するまでもなく本来的に仏であるという意味で「不成仏」であると考えられるようになる「草木国土」とは違って、心を持つ有情の典型と言える人間は、ほぼ全員「煩悩」の塊であり、その煩悩はこうした絶妙のエコロジカル・パラダイスを成り立たせているエコロジカル・ディスタンスを破壊していく原動力にもなってきたという点に深刻な問題の在所がある。多くの宗教は欲望のコントロール(制御)を指示し、その方法を示したが、しかしながら、それが全体としてうまく守られ、実現することはなかった。
実際、仏教は五戒の第一に「不殺生」を掲げてきたが、しかし、人類史はさまざまな「殺生」の拡大再生産の歴史であったからである。日本の仏教僧で殺生を伴う「肉食」を避けている人はごく稀である。そして、今なおその「殺生」は拡大しつつある。その意味で、エコロジカル・パラダイスも、エコロジカル・ディスタンスも壊れ続けているのが人類史である。現今の「ソーシャル・ディスタンシング」という要請も、そのような「エコロジカル・ディスタンス」の破壊の上に成り立っている。>
ごめんなさいね。自分の書いた文章を長々と引用するなどという恥知らずなことをして。でも、考えてほしかったんですよ。わたしがこの30年ずっと言い続けている「生態智」の道を。「草木国土悉皆成仏」というのは、そんな「生態智Way」だと思っています。比叡山に登拝しながら、そのことばかりを考えてきました。フランシスコ教皇はその道を回勅『ラウダート・シ—ともに暮らす家を大切に』(瀬本正之・吉川まみ訳、カトリック中央協議会、2016年の中で、「インテグラル・エコロジー(integral ecology)」と言いました。サティシュ・クマールは『人類はどこへいくのか—ほんとうの転換のための三つのCS〈土・魂・社会〉』(原著二〇一三年、田中雅之訳、ぷねうま舎、2017年)の中で、「ホリスティック・エコロジー(holistic ecology)」と言いました。
二人は同じことを、少しだけ違う言葉で述べています。しかし、「インテグラル」と「ホリスティック」には、異なる訳者によって、同じ訳が与えられました。それは、「総合的」という訳語です。「インテグラル・エコロジー」も「ホリスティック・エコロジー」も、ともに、「総合的エコロジー」と訳されているのです。二冊の異なる本を訳した異なる訳者は、異なる用語を同じ訳で繋いだのです。言葉という剣にして歌によって。これは、興味深くも、意味深いことです。
本日、2021年1月28日にわたしは比叡山に登拝しました。比叡山は、日本文化の「インテグラル・エコロジー」と「ホリスティック・エコロジー」、すなわち「総合的エコロジー」の拠点です。それが、「草木国土悉皆成仏」という命題です。その比叡山で、わたしは、お地蔵さんを拝し、日没を拝し、満月を拝しました。東山山系の修学院山から昇ってくる満月(実際は十六夜らしい)は白銀色で、純潔にして、純正でした。わたしは、その天空を翔ける銀の丸舟を見ながら、いつもこんな澄んだ丸いこころでいたいものだとおもいました。
東山修験道678(1月28日、2分47秒):https://www.youtube.com/watch?v=2qKOyemS5kY
とこしへに とこをうかべる よるならば ねてもさめても ときをわすれじ
2021年1月28日 鎌田東二拝
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